「雨のワルツ」

 「雨のワルツ」




「京子ちゃんってさ、元々こっちの人?」

「いいえ。高校からです。元々は、お兄ちゃんが住んでる街の方の出身です。」

雨の音を聞きながら、二人はベッドの中で抱き合っていた。
何をするわけでもなく、ただお互いの体温を確かめていた。

「そうなんだ。ねえ、夫婦岩って知ってる?」

彼方の長い指が、髪を撫でる。

「夫婦岩…?すぐそこの観光スポットですよね?」

「観光客なんて、全然いないけどね。行ったことある?」

「いいえ。遠くから見たことしかないです。」

「僕ね、小さい時から、そこがお気に入りだった。
 周りは断崖絶壁で…よく日向と一緒にそこで遊んでてね、危ないっていつもおばあちゃんに怒られてた。
 おばあちゃんはね、いつも優しいんだけど、怒るとすっごく怖かった。」

今日の彼方は、饒舌だ。
昔を懐かしむように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「…おばあちゃん、心配してるんじゃないんですか。」

「おばあちゃんは、僕らが五歳の時に死んだよ。それからは、日向と二人きり。」

「…ごめんなさい。」

彼方は気にした様子はなく、静かに微笑む。

「夫婦岩はね、夕日が綺麗なんだ。海に浮かぶ岩だから、周りを全部見渡せる。
 おっきな岩が二つあってね、なんだかそれが僕と日向に見えた。
 だから、あの場所が好きだったんだ。」

京子は、黙って彼方の思い出話を聞いていた。
彼方の過去なんて、何も知らなかった。
自分から聞くこともなかったし、彼方も話そうとはしなかったからだ。
以前、母親がネグレクトをしていると聞いただけ。

「おばあちゃんが死んでから、僕と日向は二人きりだった。
 まだ五歳だったんだよ?たった五歳で日向は家事覚えて、なんとか二人で生活してきた。
 僕も日向の真似して、洗濯したり料理したりもしたんだけどさ、全然駄目でさ。ほら、僕不器用だから。
 結局家のことは、全部日向に任せっぱなしだったなあ。」

慈しむように、彼方は笑った。
日向の話をする彼方は、いつだって自然だった。
自然に笑って泣き、慈しみ、愛おしむ。
真っ直ぐなひたむきな想いが、痛いほどに。

「…京子ちゃんには、僕のお母さんの話したことあったよね?」

「…はい。」

「母さんはね、たまに家に帰ってきてたんだよ。
 でもね、帰ってくるたびに、酒に酔って暴力を振るってた。
 母さんが飽きるまで殴られて、蹴られて、体中が痣とか傷だらけになった。」

彼方は悲しそうに、長い睫毛を揺らして目を伏せた。
そして、京子をぎゅっと抱き寄せる。

「僕らさ、本当は元気なのに、そんな体見られたくないから、体が弱いから体育できないとか、夏でも長袖着たりしてさ、ずっと隠してた。」

京子はじっと、降り続く雨音と、彼方の鼓動を聞く。
彼方の胸に顔を埋めて、ドクン、ドクンと、彼方が生きている音を聞く。
冷えた体は、すっかり暖かくなっていた。

「一回、本当に死のうとしたことがあったんだ。そんな虐待とか嫌になってさ。
 その時も夫婦岩の近くでね、…入水しようとした。
 けど、…日向は見つけてくれたんだよ。
 僕、何も言わなかったのに、雨の中びしょびしょになりながら、僕を見つけてくれた。
 僕を抱きしめて、僕がいなくなったら生きていけない、って…言ってくれた。」

彼方にそんな過去があったなんて。
だから日向に執着しているのか。
無理もない。彼方が心を許せるのは、日向だけだったんだ。
本当に彼方のことを理解してやれるのは、日向しかいなかったんだ。
どんなに人に囲まれていても、どんなに女にモテても、抱えた秘密が大きすぎたんだ。

「日向は、僕の神様だったんだよ。日向がいたから、生きていられた。」

切ない言葉が、彼方の口から洩れる。
それでも精一杯愛おしそうに、甘く切ない響きだった。

「私は…貴方の神様には、なれないんですか?」

その言葉に、彼方は曖昧に笑った。
やっぱり彼方にとって日向は特別で、その特別に、自分はなれないんだ。
たとえ日向の代わりになれなくても、彼方の特別になりたかった。
彼方の唯一になりたかった。この人を、救いたかった。

「明日、学校サボっちゃおうか。」

「え?」

突然、彼方の声が明るくなって、京子は戸惑う。
いつもの、少しおどけた調子の彼方に戻っていた。

「夫婦岩、行こうか。僕と日向だけの秘密の場所に、京子ちゃんも連れて行ってあげる。」

「観光名所なのに、秘密の場所なんですか?」

「観光客なんていないって。いたとしたら、よっぽどの物好きだよ?岩と海しかない場所だもん。」

「そんなところに、女の子を連れていく気ですか。」

「京子ちゃんだけは特別、だよ。」

そう言って、彼方はふふっと笑う。子供のような無邪気な笑み。
特別。耳元で囁く低い声が、なんだか心地いい。
同時に何故か怖くなって、京子は彼方を抱きしめる手に力を込める。
壊れてしまいそうなほど、細い体だった。

―この人を、手放したくない。

今、彼方は、京子の腕の中で、生きている。
凍えそうになりながら、必死に温もりを貪っている。
欠けた心を痛がって、助けを求めている。
嘘でいいと言いながら、愛されることを望んでいる。
不器用で、愚かで、寂しい人。

―嘘でいい。嘘でいいから、好きって言ってよ。

その言葉に、京子は何も言えなかった。
恥ずかしさと、プライドと、少しの自尊心が邪魔をした。
でも、今なら言える気がした。
今なら、ちゃんと自分の口で気持ちを伝えられる気がした。

「…彼方さん。」

「んー?なあに?」

彼方は低く甘い声で囁きながら、京子の髪に指を遊ばせる。
京子の短い黒髪は、彼方の長い指に絡んでは解けた。

なんだかやっぱり恥ずかしい。彼方の顔が見れない。
でも、言わなくちゃ。ちゃんと言わなくちゃ。
今しかないんだ。自分が素直に好きだと言えるのは、今だけだ。
頬が熱くなるのを感じる。心臓が早くなる。
たった二文字の言葉なのに、口にするのを躊躇う。
言うのは一瞬だ。その一瞬のために、自分は今こんなにもドキドキしている。
京子は彼方の胸元に顔を埋めたまま、小さく深呼吸をする。

平静を保って、なんでもない風を装って、

「…好き…です。」

消え入りそうな小さな声を洩らした。

言ってしまった。
心臓がバクバクしている。無意識に彼方を抱きしめる腕に、力が籠っている。
恥ずかしい。自分は素直に好きだなんて、言うような女じゃないのに。

京子は恥ずかしさに耐えながら、彼方の反応を待っていたが、彼方は何も言わない。
恐る恐る顔を上げて彼方を見ると、彼方は目元を手で覆っていた。

「彼方さん…?」

「…ホント?」

押し殺したような声で、彼方は聞く。
表情が見えない。彼方は何を思ったのか。

「…私がそんな冗談を言うように見えますか?」

「…見えない。」

「…そういうことですよ。」

目元を覆っていた手をどけると、彼方の瞳は潤んでいた。

「そっか。…そっかあ。」

そう言いながら、彼方は京子を強く抱きしめる。

「なんだろ…なんか…嬉しくなってきちゃった。」

そう耳元で呟くと、彼方は涙を零した。
嬉し泣き、というやつだろうか。
馬鹿にされて笑われるかと思ったのに、驚いた。

彼方は不思議な男だ。
モテるし、告白なんて慣れているだろうし、キスやその先だって、いろんな女としてきただろうに。
以前だって、自分の不意打ちのキスに、彼方は顔を赤らめた。
どうして自分が好きだと言っただけで、泣くのだろう。
彼方は見た目はほとんど大人なのに、中身は子供のようだ。
純情、とは言わないけれど、時々純粋で無邪気な一面を見せる。
大人でもない。子供でもない。
頑張って背伸びをして、大人ぶっている子供のようだ。
中途半端に、強くあろうとしているみたいだ。
本当は怖がり痛がり寂しがりで、泣き虫なくせに。
日向の傍を離れて、一人で生きていけるだなんて寂しいことを言って、強がっている。

そんな彼方が愛おしくて、でも、なんだか切なくなった。

「京子ちゃん、好きだよ。」

そう言って、彼方は泣きながら笑った。






白い壁、白い床、白い天井。
無機質な空間で、日向はベッドに横たわる女を見ていた。
体中に包帯が巻かれて、腕や胸には無数のチューブや機械が繋がれている。
口元には呼吸器が付けられていて、か細い呼吸を繰り返していた。
静かな部屋で聞こえるのは、振り続く雨音と、よくわからない機械の電子音。
ピクリとも動かない目の前の女は、まるで死んでいるのではないかとさえ思うほどに、青白かった。

この女の顔をはっきりと見るのは、初めてかもしれない。
歳の割には、綺麗で整った顔立ち。細い体に長い手足。
きっと、美人だと言われる部類の女だろう。
長い睫毛や白い肌、シャープな顎に、すっと通った鼻筋は、母親譲りなのだと思う。
ベッドに横たわる女は、まぎれもなく自分の母親だった。

交通事故だったらしい。
大型トラックに撥ねられて、意識不明の重体だと電話で聞いた。
けれど、実際には、外傷は左腕の骨折と、掠り傷や、打撲程度でたいしたことないらしい。
しかし、頭を強く打って、生死の境を彷徨っていた。
そして、昨日の夜中から集中治療室で処置を受けて、ついさっき、一命をとりとめた。

この女は、まだ生きている。
呼吸器の中で、か細い呼吸をしている。
体中に繋がれた機械で、かろうじて心臓を動かしている。
いっそ、死んでくれたらよかったのに。

集中治療室の前で待つ間、何度もそう思った。
助かるのを待つのではなく、息絶えるのを待っていた。
その呼吸が、心臓が、止まるのを待っていた。
祈るような気持ちで、彼女の死を願った。
無限に続く虐待から、解放されるのを、心待ちにしていた。

けれど、現実は上手くはいかなかった。
彼女は、かろうじて生き延びた。

まだ意識は戻らない。
けれど、目を覚ましたら、自分を見てどんな顔をするのだろう。
彼女の終わりを見届けようとしていた息子に、どんな言葉を投げかけるのだろう。
罵詈雑言を浴びせられて、また殴られるだろうか。
いや、相手は怪我人だし、場所が場所だ。それはないと、思いたい。

医者の話では、意識さえ戻れば、怪我は命に関わるものではなく、すぐ退院できるらしい。
けれど、目が覚めて、退院したとしても、怪我だらけの不自由な体じゃ、一人で生活できないだろう。
きっと、家に戻ってくる。自分が世話をしないといけないのか。
また、あの悪夢の日々が始まるのか。

百合に心配かけてしまうな。
そういえば、朝にメールを送ったきりだった。

日向は、ポケットから携帯電話を取り出した。
メールの受信を知らせるランプが点灯している。
受信ボックスを確認すると、新着メールが三通。
二通は百合からで、もう一通は将悟からだった。
将悟から不在着信も入っている。

『体調悪いんですか?放課後、家に寄ってもいいですか?』

一通目は百合からだ。これは朝送ったメールの返信だろう。
学校休むとだけ伝えたから、心配させてしまっただろうか。

『寝てるんですか?玄関にゼリーとポカリ置いておきますね。起きたら連絡ください。』

二通目も百合から。送信時刻は夕方だった。
風邪をひいていると思って、家まで来てくれたのか。
百合は優しい。こんなに自分のことを気にかけてくれている。

『どこ行ってる?何かあったのか?百合ちゃんが心配してるぞ。連絡してやれ。』

三通目は将悟から。送信時刻は十八時を超えていた。
将悟も家まで来てくれたのだろうか。

駄目だな、自分は。いろんな人に心配かけてばかりだ。
きっと、また心配かけることになる。

日向は、静かに眠る女を見つめる。
もう二度と目覚めなければいいのに。

ああ、百合に会いたい。
百合の細く柔らかな腕に包まれたい。
その温かい腕の中で、めいっぱい甘やかしてほしい。
優しい笑顔と凛とした声で、自分の名を呼んでほしい。
小さな掌で、自分に触れてほしい。

きっと母親が家に帰ってきたら、安らげる時間なんてない。
いつもみたいに、家で百合とくっついたり、じゃれあったりする時間なんて、無くなるだろう。
母親に、百合を会わせるわけにはいかない。
こんな人間が自分の母親だなんて、言えない。

きっと、母親は家に帰ってきて、また虐待を繰り返す。
酒に酔って、不幸を嘆く。自分の存在を否定して、暴力を振るう。
やっと、生きていてもいいと、思えるようになったのに。
将来の希望を、持てるようになったのに。

心の隅で少しだけ、いなくなった彼方を羨ましく思った。
彼方は今、幸せなのだろうか。
将悟に言われたこと、千秋に言われたことを思い返してみる。

―誠が彼方のことを知っている。
―京子が彼方とデートをしていた。

誠は、そんな素振りを一切見せなかった。
京子も彼方を知っているかという質問を、否定した。
やっぱり彼方が根回しをしているのだろうか。
自分に見つからないように、口止めをしたのだろうか。

探さない方が、お互いのためだろうな。
探して連れ戻しても、また虐待の日々だ。
きっと彼方は、そんなこと望んでない。
もう、あんな目に遭うのは、自分だけで充分だ。


ふいに、病室の扉をノックする音が聞こえる。
返事も待たずに顔を覗かせたのは、看護師の美波だった。

「日向君、お母さんはもう大丈夫だから、今日は帰った方がいいんじゃないかな?」

人の良さそうな笑みで、美波は病室へと入ってくる。
集中治療室の前で待っている間も、美波は日向を慰めたり、励ましたりしてくれた。
実際には、慰めも励ましも必要なくて、ただ母親が息絶えるのを待っていたのだけれど。
そんなこと、口が裂けても言えなかった。

「…母さん、本当にもう大丈夫なんですか?」

顔を上げずに、日向はポツリと呟く。

「ええ。頭を打ってるから、しばらくは様子を見ないと駄目だけど、体は大丈夫よ。
 怪我もたいしたことないし、処置も早かったから問題ないわ。」

美波は日向の顔を覗き込み、優しく微笑む。
大丈夫だなんて、ただの気休めの言葉ならよかったのに。
後ろめたさに、その微笑みを見ることができなくて、日向はずっと母親を見つめていた。
そんな日向を見て、美波は困ったように眉を下げた。

「心配だろうけど、電車もそろそろ無くなるし…。
 お母さんの目が覚めたら、また病院から連絡入れるから、ね?
 ちゃんと明日からは学校行くのよ?じゃないと、お母さんが心配しちゃうからね。」

日向の肩に両手を乗せて、宥めるように美波は言う。

母親思いの息子、にでも見えているのだろうか。
本当は全然そんなことないのに。

窓の外を見れば、大雨だった。
風が強いのか、木々が激しく揺れている。
遠くで雷が鳴って、窓に雨粒が打ち付ける。
重たい雲が空一面に広がって、真っ暗だった。

まるで、これからの自分のようだと、日向は思った。

麻丸。
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麻丸。

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