「温かい手。」
「温かい手。」
鍋の中でカレーがコトコトと煮込まれる。
すっかり日が落ちた外はもう暗かった。
まだ帰って来ない彼方を、日向は心配していた。
自分に嘘を吐いてまで、何をしているのか。
今まで何をするのも二人一緒で、離れることなどほとんどなかったのに。
静かなキッチンで、カレーの煮込まれる音だけが響く。
ガチャッ。
ふいに玄関の開く音がした。
彼方だろうか。
日向は鍋の火を止め、玄関に向かう。
彼方が、俯きながら靴を脱いでいた。
いつもなら「ただいまー。」といつもの柔らかい口調で言うのに、今日は無言だった。
「彼方何して…。…っ!?」
静かに顔を上げた彼方の左頬は、痛々しく腫れあがっていた。
「それ…どうしたんだよ!?」
日向は彼方に駆け寄り、その頬に触れようとするも、
彼方にその手を冷たく振り払われた。
「別に。なんでもないよ。…僕、シャワー浴びてくるから。」
「えっ…。」
日向の返事を待たずに脱衣所へ駆け出す彼方。
そんな背中を無言で見送るしかなかった。
日向は初めて彼方に避けられていると感じた。
殴られた頬が痛む。
それでも、入念に体を洗う。
自分の体に、彼女の甘い香りがまとわりついている気がした。
-気持ち悪い。-
何度も何度も、彼女の感触を消すように体を洗う。
手に、腕に、体に、唇に、残る彼女の感触が煩わしくて仕方がなかった。
-こんな体で日向に触れられない。-
-日向が汚れてしまう。-
しつこいように何度も何度もボディーソープで体を洗う。
しつこいように何度も何度もシャンプーを掻き立てる。
しつこいように何度も何度も歯磨きをする。
-気持ち悪い…っ!!-
彼女に絡んだその舌を、彼方は噛みちぎってしまいたかった。
暖かいシャワーに打たれながら、彼方の頬には水滴が滴っていた。
それがシャワーから流れた水滴なのか、涙なのか、彼方はわからなかった。
日向は心にもやもやとしたものを抱えながら夕食の用意をする。
さっき出来上がったカレーとサラダ。
食卓に並べ、彼方がシャワーから出るのを待つ。
いつもは20分も経てばシャワーから出てくるのに、今日は一段と遅かった。
それでも、触れてほしくないような顔をしていた彼方を思い出せば、
ここで静かに待つ以外に日向に選択肢はなかった。
しばらくして、脱衣所から彼方が髪の毛をタオルで拭きながら出てきた。
いつもよりも遠くを見るような瞳で日向を見つめ、呟く。
「…ねえ。僕、綺麗になったかなぁ?」
「何言って…。」
今日の彼方はおかしい。
日向はただただ、戸惑っていた。
「髪の毛、乾かしてよ。」
「彼方…。」
彼方は甘えるように、まるで捨てられた子猫のような瞳で日向を見ていた。。
まだ水分を十分に含んだ彼方の髪の毛からは水滴がポタポタと滴っていた。
日向はため息を吐き、彼方を椅子に座らせてドライヤーを用意する。
自分と同じ漆黒の細い髪に触れると、彼方は椅子にもたれかかり、笑みをこぼす。
「僕、やっぱり日向に触られるのが一番好き。」
「まるで子供だな。」
彼方は安心したようにその身を預ける。
日向はとりあえずタオルでわしゃわしゃと彼方の髪を拭く。
後ろから見ても、彼方の左頬は腫れていた。
「何があったんだ?」
「…なんでもない。」
「なんでもないって…その頬…。」
視線を合わせずに彼方は小さく呟く。
小さく拳を握りしめ、唇を噛んでいるようだった。
「どこかに…ぶつけたのか?」
少しの沈黙の後、彼方は口を開く。
「…亮太に、殴られた。」
「は?どうして…。」
彼方は俯いて、それ以上は何も言わなかった。
日向は諦めてドライヤーのスイッチを入れた。
心地いい熱風で彼方の髪が踊る。
細い猫っ毛が日向の指に絡みついてくる。
静かな空間に、少し騒がしいドライヤーの風音だけが響く。
「ねえ。… 、 。」
消え入りそうな彼方の声は、ドライヤーの音に掻き消された。
「え?」
日向はドライヤーを止めて聞き返す。
彼方は一瞬考えるような表情をした後、振り向きニッコリと微笑む。
「ううん。なんでもないよ。」
それは「これ以上何も聞くな」という彼方の牽制の笑みだった。
聞きたいことはたくさんあるはずのに、日向は口を噤む。
心の距離が、どんどん離れていくと感じる。
-彼方が何を考えているのか、わからない。-
切ないような、寂しいような気持ちになる。
すっかり乾いた彼方の髪は、日向の指に絡んでは、すり抜けていく。
二人の心も絡まることなく、すり抜けていくような気がした。
この日は何があったか深く聞けず、
ほとんど会話をできずに布団に入った。
いつものように寄り添って眠る。
隣で寝息をたてる彼方の指に、自分の指を絡めてみる。
少し冷たい彼方の体温は、強く握れば儚く消えてしまいそうな錯覚を起こす。
そのまま彼方の手を優しく握り、日向は目を閉じた。