「掻き乱す音」

 「掻き乱す音」



放課後。百合を駅まで送り、日向は帰路に着いていた。
携帯電話で時刻を確認すると、バイトまで一時間はある。
一度家に帰って着替えて、ついでに洗濯物も取り込んでしまおう。

自分の持つこの携帯電話は、彼方が与えたものだった。
未成年の彼方が、一人で携帯電話を契約できるわけがない。
きっと彼方の傍には、誰か成人がいるはずだ。その人の家に転がり込んでいるのだろう。
でも、どこでそんな人と知り合うのだろう。
知り合ったとしても、簡単に携帯を与えてもらえるものだろうか。
携帯電話を使いだして、二ヶ月近く経っているけれど、一度も通話料の請求が来たこともない。
彼方か、その成人が支払っているのだろうか。

どう考えても、おかしい。彼方にとって、都合がよすぎる。
住むところも、仕事も、携帯も与えてもらえるなんて、そんな都合のいい話があるものか。
もしかしたら、彼方は、誰かに唆されているのではないか。
上手く操られているだけなのではないか。
上手く操られて、犯罪の片棒を担がされているのではないか。

将悟は、誠が何か知っていると言った。
そんなの全く気にならない。そう言えば、嘘になる。
本当は凄く気になる。あの場で、将悟に問いただしたかった。
どうして誠は、彼方のことを知っているのか。彼方とはどういう関係なのか。彼方はどこにいるのか。彼方は無事なのか。

けれど、自分にそんな資格なんてない。
自分は百合を選んだ。百合だけを選んだ。
もう彼方のことを、忘れないと―。


見晴らしがいい海沿いの閑散とした田舎道。
変わり映えのないこの景色は、毎日彼方と歩いてきた道のりだ。
見下ろせば青い海、見上げれば歪な段々畑が見渡せる。
空と海が交わる水平線。風よけの背の高い木々。潮の匂いと、名前も知らない小さな花。
とても商店街と呼べないような、古びたシャッター街。
その中に、ポツリポツリと昔ながらの八百屋や魚屋が並ぶ。
いつもこの商店街は、閑古鳥が鳴いている。
小さいけれど、近くにスーパーがあるため、こんなところに来る人間は、ほとんどいないだろう。

その小さな商店街を通り抜けて、日向は足早に家路を急ぐ。

「日向君!」

ふいに、後ろから声を掛けられる。
振り向けば、千秋が商店街からひょっこりと顔を覗かせていた。

「ごめんね、待ち伏せみたいなことしちゃって。でも、どうしても日向君とお話ししたかったの。
 学校じゃ、いつも他の子に囲まれてるから…。」

そう言って、千秋は遠慮がちに日向に近寄ってくる。

「あの…日向君に彼女いるの知ってるし、その…変な話するつもりじゃないんだけど…えっと…あ、やっぱりちょっと変な話かもしれない…。でも、そういうのじゃなくてね、…えーっと、その…。」

もじもじと言い辛そうに、千秋は言葉を探す。
なんだか気まずい。自分は一度千秋をフッている。

「…話って、何?」

日向がそう聞くと、千秋はぎこちない笑顔を浮かべる。
思えば、夏休みにスーパーで会った時以来、口を聞いていない。
夏祭りも断ってしまったし、気まずいのはお互い様のようだ。
告白されて、フッた側とフラれた側だと、尚更だ。

「えっとね…彼方君が体調崩してるって、本当?」

千秋はギュッとスカートの裾を握って、躊躇いがちに切り出した。
自分を前にして緊張しているのか、俯いて、上目がちに自分を窺っていた。

「ああ…うん。」

「いつから?」

「夏休み…くらいから。」

ああ、今日はなんて日だろう。
忘れようとしていた彼方の話ばかりだ。
将悟も千秋も、どうして今になって彼方のことを蒸し返すのだろう。
せっかく皆が忘れかけてきた頃だったのに。

「それって七月?八月?」

「えっと…八月入ってから…。」

質問が具体的になってきた。
そこまで詳しいことは考えていなかったから、日向は心の中で焦る。
本当のことなんて、言えない。言えるはずがない。
日向は必死に頭を働かせて、付け焼刃の嘘を重ねる。

「…嘘だよね?」

千秋は小さく呟く。
そして、もう一度スカートの裾をギュッと握り直して、顔を上げる。
日向を見つめて、千秋はハッキリとした口調で言った。

「知ってた?日向君、嘘吐くとき目を逸らすの。
 私、ずっと日向君を見ていたから、わかるよ。日向君は、嘘を吐いてる。」

千秋に言われて、自分の視線が泳いでいたことに気付く。
日向は慌てて取り繕おうと、千秋を見据える。
けれど、その真っ直ぐな強い瞳に怯んで、反射的に目を逸らしてしまう。

「…嘘なんか、吐いてない。」

声が、震えた。
言葉とは裏腹に、態度は嘘を肯定している。
誤魔化さないといけないのに。彼方がいないことを、隠さないといけないのに。

「本当は、彼方君…体調崩してなんかいないんじゃないの?
 ねえ、どうして彼方君は学校に来ないの?彼方君は何をしているの?
 何かあったの?何があったの?どうして日向君は、嘘を吐くの?」

「だから…体調崩して寝込んでるだけだって…。」

畳みかけるような千秋の質問に、口先だけで、必死に誤魔化す。
意識と反して、視線が忙しなく泳ぐ。
 
「じゃあ何の病気なの?なんで寝込んでるの?
 もう学校始まって三週間だよ?ただの風邪とかじゃないよね?」

千秋は一歩踏み出して、日向に詰め寄る。
日向は、反射的に三歩後退った。

「それは…。」

上手い言葉が見つからず、口ごもる。
それでも、必死に答えを探して、視線は地を彷徨う。
けれど、その視線は、千秋に捉えられた。

「ほら、嘘だよ。ねえ、日向君。嘘吐くのは、もうやめて。」

強い瞳が、自分を見つめる。
千秋は、勘だけで言っているんじゃない気がした。
それでも、本当のことなど言えない。言えるわけない。言ってはいけない。

「本当だって…彼方は体調崩して寝込んでて…それで…。」

言っていて、どんどん声が小さくなる。
下手な嘘に、自信がなくなる。
さっきから同じことしか言えていない。
もっと上手く誤魔化さないといけないのに、言葉が出てこない。

「あのね、日向君。」

千秋は、少し悲しそうな顔をした。
まるで、嘘を吐き続ける自分を、憐れむような顔。
継ぎ接ぎだらけの陳腐な嘘は、見透かされている。

「彼方君…元気でしょ?
 私、見たの。夏休みに、彼方君を見たの。
 八月に、街の方のおっきい花火大会で見たんだよ。
 彼方君は元気そうだった。うちの学校の子と、デートしてたんだから。」

言葉が出なかった。
これ以上、嘘を重ねても無駄だ。けれど、認めるわけにはいかない。
認めてしまえば、次は彼方がいなくなったことがバレてしまう。
日向は、ただ黙ることしかできなかった。

「ねえ、彼方君は寝込んでなんかいないじゃない。
 どうしてそんな嘘を吐くの?彼方君はどうして学校に来ないの?」

一歩、一歩と千秋は日向に詰め寄る。

「日向君…最近おかしいよ。
 そんな嘘を吐く人じゃなかったじゃない。嘘を吐かないといけない理由があるの?
 彼方君とも、あんなに仲良かったのに…どうして彼方君の話をしなくなったの?」

千秋の顔が見れなくて、日向は地面を見つめる。

「もしかして、…彼方君、いなくなっちゃったの?」

心臓が、ドクンと跳ねた。

どうしよう。どうすればいい。
焦りと動揺で、喉がカラカラに乾く。
否定しても、すぐバレてしまう。肯定は、できない。
もう稚拙な嘘は吐けない。上手く、誤魔化さなきゃ。
日向は必死で思考を巡らせる。

「あの、さ…。」

なんとか、話を切り替えなくては。
適当に誤魔化して、この場を切り抜けよう。そうするしかない。

「花火…彼方と一緒にいた子って、誰?」

「え…?」

とっさに出た言葉は、自分でもわかるほどに、わざとらしかった。
無理矢理に話題を逸らそうとしているのが、見え見えだ。
千秋も困惑して、ポカンと口を開けた。

「同じクラスの子?彼方…そんなこと言ってなかったからさ…。」

日向は、不器用な笑顔で取り繕う。
千秋は何か言いたげに口を開いたが、むっとした表情をして、すぐに閉じた。
そして、目を逸らして、ポツリと零す。

「…二年生だよ。去年、私と委員会同じだった、竹内京子さん。」

その言葉に、日向は目を瞠った。






薄暗い部屋で、彼方は左手にカッターを押し当てていた。
冷たくて固い感触が手首に伝わる。
このまま切り裂いてしまえば、死ねるのだろうか。

鏡を見ることが、嫌いになっていた。
鏡に映る自分が、どんどん日向と違っていくのを見るのが、怖かった。
ずっと日向と一緒だった。髪型も、服装も、何もかも全て。
自分と同じ姿の日向が、好きだった。
日向と同じ姿の自分に、安心した。

けれど、日に日に日向と違っていく自分を見て、怖くなった。
望んで変わったはずなのに、傷んだ茶髪も、強がりで開けたピアスも、疲れ切った顔も、見ていられなくなった。
日向と違う姿の自分が、なんだか汚いもののように思えた。
こんな自分に、存在価値なんてないんじゃないかと思った。

今日、美容院に連れていかれて、髪を染め直した。
若い女の美容師は、自分に残る最後の日向の痕跡を、綺麗に塗りつぶした。
そして、日向とは違う手付きで、自分の髪を切った。
ハサミが髪を切る音を聞くたびに、心の中で何かが壊れていくような音を聞いた。
日向との繋がりが、一つ一つ消えていく。
もう自分の中に、日向は残っていなかった。

日向と離れて、家に帰らなくなって、自分の体は綺麗になった。
虐待を受けることもなくなって、すっかり傷も痣も消えた。
けれど、その代わりに、どんどん心は荒んでいった。

酒、煙草、女。日向を忘れられるなら、何にでも溺れた。
このままどこまでも溺れていって、呼吸ができなくなればいいと思った。
汚れきって、死んでしまえばいいと思った。
自分に救いなんてない。これ以上は、生きていても辛いだけだ。

誰にも愛されない。誰も愛してくれない。
どこまでも自分は、独りぼっちだと実感した。
寂しい。怖い。辛い。独りはひどく恐ろしかった。

日向は、自分だった。
日向は、自分の半分だと思っていた。
自分も、日向の半分だと思っていた。
二人で一つ。一人は二人。
二人でいれば、完全だと思っていた。

一人になってしまった自分は、半分だけになった。
心が隙間ができて、痛かった。苦しかった。寂しかった。
隙間を埋めるものなんて、なかった。
埋めてくれる人なんて、いなかった。
誰も日向の代わりになんて、ならなかった。

日向も半分になった。
そのはずなのに、日向は、満たされていた。
憎らしい女と、手を繋いで笑っていた。
その姿は、本当に幸せそうだった。
あんな笑顔、自分には見せてくれなかったのに。

日向の幸せそうな姿を見て、妬ましいと思ったと同時に、悲しくなった。
空っぽになったのは、自分だけだった。
自分だけが、不幸だった。

なんだか馬鹿みたいだ。まるで道化だ。
どうして、こうなってしまったのだろう。

間違ってたんだ。
最初から、間違ってた。
全部全部、間違ってたんだ。

自分なんて、生まれなければよかった。
日向と双子になんて、生まれなければよかった。
日向に依存なんて、しなければよかった。
日向のことなんて、好きにならなければよかった。

ああ、そうだ。
自分が生まれたことが、間違いだったんだ。
こんな自分が、誰にも愛されるわけなんてなかった。
こんな汚い自分なんて、誰も愛してくれない。
もう生きていたって、しょうがないじゃないか。

彼方はカッターを握る手に、力を込める。
そして、静かに手首を切り裂いた。






深夜、家の中に電話の着信音が鳴り響く。
時刻は、午前零時を回っていた。
リビングの固定電話が、着信を知らせるランプを点滅させている。
自宅の固定電話が鳴るのは久しぶりだ。こんな時間に誰だろう。
なんだか嫌な予感がする。

日向は不審に思いながらも、受話器を取った。

「…もしもし。」

『夜分遅くにすみません。高橋さんのお宅で間違いありませんか?』

電話の向こうは、知らない男の声だった。

「はい、そうですけど…。」

なんだか、焦りを無理矢理押し殺したような冷静な声だった。
どことなく、緊迫したような空気を感じる。
けれど、こんな深夜に電話してくる時点で、碌な内容ではないことは、察していた。

日向の考え通り、男は冷静に、ゆっくりと、落ち着いた口調でこう言った。


『お母様が、事故に遭われました。』

麻丸。
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麻丸。

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