「影を隠す」

 「影を隠す」



土曜日の昼は、忙しかった。
席は満席で、ウエイティングが出るほど、カフェ・プレーゴは大盛況。
厨房を川口シェフと日向で回して、ホールは梨本店長と自分だけ。
たった四人で、ランチタイムで忙しい店を回していた。
どうしてこんなに忙しい日に限って、バイトの人間が少ないのだろうと、京子は二日酔いの頭で思った。

パートのおばちゃんも、大学生のバイトも、今日に限って捕まらなかったらしい。
いつもはほとんど毎日バイトに出ている虎丸も、シフトは夕方から。
今日はサッカー部の部活がある日なのだろうか。
京子は二日酔いで回らない頭で、必死に働いた。

昨日、彼方と酒を飲んだ。
日本酒はマズかったけれど、甘い酎ハイが美味しくて、飲みすぎてしまったのだ。
おかげで、所々記憶がない。頭痛もするし、体が重い。
酒を飲んでいる時はなんだか楽しかった気がするのに、こんな代償があるとは、思ってもなかった。

昨日の記憶は、あまりない。
けれど、何か恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。
甘えるようなことを言ってしまった気がする。
そんなの、自分に似合わない。素直になるなんて、似合わない。
思い出すだけで、頬が赤くなってくる。

朧げな記憶の中で、彼方に膝枕やお姫様抱っこをされた。
どうしてそうなったのかは、よく覚えていない。
けれど、彼方の力強い腕は覚えている。意外と男らしくて逞しい腕だった。
彼方に起こされて目を覚ますと、自分は彼方に抱き付くような体勢で眠っていた。
一晩中、そうしていたのだろうか。自分から、抱き付いたのだろうか。
どんな顔をすればいいのか、わからなかった。
酒の力は怖い、そう思った。

恥ずかしさに耐えかねて、「遅刻する!」と言って、逃げるように家を出てきた。
とてもじゃないけれど、まともに彼方の顔が見れなかった。
昨日の自分を消してしまいたい。どうして興味本位で酒なんて飲んでしまったのだろう。
まあ、遅刻ギリギリだったのは事実だし、仕方ない。

「竹内さん、大丈夫?体調悪い?ちょっと顔赤くないか?」

自分がフラつきながら仕事をしていると、梨本店長が声を掛けてきた。

「いえ、昨日ちょっとお酒飲んじゃって…。」

「二日酔いかよー。とんだ不良少女だなー。」

梨本店長は呆れた様子で、笑う。
彼は、親でも、学校の先生でもない。京子を咎めることはなかった。

「ま、俺もよく高校の頃やったわ。記憶無くなるまで飲んだりしてなー。」

彼方が言った通り、結構みんなやっているのか。
少しだけ罪悪感があったが、梨本の言葉で安心した。

「心配かけて、すみません。ホント、大丈夫なので。」

「おうおう。でも、無理そうなら言えよ?」

梨本店長に気遣われながら、なんとか忙しいランチタイムを乗り切った。
店が落ち着いたのは、午後四時前。
ピーク時に比べて、ホールは客が疎らになり、すっかり静かになっていた。
体は少ししんどいけれど、取り敢えずは一安心だ。
バイトが終わるまで、あと一時間。それまでなんとか頑張ろう。
山積みにされた空いた皿やグラスの洗い物を見ながら、京子はそう思った。

「大丈夫?店長から体調悪いって聞いたけど…俺が代わりにやろうか?」

ふいに、後ろから声を掛けられる。日向だ。

「いえ、平気です。高橋さんも夜の分の仕込みがあるでしょう。」

「まあ…そうなんだけど。でも、辛いなら休んでた方が…。」

そう言って、日向は心配そうに自分の顔色を窺う。
彼方と同じ顔に、京子は一瞬ドキリとした。
いや、違う。日向は彼方じゃない。

「平気ですって。退勤まであと一時間くらいだし、洗い物だけ片付けて、家で休みますよ。」

「ならいいんだけど…。でも、もうすぐ虎丸来るし、店長に相談して、早めに上がらせてもらったら?」

「大丈夫ですよ。あと一時間くらい、乗り切ってみせます。」

自分は大丈夫だと言っているのに、日向は煮え切らない様子で心配そうな顔をする。

「…無理そうだったら、すぐ俺に言って。」

そう言って、日向は自分の仕事に戻った。

意外と、日向は優しい。
女子にモテるのも、わかる気がする。
無口だけれど、さり気なく人を気遣ってくれる。
けれど、双子なのに、彼方とは全然違う。
顔は見分けがつかないほどそっくりだけれど、性格が全然違う。

日向は、けして人に強制はしない。
自分が大丈夫だと言えば、無理矢理に休ませなんかしない。
けれど、心配性なようで、チラチラとこちらの様子を窺っている。

彼方は、結構強引だ。有無を言わせない。
彼方が決めたことに、自分は拒否権なんて与えられない。
きっと、ここに彼方がいたのなら、自分はとっくに家に帰されていただろう。
それも、一応彼方の優しさではあるけれど。

京子は溜息を吐いて、洗い物に取り掛かった。


洗い物が一段落して手を洗っていると、店の入り口の扉が開いた音がした。季節外れの風鈴の音。
新しい客が来たのだろうか。店長とシェフは休憩に入ってしまったし、自分が行かないと。
京子が慌てて厨房を出ようとすると、その人物は早足でこちらに向かってきた。

「おはよーございますっす!」

元気良く挨拶したのは、虎丸だった。
なんだ。慌てて損をした。京子は小さく溜息を吐いて、虎丸に挨拶を返した。
部活帰りなのか、虎丸はサッカーのユニフォームのままの姿だった。

「おはよ。今日部活だったのか?」

日向は食材を切る手を止めて、顔を上げる。

「はい。朝から練習試合だったんすよ。」

「そうなんだ。どうだった?」

「もちろん勝ったっす!ハットトリック決めてきたっすよ!」

ガッツポーズを決めて、虎丸は笑う。

「よかったな。お疲れ様。」

つられて日向も小さく笑う。
この二人は、タイプは違うけれど、仲が良い。
やっぱり男同士だと、打ち解けやすいのだろうか。

日向がこうやって笑っているのを見るのは、なんだか不思議な気分だ。
出会う前は、誰とも喋らない、笑わない、そんなイメージだった。
愛想がいい方が彼方、無口な方が日向。
学校の噂では、二人はそう言われていたから。
それ以外に、そっくりな二人を見分ける方法がなかったから。

今は髪の色で、どちらが彼方で、どちらが日向かはわかる。
けれど、彼方の彼女の自分でも、二人が髪色を揃えたら、見分ける自信がない。
さっきだって、日向に彼方が重なって、少しドキドキしてしまった。
中身は全然違うのに、二人の顔は似すぎている。
双子だから、仕方ないのだけれど。

「あ、そう言えば、来る途中で高橋さんの弟さん見ましたよ。」

虎丸は、カウンターに手を付いて、身を乗り出す。

「いやーそっくりっすね!髪の毛の色一緒だったら、どっちかわかんないっすもん。
 間違えて声かけそうになったくらいっすよ!」

「え…」

虎丸の言葉に、京子は目を瞠った。
日向も驚いたように目を瞬かせている。

「何処で…何処で見たんだ?」

「そこの海辺っすよ。なんかこう…おっきい犬と遊んでましたよ。」

虎丸は両手をいっぱいに広げて、その犬の大きさを伝える。
日向は難しい顔をして、何かを考えているようだった。
京子は冷静を装いつつも、内心は焦っていた。

彼方は一体何をしているんだ。
大人しく家で待っているんじゃなかったのか。
顔見知りばかりの地元で、フラフラ出歩くのは危険だと思わなかったのか。
京子は焦る気持ちに、爪を噛んだ。

「…ゴールデンレトリバー?」

「あー、多分そうっす。金色の毛のおっきい犬。」

「それっていつ?今?」

「学校からこっち来る途中だったんで、ついさっきすよ。」

事情を知らない虎丸は、不思議そうに首を傾げた。
日向は、厨房に置かれたデジタル時計に目をやる。午後四時四十五分。
確か、日向の退勤時間は自分と同じ午後五時のはず。後、十五分だ。
日向は、彼方を探しに行くつもりなのだろうか。
ここで彼方が見つかるわけにはいかない。
どうにかしなければ。

「ちょっと席外します。」

二人の話を遮って、京子はトイレに逃げ込んだ。
エプロンの中から、マナーモードにした携帯電話を取り出す。
急いで彼方の番号を探して、電話を掛ける。
彼方は三コールもしないうちに電話に出た。

『はいはーい?』

聞こえてきたのは、呑気な声だった。
人の気も知らないで―。

「ちょっと彼方さん、今どこにいるんですか!今すぐうちに戻ってください!」

声を潜めつつも、焦りで口調が強くなる。

『え?突然どうしたの?もうバイト終わった?』

「違いますよ!見られてたんですよ!」

『…誰に?』

探るような、低い声。
耳元で囁かれたその声に、胸がざわついた。

「…バイト先の人です。同じ学校の。」

電話の向こうで、溜息のような息遣いが聞こえた。

『なんだ、別にいいじゃない。』

拍子抜けしたように、彼方は緊張感のない声に戻る。

「そっちに日向さんが探しに行ったらどうするんですか!」

『大丈夫だよ。もう京子ちゃんの家着くし。』

「家で大人しく待ってるって言ってましたよね?ホント、何してるんですか!」

『ただの散歩だよ。退屈だったんだもん。』

悪びれる様子もない彼方に、京子は大きな溜息を吐いた。

「とにかく、日向さんに見つかったらマズいんでしょう?馬鹿な行動は慎んでください。」

『ふふっ、京子ちゃんは心配性だなあ。』

いつもの調子で彼方はクスクスと笑う。
他人事じゃないのに、どうしてそんなに呑気でいられるのか。

『もうすぐバイト終わるんだよね?』

「ええ。五時に終わりますけど。」

『早く帰ってきてよ?京子ちゃんがいないと退屈なんだから。』

「退屈って…。もうすぐ終わりますから、家にいてください。」

『うん、待ってる。』

優しい声色で、彼方は言う。
電話は苦手だ。耳元で彼方の声が聞こえるのが、なんだかくすぐったい。
最近の携帯電話は高音質だし、耳元で彼方に囁かれているみたいだ。
柔らかい優しい声。低く甘い声。彼方の声が、好きだ。
そう自覚すると同時に、酒を飲んだ時のように体が熱くなる。胸がドキドキする。

「と、とにかく、大人しくしててくださいよ。」

『はいはい、わかったよ。』

「じゃあ、切りますよ。」

照れ隠しで素っ気なく言い放ち、電話を切った。
彼方との電話は心臓に悪い。まだ耳に余韻が残る。
彼方の声に、どうにかなってしまいそうだった。

洗面台の鏡で自分の顔を確認する。
少し頬が赤い。頬に触れてみると、熱を持っていた。
自分は彼方の声だけで、こうなってしまうのか。
なんだか悔しい。そして、恥ずかしい。
これじゃまるで、彼方のことが大好きみたいじゃないか。
…実際、そうだけれど。
でも、天邪鬼な自分には、認め難いのだ。

京子は大きな溜息を吐いて、トイレを出た。

厨房に戻ると、虎丸は既に着替えて仕事に就いていた。
日向は時計を気にしつつも、虎丸と談笑しながら、使ったまな板や包丁を洗っている。
時刻は午後五時に差し掛かろうとしていた。
言いつけ通り、彼方が家に帰っていればいいが―。

京子は洗い終わった食器を食器棚に戻していると、店長とシェフが休憩から戻ってきた。
二人が戻ってきて、交代に自分と日向は上りになった。
ようやく帰れる。今日は二日酔いだし、店も忙しかったし、本当に疲れた。
着替えて店を出ようとすると、同じく着替え終わって帰ろうとしていた日向に声を掛けられた。

「竹内さん。」

京子は、ギクリとした。
彼方を目撃した虎丸の話の後だ。
日向は自分に疑惑を持っているはずだし、何を言われるかわからない。
恐る恐る京子はゆっくりと振り向いた。

「送っていこうか?体調悪そうだし…。」

日向は心配そうな表情だった。
なんだ、彼方のことじゃないのか。
京子は肩の力が抜けるように、ほっとした。

「彼女いるのに、そんなこと言っちゃダメですよ。」

「いや、まあ…そうなんだけど。でも、やっぱりほっとけないし。送るだけなら…。」

「平気ですよ。家近いし。それに、私も彼氏いるので、そういうのは遠慮します。」

京子は、キッパリと断った。
心配性も、ここまで来ると少し煩わしい。
子供じゃないのだから、一人で帰るくらい平気に決まっている。

「その彼氏って…」

言いかけて、日向は目を伏せた。

「あ…いや、ごめん。…やっぱりなんでもない。」

そう言って、日向は小さく首を振った。

京子は平静を装って、日向を見つめる。
心の中の焦りを読み取られないように、冷静に。

一体どこまで日向は勘付いているのだ。
自分は日向が確信できるようなことを言っていないはずだ。
まだ、大丈夫。ボロを出さなければ、白を切れる。
余計なことを話してはいけない。そう思って、京子は口を噤んだ。
気まずい沈黙が、二人の間を流れた。

「…じゃあ俺、帰るから。お大事に。」

痺れを切らしたのか、気まずさに耐えかねたのか、日向はそう言って、自分と目も合わさずに行ってしまった。
遠ざかる背中を見つめながら、京子は考えた。

日向は、案外鋭いのかもしれない。
今まで以上に、言動や行動を気を付けないと。
けれど、自分の彼氏が彼方だってわかるようなことは、一言も言っていないはずだ。
やっぱり誠の入知恵か?いや、誠も自分と彼方が付き合っていることは知らないはずだ。
彼方が誠に言うわけもないし、誠は仕事を休み続けているという。

他の誰かが関わっているのだろうか。
いや、それは有り得ない。そんな人間いないはずだ。
自分と彼方が繋がっているということを知る人間は、誠と優樹以外にいない。
優樹は日向のことを知らないし、日向と接触することもないだろう。
問題は、誠がどこまで話したか、だ。

日向は自信がないから核心が突けない。
確証がないから、踏み込めない。
なら、自分は白を切ればいいだけだ。
大丈夫。自分ならできる。隠し通してみせる。

彼方の秘密を守ってみせる。

麻丸。
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麻丸。

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