「疑惑」
「疑惑」
「ごめん、昨日休んで。」
京子が皿洗いをしていると、日向が厨房に入ってきた。
時刻は夕方五時前。いつもの日向のシフトより、少し遅い時間だ。
「あ、高橋さん。おはよーごさいます!」
カウンターテーブルを拭いていた虎丸が顔を上げる。
それに応えるように、日向は「おはよう」と挨拶を呟く。
自分も振り返って日向に挨拶を言う。
「昨日は大雨で店暇だったし、大丈夫っすよ。
でも二人ともいないんで、ちょっと寂しかったっす。」
そう言いながら、虎丸はカウンターに両手をついて厨房を覗く。
夕方と言う中途半端な時間の店内はガランとしていて、虎丸は仕事がないのだろう。
洗い物を終えて、京子は蛇口を閉めて手を拭く。
入れ替わりに、日向が蛇口を捻って手を洗う。
「私は、元々シフト入れてなかったわよ。」
「あれっ、そーなんすか。
竹内さん、彼氏出来てからシフト少なくなったっすもんねー。
いいなー。俺も可愛い彼女がほしいっす。」
虎丸は大げさに羨ましがって見せる。
「虎丸くんもモテるんじゃないの?サッカー部のエースだって聞いたけど。」
「俺なんて全然っすよー。高橋さんみたいに派手にモテてみたいっす。」
「だから、俺はモテないって。」
「何言ってるんすか!この前だって、購買のとこで二年生の女子に囲まれてるの見たっすよ!」
「あれは、そういうのじゃないって…。」
店が暇なときは虎丸が中心になり、こうやって三人で厨房の周りに集まって話すのが日課になっていた。
ディナータイムで忙しくなるのは、午後七時過ぎから。
今は静かな店で、各々食材の仕込みや店の掃除をしながら、談笑していた。
「そーいえば、もうすぐテストじゃないっすか!テスト期間中シフトどーします?」
「俺は…しばらくシフト減らすよ。」
「高橋さん専門いくんすよね?なら、そんなに勉強しなくていいじゃないっすかー。」
「いや、補習とか面倒だし。」
「あーそうっすね。俺も補習になったら部活もバイトも休まないといけないしなー。」
「虎丸は、頭いいの?」
「全然っすよ。中の中。可もなく不可もなく、って感じっすかね。」
日向はというと、変わった様子はない。いつも通りだ。
誠が何かを話したかと思ったが、そうではないみたいだ。
けれど、確実に誠は、彼方の秘密を知っている。
誠の目的はなんだったのだろう。
自分に、日向と知り合いだと見せつけたかっただけなのか。
自分を揺さぶることが目的だったのだろうか。
なんにせよ、日向が何も知らないのなら、こちらとしても都合がいい。
ボロが出ないように、自分もいつも通りを務めないと。
彼方は今日、家には来なかった。
午後の授業中に、「今日は行けない」とメールが来ていた。
何か急用でもできたのだろうか。
よく考えれば、電車で片道二時間近くの距離を毎日通うのは、しんどいものがある。
昨日は、ちゃんと会いに来てくれると言ってくれたのに。
少しだけ、会えないのが寂しい。ちょっとだけでも、顔が見たかった。
そんなことを、素直に彼方には言ってやらないけれど。
「そういえば、風邪だったんすか?」
厨房で仕込みをする日向に、虎丸が聞く。
昨日バイトを休んだ理由だろうか。
日向は包丁を持つ手を止めて、顔を上げた。
「え…ああ、うん。」
また、だ。
「季節の変わり目っすからねー。高橋さん、体弱いんだから注意しないと。」
「…そうだな。気を付けるよ。」
きっと、これは嘘。
日向はわかりやすい。視線が忙しなく泳いでいる。
虎丸は気付いていないようだが、日向は嘘を吐くのが下手だ。
彼方とは違って、嘘を吐くときの動揺が隠せない。
ふいに、来客を告げる風鈴の音が鳴る。
暇を持て余していた虎丸は、待ってましたと言わんばかりに入口へと早足で歩いていく。
その背中を見送って、日向は安堵したように溜息を吐いた。
けれど、どうしてここで嘘を吐いたのだろう。
ただのサボりだったのだろうか。
まあ、日向がサボろうが、嘘を吐こうが、自分には関係のないことだけれど。
「…本当は、母親が事故に遭って入院してるんだ。」
ポツリと、日向が呟いた。
シェフや店長は休憩に入っていて、厨房には京子と日向しかいない。
自分に向けて言ったのか。でも、どうして。
「…虎丸くんには誤魔化したのに、どうして私には話してくれるんですか?」
「あ…えっと…なんとなく。」
日向は動揺したように、俯く。
この動揺は、嘘を見抜かれていたことに対するものか、別の何かか。
「でも…あんまり人には言わないでほしい。」
そう言って、日向は窺うような視線を向ける。
やっぱり誠が何か吹き込んだのだろうか。
だとしたら、どこまで話したんだ。
わからない。日向はどこまで知っているんだ。
下手に何かを言わないように、京子は口を噤む。
日向が次に紡ぐ言葉を待った。
探り合いのように、無言で見つめ合う。
絶対に目を逸らすものか。
目を逸らしたら、自分が彼方のことを知っていると認めているのと同じだ。
日向の疑惑が、確信に変わってしまう。
自分は動揺なんてしない。上手く隠してみせる。
見つめ合いは、ほんのわずかな時間だった。
気まずさに耐えかねた日向が、すぐに視線を逸らしたからだ。
日向は彼方と違って、気が弱いのだろう。
無言の見つめ合いには、耐えられないようだ。
諦めたように、日向は目を伏せる。
「…ごめん、変なこと言って。なんでもないから。」
そう言って、日向は食材の仕込みを再開した。
まずいな。日向が自分に疑いを向けてくるなんて。
幸い問い詰められることはなかったが、誤魔化すのも限界が近いかもしれない。
これからどうするべきか。彼方と相談しないと。
誠の動向も気になる。誠の目的は一体何なんだ。
彼方の秘密を知って、何をしようと言うんだ。
焦る気持ちに、京子は爪を噛んだ。
「禁煙は?」
リビングに入ると、甘い香りに満たされていた。
ソファに座っている彼方の指には、飴じゃなくて、煙草が紫煙を揺らめかせている。
禁煙宣言をしていたはずなのに、どうして。
「今日だけ、解禁…なんちゃって。」
そう言って、彼方は可愛らしく首を傾げてみせる。
灰皿の中には、既に吸い殻が十本以上あった。
「ばーか。それじゃあ禁煙の意味ねえだろ。」
「…ですよね。」
彼方は軽く笑って、煙を吐き出す。
火種から香る香りは甘いが、主流煙は普通の煙草の匂いだ。
テーブルの上には、キャスターマイルドのボックス。
彼方が以前吸っていた煙草と、同じものだった。
「なーんかあったわけ?せっかく禁煙してたのに。」
優樹はソファに腰掛け、自分も煙草の火を点ける。
「何もないですよ。ちょっと禁煙辛くて、心折れちゃっただけです。
一本だけ、って思ってたら、止まらなくなっちゃって。」
そう言って、彼方ははにかみながら、煙草の箱の中を見せる。
もう既に、半分以上吸ったみたいだ。
「そんなことしてるうちは、一生禁煙できないぞ。」
まったく。最近まで禁煙を続けていられたのに、もったいない。
そもそも、最近はコンビニでも年齢確認が厳しいはずなのに、彼方はどうやって煙草を買っているのだろう。
自分は彼方の年齢を知っているからそう思うけれど、もしかしたら他人が見たら、彼方は成人に見えるのだろうか。
確かに、彼方は黙っていると、少し大人びた雰囲気を持っている。
喋ると無邪気で、素直で、子供っぽいのに、不思議な男だと思う。
大人びているのは、秘密を抱えているからか。
その姿は、憂いや翳りを感じさせる。
そんなことを考えていると、意味ありげに自分をじーっと見つめる視線に気付いた。
「どうした?」
「…いいえ。なんでもないです。」
そう言って、彼方は微笑む。
また、だ。全てをうやむやにする微笑み。
彼方は自分を見つめて、何を思っていたのだろう。
「そういえば、誠さん…もう戻って来ないんですか?」
ふいに、彼方がポツリと呟く。
驚いた。彼方の口から、誠の名前が出てくるなんて。
まあ、誠が彼方のことを一方的に嫌っていただけだし、おかしくはないか。
「わかんねえ。アイツから連絡ないし。どこで何してんだろーな。」
実際、誠からの連絡は一切ない。
彼方のことで揉めた夜以来、誠の家にも行っていない。
「優樹さんからは、連絡してないんですか?」
「『来るもの拒まず、去る者追わず』の主義なの、俺。」
「寂しいなあ。…結構、好きだったのに。」
そう言いながら、彼方は灰皿に煙草を押し付ける。
誠は彼方のことを嫌っていたのに、彼方は誠に懐いていたのか。
なんだか可哀想なことをしたな、と思った。
「お前こそ、連絡してないのかよ。」
「僕が連絡しても…意味ないと思いますよ。」
彼方は、少し困ったような笑顔になる。
「優樹さんから連絡してあげたらどうですか?
誠さんは、意地張っちゃってるだけですよ。本当は優樹さんのこと大好きなのに。
喧嘩して、戻るに戻れなくなってるんじゃないかな、きっと。」
そんなものだろうか。
確かに、自分も誠も、昔から頑固なところがある。
お互いムキになってしまっていたのだろうか。
そうだとしたら、こちらから折れてやるべきなのかもしれない。
彼方を辞めさせるつもりはなけれど、もう一度ちゃんと話し合うべきなのだろう。
そこまで考えて、違和感に気付いた。
「ちょっと待て。…俺がいつ喧嘩したなんて言った?」
彼方には、黙っていたはずだ。
喧嘩の原因だからこそ、何も言わなかった。
どうして彼方が、自分と誠が喧嘩したことを知っているんだ。
「え?…てっきり、そうじゃないかなって思っただけですけど。」
彼方は、不思議そうに首を傾げる。
本当に、ただの勘なのか。
「別に、喧嘩って程じゃない。ちょーっと意見が合わなかっただけだ。お前は何も心配するな。」
「へえ、そうなんですか。」
彼方は、詳しくは聞いてこない。
単に興味がないだけだろうか。
こいつも詮索は無用だと思っているのだろうか。
「まー、そのうち帰ってくるだろうよ。」
そう言って、優樹はコーヒーでも飲もうと、キッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。
二人ともほとんど料理はしないから、中身は飲料と調味料ばかりでガランとしている。
しかし、今日は、中段に見慣れない白い箱が置いてあった。
「これ、なんだ?」
振り返って、彼方に聞く。
彼方は顔を上げることなく、携帯画面を見つめたまま答えた。
「ああ、今日美咲ちゃんが誕生日だから、ケーキ用意したんです。」
駅前の洋菓子店マルシェの菓子箱。
ラベルにはチーズケーキと書いてある。
けれど、いつもは箱の側面に付けられている蝋燭がない。
「へえ。…おい、これ蝋燭付いてねえぞ。」
「ああ…そっか。出勤前に、どこかで買ってきますよ。」
なんだか不自然だ。
普通は、ケーキ屋が蝋燭を付けるかどうかを聞いてくるはずなのに。
単にケーキ屋が蝋燭を付け忘れて、彼方も気付かなかっただけだろうか。
それに、誕生日にチーズケーキを選ぶだろうか。
客の好みがあるのはもちろんわかるが、普通はショートケーキだろう。
単に客が、チーズケーキをリクエストしたのだろうか。
これは本当に客のために用意したものか?
店の近くにもケーキ屋はあるし、出勤前に買いに行ってもいいはずだ。
わざわざこんな時間に買って置いておく理由もない。
なんだか腑に落ちない。
けれど、彼方は涼しい顔をして、携帯電話を眺めてる。
自分の考えすぎか?
時々、彼方と話していると、違和感を覚える。
違和感の正体は、きっと彼方の嘘。
嘘のせいで、話がチグハグになっているんだ。
けれど、自分にそれを問い詰める資格はない。
自分は彼方の心を開く鍵を持っていない。
優樹は溜息を吐いて、グラスにコーヒーを注ぐ。
ブラックコーヒーと、牛乳をたっぷり入れたカフェオレ。
自分のを注ぐついでだ。
「ほらよ。」
そう言って、テーブルの上に彼方の分のカフェオレを置く。
「わー、ありがとうございます。」
彼方は、嬉しそうに微笑んだ。
嘘を吐いているような、狡猾な笑顔には見えない。
本当に無邪気な、子供の笑顔。
時々、彼方がわからなくなる。
こんなにも無邪気に笑うのに、何を抱えているのだろう。
彼方が抱えているものは、きっと真っ黒で、とても重いもの。
それでも彼方は笑う。まるで、笑うことしか知らないみたいに。
「そういえば、京子ちゃんと連絡取っているんですか?」
彼方は、カフェオレを両手で抱えて聞く。
「んー、たまにな。でも兄妹だと話すことなんてないぞ?」
「えー、そうなんですか?京子ちゃん、あんなに優樹さんのこと好きなのに。」
「どこがだよ。京子は素直じゃないし、頑固だし、気が強いし。」
「よく京子ちゃんのこと、わかってるじゃないですか。」
そう言って、彼方はクスクスと笑う。
優樹はコーヒーに口を一口付けて、溜息を吐く。
「昔はお兄ちゃんお兄ちゃん、って言って可愛かったのに、最近は俺に怒ってばっかなんだぞ。あれは反抗期だな。うん。」
「それも照れ隠しなんじゃないんですか?京子ちゃんは素直じゃないんだから。好きの裏返し。なんちゃって。」
「もうお兄ちゃん大好き、って歳でもないだろ、京子は。」
「そんなことないですよ。ああ、でも京子ちゃんは『お兄ちゃんが好き』なんじゃなくて、『優樹さんが好き』なんですよ。」
「お前なあ…。」
親が死んでから、男手ひとつで京子を育ててきた。
大学を辞めて、地元に戻って、京子と暮らすために、このマンションを借りた。
まだ小学生だった京子を育てながら、夜の店を開いた。
仕事ばかりで、寂しい想いをさせたと思う。
酔っ払って、潰れて、昼前に家に帰ると、学校も行かずに泣きじゃくっていることもあった。
幼いころは、本当に寂しがりで、自分にピッタリとくっついてきて、可愛かった。
京子は成長するとともに家事を覚えて、自分の身の回りのことをしてくれた。
京子は、強い女に育ったと思う。
自分よりもしっかりしているし、自分のことは全て一人でやってしまう。
寂しくて泣くことも無くなったし、むしろ口煩くキツイ性格になった。
それでも、まだまだ子供のようで可愛いと思うのは、やっぱり京子が自分の唯一の家族で、妹だからだろう。
「なあ、京子って彼氏いるのか?」
思えば、京子から浮いた話を聞いたことがない。
京子ももう高校生だし、浮いた話がないわけではないと思う。
兄妹である自分には、言いにくいだろう。
けれど、兄としては、気になる。
「なんですか、突然。」
「いや、アイツ浮いた話一切しないからさ。お前知らないわけ?」
「さあ。僕も京子ちゃんとは、それほど親しくなかったから。」
そう言って、彼方は首を傾げる。
「ああ、でも、夏休みにずっと優樹さんのマンションに入り浸っているうちは、安心なんじゃないですか?」
冗談めかして、彼方は笑った。