「嵐の前の静けさ」

 「嵐の前の静けさ」



蒸し蒸しとした雨上がり。
昨日までの大雨が、嘘みたいに晴れ渡っていた。
肌寒かった昨日とは違って、夏が戻ってきたみたいに蒸し暑い。
ガランとした電車の中、百合はいつものように学校に向かっていた。

朝一番に日向から「もう大丈夫」とメールが来た。
昨日どうして休んだのか、気にはなったけれど、それ以上は何の説明もなかった。
会ってから聞けばいいかと思って、百合は深くは考えなかった。
日向は、いつもどおり駅に迎えに来てくれるというし、きっと、昨日は少しだけ体調を崩しただけだろう。

昨日、日向が休んだことで、また何かあったのではないかと、百合は大騒ぎをした。
三年生の教室まで出向いて、亮太と将悟に事情を話した。
けれど、途中から将悟は亮太を遠ざけて、「アイツは、日向の家のこと知らねえんだ」と言った。
驚いた。てっきり亮太にも、事情を話していると思ったのに。
将悟が言うには、日向の家の事情を知っているのは、自分と将悟と誠だけらしい。
「日向も大事にしたくないだろうし、他の奴には黙っとこう。」そう、将悟は言った。
自分も、うっかり亮太に話したりしないように気を付けないと。

放課後になり、「何かあったら困るから」そう言う将悟に着いてきてもらって、一緒に日向の家へ向かった。
けれど、何度玄関のチャイムを鳴らしても、日向は出てこなかった。
玄関の前で将悟は日向に電話をしていたが、日向は出なかった。
家からは物音一つしないし、外から見える日向の部屋はカーテンが閉められていた。
寝込んでいるのだろう、と言うことで、スーパーで買ったゼリーとスポーツドリンクを玄関のドアノブに掛けて、その日は帰った。

帰って日向にメールを送っても、返事はなかった。
連絡がないのが、不安だった。
起き上がれないくらい体調が悪いのか、もしかしたら倒れているんじゃないかとか、いろんなことを考えた。
また、母親が帰ってきてるんじゃないか、とさえ思った。
また家出をして、どこかで倒れているんじゃないかと思った。

その日は、不安でなかなか眠れなかった。
夜中になっても日向から連絡はないし、雨は次第に強くなっていた。
なんだか悪いことが起きそうな、そんな予感がした。

けれど、朝に日向からメールが来て、溜め息が出た。
日向から連絡が来て、嬉しかった。日向の無事を確認して、安心した。
一日会わないだけで、こんなにも寂しく思うなんて。不安になるなんて。
自分は、やっぱり日向のことが大好きだ。
早く会いたい。


ガタンゴトンと電車が揺れる。
そして、田舎の無人駅でゆっくりと停車した。
百合は逸る気持ちを隠して、駅へと降り立つ。
いつものように、日向がホームのベンチに座って待っていた。

「百合、おはよ。」

そう言った日向は、制服を着ていなかった。
前開きの黒の長袖パーカーに紺のTシャツ、細身のデニム。
ラフな私服姿だ。

「あれ?どうしたんですか?」

「あのさ…今日、学校サボらない?」

「え?でも…。」

日向は立ち上がり、百合の両手を取る。

「お願い。今日だけ。…午前中だけでもいいから。」

そう言った日向の目は、なんだか寂しそうで、百合は頷くことしかできなかった。

駅を出て、学校とは反対方向の日向の家へと向かう。
そういえば、自分は病欠以外で、学校をサボったことなんてない。
途中、同じ学校の生徒と思われる制服姿の学生とすれ違って、なんだか悪いことをしている気分になった。
背徳感でドキドキする。隣を歩く日向を見て見ると、日向は何かを考えるかのように、ぼーっとしていた。
考える時に口がへの字になるのは、日向の癖だ。

「もう大丈夫」そう言いながら、やっぱり何かあったんだ。
こういう時の日向は、いつも以上に無口になる。遠くを見つめて、ぼーっとする。
けれど、繋いだ手はギュッと握って、離さない。
日向は何も言わないが、自分を必要としてくれている。

日向の家に着くと、日向は冷たいミルクティーを用意してくれた。
ミルクたっぷりで甘いのが、百合のお気に入り。

「で、学校サボってどうしたんですか?」

そう聞くと、日向は黙って百合を抱きしめた。
そして、耳元で小さく呟く。

「…甘えたい。」

「何か…ありました?」

「後でちゃんと話すから…今は、甘やかして。」

そうって、日向は百合の肩口に顔を埋める。
日向は周りからはクールだなんて言われているけれど、自分の前ではこんなにも甘えん坊になる。
母親から与えられなかった愛情を埋めようとしているのか、愛に飢えている。

確かめるように温もりを貪る日向を見て、百合は優しくその髪を撫でる。
まるで、おっきな子供だ。自分にだけ甘えてくる、大きな子供。

「ね、名前呼んで。」

ポツリと、日向が呟く。
百合は言われるまま、日向の耳元で日向の名前を呼ぶ。

「日向先輩。」

「そうじゃなくって…先輩とか、いいから。」

「えっと…日向…さん?」

「さんもいらない。」

「…日向。」

「うん。」

日向は、嬉しそうに百合を抱き寄せる。

「もっと呼んで。」

そう言って、日向は満足そうに微笑む。
でも、なんだろう。なんだか恥ずかしい。
いつも日向先輩と呼んでいたからか、呼び捨てにするのは、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
違和感が凄い。言いなれた「日向先輩」の方がしっくりくる。

「やっぱり、なんか恥ずかしいです。」

「俺も百合って呼んでるだろ?」

「それはそうですけど…。」

やっぱり恥ずかしい。年上の男の人の名前を呼び捨てにするなんて。
何か他に呼び方はないだろうか。呼びやすくて、恥ずかしくない呼び方は―。
百合は首を傾げて、うーんと唸りながら、考える。

「うーんと、うーんと…あ!『ひーくん』とか駄目ですか?」

「ひーくん…?」

日向は顔を上げて、首を傾げる。

「いいじゃないですか!『ひーくん』なら呼びやすいし!『ひーくん』にしましょ!」

「えー…。なんか…恥ずかしい。」

そう言いながら、日向は手で口元を覆う。
恥ずかしい時の、いつもの癖だ。
けれど、恥ずかしいけど嬉しいのだろうか。
指の隙間から覗く口元が、弧を描いている。

「ひーくん。顔、ニヤけてますよ。」

「…気のせい。」

恥ずかしさに耐えられなくなったのか、日向は再び百合の肩口に顔を埋める。
表情は見えないが、耳まで真っ赤だ。きっと、照れているのだろう。
些細なことで照れる、恥ずかしがりな日向。その姿が、なんだか可愛らしい。
そんな日向を見て、百合の心の中に悪戯心が芽生える。

「ひーくん。」

「…はい。」

耳元で囁くと、日向は顔を上げないまま、小さく返事をする。
「はい」だなんて、丁寧な言葉が、なんだかおかしい。
照れている顔を見られたくないのか。

「ひーくん。」

「…何?」

「ひーくん。」

「…もうやめて…。」

恥ずかしさに耐えかねて、日向はギュウっと百合を抱きしめる。
なんだか子供みたいで、本当に可愛い。

「呼んでほしいって言ったのは、ひーくんですよ!」

「それは…そうだけど…。」

そう言って、日向はごにょごにょと口ごもる。
そして、チラッと目だけを覗かせて、恥ずかしそうに呟いた。

「なんか…バカップルみたいだろ。」

「あら。私たち、自他共に認めるバカップルですよ?」

「…俺は認めてない。」

日向の真っ赤な頬に、百合はクスクスと笑う。
日向の照れてる顔や、拗ねてる顔、困ったような表情が、愛おしい。
自分だけに見せる甘えん坊な仕草や、愛おしそうな瞳が、嬉しい。
この人を、自分の手で、声で、全てで、散々甘やかしてあげたい。

日向は百合にピッタリとくっついたまま、甘えるような瞳を向ける。
構ってほしい猫みたいだ。日向は猫っぽいと思う。
そんな日向が可愛らしく見えて、百合は猫をじゃらすように日向の顎の下を撫でた。
日向はくすぐったそうに眼を細める。本当に猫みたいだ。

「なんだか、にゃんこみたいですね。」

「じゃあ、百合が…飼い主?」

「そうですね、ご主人様です。」

満更でもなさそうに、日向は照れて俯く。

なんだかんだ言って、日向は自分のワガママを全て聞いてくれる。
自分に忠実すぎるというか、支配されるのが好きそうというか。
日向は少し忠犬っぽい。いや、猫っぽいから、忠犬ならぬ忠猫だろうか。
そんな日向を、少しだけからかってみたいと思う自分は、意地悪だろうか。

「ねえねえ、にゃあって言ってみてください!にゃあ、って!」

百合は日向の顎の下を撫でながら、言う。
日向はくすぐったいのか、首を振って百合の手から逃れる。
そして、百合の肩口に顔を埋めて、ポツリと呟いた。

「…やだよ、恥ずかしい…。」

「なんでですか!ほら、にゃあ、って!」

「…恥ずかしいってば。」

子供のようにイヤイヤと首を振りながら、ピッタリとくっつく日向。
百合はそんな日向の髪を撫でで、耳元で囁く。

「ご主人様の命令は絶対ですよ?」

「う…。」

少し意地悪な百合の言葉に、恥ずかしいから嫌だという日向の気持ちが揺らぐ。
微かに顔を上げた日向は、おずおずと窺うような視線を百合に向けた。

「ほらほら、言ってください。」

意地悪にそう言うと、日向は上目で百合を見つめる。
恥ずかしそうに見つめたり、目を逸らしたり。
そして、真っ赤になった顔を隠すように俯いて、言った。

「…にゃあ。」

小さな小さな、可愛らしい声。
言った後に更に恥ずかしくなったのか、日向は口元を覆って、抱きしめるように、自分の肩口に顔を押し付けて隠れる。
恥ずかしいのに、ご主人様の命令には逆らわないなんて。
やっぱり、日向にはマゾっ気がある、と思う。

そんな日向が愛おしくて、百合はクスクスと笑う。

「ふふっ、ひーくんったら、かーわーいーいー!」

そう言いながら、日向の髪を撫でる。
頬も耳も真っ赤だ。元々肌の色が白いから、余計に目立つ。
本当に、自分たちは自他共に認めるバカップルだと思う。
けれど、こうしてじゃれあう時間が、幸せで仕方がないんだ。

「よしよーし、可愛いにゃんこですねー。」

百合は日向の髪を撫でながら、茶化して微笑む。
子供をあやすように。猫とじゃれ合うように。
甘えん坊の日向を、甘やかす。

「…もう。」

からかいすぎたのか、顔を上げた日向は、むすっとした顔をした。

一瞬の出来事だった。
長い指が自分の肩を掴んで、グイッと後ろに押される。

「わっ!」

百合は驚いて、ギュッと目を瞑った。
背中にソファーの柔らかい感触がする。体が傾いた気がする。
ゆっくりと目を開けると、視線の先に日向と天井が見えた。
自分は、日向に押し倒されたんだ。

「…俺だって、オオカミかもしれないだろ。」

百合を組み敷いて、日向は言う。
怖いだとか、嫌だとか、そんな感情はなかった。
だって、日向は顔を真っ赤にして、恥ずかしさと緊張でいっぱいいっぱいな様子で、手が震えている。
自分を見つめる瞳も、揺れている。今にも逸らしてしまいそうだ。
そんな強がりがなんだか可笑しくて、百合は噴き出すように笑ってしまう。

「ひーくん、顔真っ赤。」

笑う百合を見て、日向は拗ねるように唇を尖らせる。

「…笑うなよ…。」

「だって、ひーくん可愛いんだもん。」

百合は両手で顔を覆って、クスクスと笑う。
笑いを堪えようとしても、可笑しくて止まらない。
恥ずかしいのを堪えていっぱいいっぱいになっている日向が、愛くるしくて仕方がない。

百合が笑うたびに、日向はむすっとむくれる。
そんな子供っぽい仕草ですら、愛おしい。

「ほ…本当に…する…かもよ…?」

声が震えている。
そんな気など、ないくせに。

「できるんですか?」

挑発的に、百合は微笑む。
根比べのように、二人はお互いを見つめ合う。
しばらくして、日向は諦めたように、溜息を吐いた。

「…無理。」

そう言って、日向は力なく百合に傾れ込む。
押し倒されて、少しだけ驚いたけれど、日向はそんな強引なことはしないし、できない。
それは、自分がよくわかってる。日向は、優しいし、臆病な人なんだ。

「百合のこと、傷つけたくないし…嫌われるのも嫌だし…。
 それに…俺…そんなこと、したことないもん…。」

自分を抱きしめながら、日向は弱弱しく呟く。
そんな情けない日向が愛おしくて、百合は日向の背中を撫でる。

「…俺のこと、ヘタレだって思ってるだろ。」

「いーえ?思ってませんよ?」

ちょっとだけ、そう思っているけれど。
そんなこと、百合は口には出さなかった。
こんな情けないところも含めて、日向が好きだから。

抱きしめ合ったまま、キスをした。
何度も何度も、愛を確かめ合うように、唇を重ねた。
唇が離れるたび、恥ずかしそうに目を逸らしたり、はにかんで笑ったり、愛おしそうに抱きしめたり。
じゃれて、寄り添って、体温を確かめ合う。
こうして日向と過ごす時間が、幸せで仕方がなかった。

「…幸せだな。」

耳元で日向は愛おしそうに囁く。
そして、自分を強く抱きしめて、切ない溜息を零した。

「あのさ、…しばらく、こういうこと…できなくなるかもしれない。」

「…え?どういうこと、ですか…?」

それから日向は、ポツリポツリと話してくれた。
母親が事故に遭ったこと。意識不明の重体だと言われて、昨日病院へ行ったこと。
実際には、左腕を骨折したくらいで、怪我はたいしたことなく、意識さえ戻ればすぐ退院できること。
きっと、しばらくは、家に帰ってくるであろうということ。
また虐待されるかもしれないということ。

そして最後に、

「いっそ…死んでくれたら、よかったのに。」

そう日向は吐き捨てた。

麻丸。
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麻丸。

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