「壊れかけた心」
「壊れかけた心」
その日は雨が降っていた。
雨のせいか、少し肌寒い火曜日。
京子は授業を終えて、自分の家へと向かっていた。
半袖のセーラー服から覗く腕には、鳥肌が立っている。
つい最近まで暑くて仕方がなかったのに、いつの間にか夏が終わり、すっかり秋になっていた。
山の木々は、赤や黄色に染まり、色とりどりに紅葉を始める。
稲穂が黄金に色付き、風に煽られ揺れる。
風が強い。そういえば、台風が近づいてきているんだっけ。
昨日は、バイトが休みだったから、日向と顔を合わせることはなかった。
どんな顔をして日向に会えばいいかわからなかったから、ちょうどよかったと思う。
日曜日にバイト先に誠が訪れてから、心の中は動揺と不安でいっぱいいっぱいだった。
「会いたくなっちゃった」彼方は、電話で切なそうに言った。
きっと月曜日も家で待っていると思ったが、昨日彼方は現れなかった。
毎日毎日、飽きもせずに自分に会いに来ていたのに。
たまたま、忙しかっただけなのだろうか。
ずっと待っていたのに。色々話したいことがあったのに。
会えないと、少しだけ寂しいと感じてしまう。
ああ、すっかり自分は、彼方に絆されてしまっている。
彼方のことが好きだと気付いてから、元々素直じゃない自分が、更にあまのじゃくになる。
心の中では悔しがるし、言葉では冷たく否定してしまう。
態度では、いつも以上に素っ気なくしたり、妙に積極的になったり。
口が滑っても、「好き」だとは言えない。
心の中では認めてしまっても、口に出すのが、怖かった。
家に着いて、玄関を開けると、彼方の靴があった。
いつも通り雑に脱ぎ散らかされていて、傘立てには、まだ水滴が滴るビニール傘が差さっていた。
―彼方が来ている。
京子は安心したような、嬉しいような、そんな気持ちになった。
けれど、そんな自分の感情を自覚すると同時に、悔しくもなる。
いつの間にか、彼方がいることが当たり前になっていて、いないと寂しいと思ってしまうなんて、本人には言えない。
やけに静かだ。
いつもは玄関までテレビの音が聞こえていて、自分が帰るとリビングから顔を覗かせるのに。
この激しい雨音のせいで、自分が帰ったことに気付いていないのか。
京子は不審に思いながらも、靴を脱いで家に上がる。
キッチンを通り抜けて部屋に扉を開けると、彼方の姿が見えた。
彼方はベッドの上で子供のように身を丸めて、自分の布団を抱きしめるようにして眠っていた。
近付いてみると、仄かに服や髪が湿っている。
「彼方さん、起きてください。」
京子は、彼方を起こそうと肩を揺さぶる。
雨のせいか、彼方の体はすっかり冷えていた。
「ん…京子ちゃん?」
彼方は薄らと目を開けた。
「体、濡れてるじゃないですか。風邪ひきますよ。」
「ごめんね。勝手に寝てた。」
ごしごしと目を擦って、彼方は大きな欠伸を一つ。
そして、もう一度布団をギュッと抱きしめて、言った。
「…京子ちゃんのベッドは、なんだか落ち着くねえ。京子ちゃんの匂いがする。」
「その台詞、なんだか変態っぽいですよ。」
「そうかな?」
「そうですよ。」
彼方はふふっ、と笑って、身を起こす。
なんだかいつもと違う気がする。
ほんの少しだけ、何かが変わった気がする。なんだろう。
京子は、彼方の顔をじーっと見つめる。
彼方は不思議そうに首を傾げた。
「髪、切りました?」
「…うん。優樹さんに、美容室連れてってもらった。」
やっぱりそうか。
ほんの少しだけれど、髪が短くなっている。
プリンになっていた髪も、綺麗に染め直されていた。
「前より、いいじゃないですか。」
少し恥ずかしいけれど、たまには素直に褒めてやろうかと思った。
お世辞なんかじゃなく、以前よりサッパリした茶髪は似合っている。
悔しいけれど、カッコいいと思った。彼方は、カッコいい。
「似合ってますよ。」
照れているのを悟られないように、わざと素っ気なく言う。
けれど、彼方は表情を曇らせた。
「…本気で言ってるの?」
苛立ちが混じった、低い声。
「え?」
意味がわからず、京子は戸惑った声を上げる。
彼方はハッとした様子で、首を振った。
「…ごめん、なんでもない。」
そう言って、彼方はすぐに取り繕って、不器用に笑った。
無意識だったのだろうか。取り繕うのが、わざとらしい。
そう思ったけれど、京子は何も言えなかった。
「それよりさあ、僕、ちゃんと禁煙してるよ。」
「本当に、禁煙始めてくれたんですか?」
「うん。あれから一本も煙草吸ってないよ。禁煙三日目。」
「頑張ってるじゃないですか。」
「でしょ?…ね、口寂しいなあ。」
可愛らしく首を傾げて、彼方は甘えた声で言う。
唇に指を添えて、キスを強請るような仕草だ。
京子は土曜日のことを思い出して、恥ずかしくなった。
ああ、自分はどうして、あんなことをしてしまったのだろう。
どうして、あんなに積極的になれたのだろう。
「…しませんよ。」
照れ隠しで、言葉が素っ気なくなる。
あんなこと、何度もできるわけがない。
「えー、してくれないの?」
「ええ。」
「…そっか。残念。」
そう言って、彼方はしょんぼりと肩を落とす。
残念そうにする姿は、本当に子供のようだった。
それから、タオルで濡れた体を拭かせて、自分も着替えた。
いつもの兄にもらった部屋着ではなく、彼方に買ってもらった白いチュニックと黒いミニスカート。
変な意味はないけれど、せっかく買ってもらったし、こんな服を着る機会なんてないから、彼方の前だけ、彼方の選んだ服を着る。
そんな自分の姿を見て、彼方も嬉しそうに笑ってくれたから、いいだろう。
彼方に笑顔を向けられるのは、悪い気がしない。
今日の彼方の貢物は、可愛らしいモンブラン。
いつものように、ソファーに腰掛けて、テレビを見ながら食べた。
いつもと違うのは、今日は少しだけ二人の距離が近いこと。
ピッタリとくっつくわけではないが、以前のようにソファーの端と端ではなく、少しだけ、ほんの少しだけ二人の距離は縮まった。
「ちゃんと首輪もつけてくれてるんだ。」
珍しく、棒のついた飴を舐めながら、彼方は言う。
本当に禁煙を始めたのか。
それにしても、煙草の代わりに飴だなんて、なんだか可愛らしい。
「首輪って言い方やめてくださいよ。」
京子はモンブランを頬張りながら、むっとした表情で答える。
首輪だなんて、まるで彼女じゃなくて、ペットみたいじゃないか。
「ふふっ、いいじゃない。学校でもつけてくれてるの?」
嬉しそうに、彼方は笑う。
その笑顔を向けられると、嬉しい反面、なんだか気恥ずかしくなる。
「…お風呂入る時以外は、ずっとつけてますよ。」
「ホント?京子ちゃん、あんまりアクセサリーつけないって言ってたのに。」
「せっかく貰ったんだから、使ってあげているだけです。」
照れ隠しに、上から目線になる。
けれど、京子の胸元には、銀のネックレスが輝いていた。
毎日肌身離さずつけている、猫と月のネックレス。
自分を縛り付けようとする、彼方の独占欲の証。
テレビからは夕方のニュースが流れていた。
年間の自殺者が増えているとかいう、どうでもいいニュース。
彼方は静かにテレビを見つめていたが、やがて京子の肩に頭をコテンと乗せて、凭れかかってきた。
突然のことに、京子は驚いて彼方を見たが、彼方は目を閉じて京子に体重を預けていた。
まだ髪は、仄かに湿っている。短くなった髪が、首元を掠めてくすぐったい。
「どうしたんですか、突然…。」
彼方は何も言わない。
何もせず、何も言わず、ただ静かに自分に凭れかかっている。
まるで、自分の体温を確かめているようだった。
何を考えているのだろうか。長い睫毛の先の瞳は閉じられていて、わからない。
しばらくして、彼方はポツリと呟いた。
「ねえ、京子ちゃん。僕、もう疲れちゃった。」
消え入りそうな、小さな声。
その声は、切なさと悲しさを含んでいた。
「やっぱり僕、死んだ方がいいよねえ。」
その言葉に、京子は嫌な寒気を覚えた。
「死ぬ」だなんて、一体何を言いだすんだ。
なんだか、今日の彼方は、情緒不安定だ。
「なんですか…突然。」
「こんな僕なんて、生きてる価値、ないよね…。」
笑ったり、苛立ったり、甘えてきたり、切なそうにしたり。
今日の彼方は、感情の起伏が激しくて、不安定だ。
「もう…死んじゃいたい。」
ポツリ、ポツリと、彼方は小さく言葉を零す。
今日の彼方は、様子がおかしい。
最近は、少しだけ元気そうに見えていたのに。
「…何か、あったんですか?」
そう京子が聞いても、彼方は目を閉じたまま、答えない。
何の反応もない彼方が怖くなって、京子はそっと彼方の手を握る。
彼方は一瞬だけ目を薄らと開けて、京子の手を握り返した。
雨に濡れたせいか、彼方の体温がやけに冷たくて、京子は余計に怖くなった。
「電車とかに飛び込んだら、死ねるかなあ。」
自分の手を握ったまま、静かに呟く。
曖昧な言葉だけれど、彼方は、本気で自殺を考えている。
どうして、そんなことを。日向の傍にいられないからって、どうして。
思い返せば、予兆はあった。
―煙草ってさ、ゆっくり自殺するのと同じなんだって。
煙草を吸い始めた時、彼方はそう言った。
最初から、彼方は死ぬつもりだったのか。
日向の傍を離れて、一人で死ぬつもりだったのか。
そんなこと、させない。させてたまるか。
勝手に首輪をつけておいて、勝手に死ぬなんて、許さない。
まだ好きだとさえ、伝えられていないんだ。
京子は、彼方の手をギュッと、力強く握った。
自殺なんて、馬鹿な真似は絶対にさせない。
「…飛び込みは、鉄道会社から残った遺族に、ウン千万単位で損害賠償を請求されるらしいですよ。払えるんですか?」
京子は平静を装って、わざとデメリットを挙げる。
自殺したっていいことなんてない。そう思わせなければ。
なんとか考え直させて、生きていてもらわなければ。
「それは困るねえ。ウン千万なんて払えないや。それに、日向に迷惑はかけられない。
じゃあ、首吊りでも…してみようかなあ。」
彼方は目を瞑ったまま、表情を変えずに呟く。
声に抑揚がないから、どこまで本気かわからない。
冗談だとしても、タチが悪い。
「首吊りは、糞尿垂れ流しになるらしいですよ。それに、死ねなかったら、後遺症が残ったり、一生植物人間ですって。」
「うーん…死に損なったら大変だねえ。じゃあ高いところから飛び降りちゃおうかな。一瞬で死ねそうだし。」
「それも土地の所有者から、損害賠償取られますよ。」
「そうなんだ…。じゃあ、切腹でもしてみようかな。武士みたいに。」
まるで、なんでもない世間話のように、物騒なことを話す彼方。
その顔には、笑みも恐れも何もない。
ただただ、無表情だった。
「できるんですか?臆病者のくせに。」
「京子ちゃんは厳しいなあ。」
そう言って、彼方は薄く笑う。
やっと彼方の表情が綻んだ。
けれど、翳りは消えないままだった。
「…本気で自殺するつもりですか?」
「駄目かな?」
「駄目です。許しませんよ。」
厳しい口調で、京子は咎める。
離さないように、爪が食い込むほど強く、彼方の手を握った。
情けないくらいに、痛いのも、怖いのも、苦手なくせに。
そんないつもの臆病な彼方であってほしかった。
自分で命を絶つことなんて、しないでほしかった。
彼方はゆっくりと目を開けて、繋いだ手を見つめた。
爪が食い込んで、僅かに血が滲んでいる。
けれど彼方は、痛いだなんて、言わなかった。
「一回ね、日向に首を絞められそうになったことがあるんだ。」
抑揚のない声で、ポツリと彼方は呟く。
その言葉に、京子は目を瞠った。
「…されてないよ?されそうになっただけ。日向は優しいから、そんなことできない。
でも…あの時、ちゃんと僕を殺してくれたらよかったのに。そうしたら、お互い幸せだったのに。」
そう言って、彼方は顔を上げて、笑った。
切なさと悲しみを含んだその笑顔は、今にも崩れ去りそうだった。
ただただ、儚く、脆く、曖昧な笑みだった。
「どうせなら、日向に殺されたかった。」
その笑顔が、なんだか怖くて、京子は鳥肌が立った。
このまま彼方が消えてしまう気がした。
本当に、命を絶ってしまう気がした。
京子は、無意識に彼方を抱きしめた。
痩せ細った肩を抱き、その冷たい体に体温を分け与える。
その冷たい心が溶けるように。寂しい心が埋まるように。
自分は日向の代わりには、なれない。
けれど、自分は彼方の彼女だ。
代わりなんかじゃなくていい。
彼女として、この脆く弱いこの人を、守りたくなった。
彼方は京子の腕の中で、微動だにしなかった。
されるがまま、京子の腕の中に閉じこもる。
「ねえ、京子ちゃん。僕、生きてていいのかなあ。」
「生きて…生きてください。」
彼方を抱きしめる腕に、力が籠る。
「ああ、京子ちゃんは暖かいねえ。」
彼方も京子を抱きしめて、体温を貪った。
「ねえ、僕のこと好き?」
辛くなるほど切ない瞳で、彼方は自分を見つめる。
光のない目は、まるで壊れた人形のようだった。
「嘘でいい。嘘でいいから、好きって言ってよ。」