「虚像」
「虚像」
日向は、家から駅までの道の途中にある海岸沿いを歩いていた。
今日、虎丸が彼方を目撃した海岸。
以前、リッキーと飼い主のお姉さんに出会った海岸。
湿気を含んだ肌寒い風が、頬を撫でる。
今にも雨が降り出しそうな、薄暗い曇天。
静かな海辺には、穏やかな波の音だけが響いていた。
辺りを見渡してみても、誰もいない。
彼方も、リッキーも、飼い主のお姉さんも、誰も。
もうすぐ陽が沈む。きっと、とっくに帰ってしまったのだろう。
本当は、ここに来るつもりなんて、なかった。
彼方に会うつもりなんて、なかった。
だって、彼方に会ったとしても、交わす言葉はない。
けれど、虎丸の話を聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。
ここに来て、自分はどうするつもりだったのだろう。
もし彼方がいたら、自分は何と言葉を掛けたのだろう。
きっと、自分は何も言えない。
何も言えないことで、また彼方を傷付ける。
やっぱり、もう会わない方がいいんだ。
きっと彼方は、自分が知らない何処かで、自分が知らない誰かと幸せに過ごしている。
それを、壊すことはないんだ。
日向は海岸に背を向け、駅の方へと向かった。
電車にとバスを乗り継いで向かった先は、街の大学病院。
病院に着くころには、外はすっかり暗くなっていた。
いつものように東棟のエレベーターに乗って、五階へ上る。
将悟には、「また病院行くときは呼べ」と言われたけれど、やっぱり友人を巻き込むわけにはいかない。
百合も心配するだろうが、今日は夜までバイトだとメールで嘘を吐いた。
これは自分の家の問題だ。恋人や友人に頼るわけにはいかない。
エレベーターの扉が開くと、目の前のナースステーションに美波がいた。
美波はファイルに目を落として、俯いている。
「こんにちは。」
日向が軽く挨拶を呟くと、美波は顔を上げた。
そして、いつもの優しい微笑みを自分に向ける。
「ああ、日向君。こんにちは。」
ファイルを閉じて、美波はナースステーションから出てきた。
当然だが、病院の中は静かで、面会者はほとんどいなかった。
面会時間の終わりが迫っているから、仕方がないけれど。
自分は家が遠くて、いつも面会時間ギリギリになってしまう。
「母さんの様子…どうですか?」
そう聞くと、美波は少し困ったような顔をした。
「えっとね…。先生呼んでくるから、ちょっとここで待っててくれる?」
「はい。」
美波はナースステーションに戻って、PHSで誰かと話し始めた。
会話の内容は、遠くて聞こえない。けれど、きっと母親を担当した医師だろう。
いつもニコニコと微笑んでいるのに、今日の美波は難しい顔をしていた。
それだけ、母親の容態に問題があるのだろう。
昨日のことを思えば、なんとなく察していたけれど。
それから、しばらくして明石と名乗った医師が現れた。
白髪頭に、分厚い丸眼鏡。少し気難しそうな初老の男だった。
美波と共に別室に通されて、母親の容態について聞かされた。
明石の話によると、母親は事故で頭を強く打ったことによる、逆向性健忘と診断された。
障害にされるのは主に自分に関する記憶であり、事故に遭う前の記憶が思い出せないらしい。
つまりは、いわゆる記憶喪失。
母親は、自分たち家族や、自らに関する記憶を全て失ってしまっていた。
「それって…いつ記憶が戻るんですか?」
テーブルを挟んで、向かい合ってソファーに座る明石に、日向は聞いた。
ソファーとテーブルしかない六畳ほどの無機質な応接室。
美波は、見守るように日向の傍に立っていた。
「ハッキリしたことは言えない。今は事故のショックで一時的に記憶が混乱しているだけで、今日明日にでも記憶が戻るかもしれない。反対に、完全に記憶が失われていて、一生戻らないかもしれない。」
明石は冷たく言い放つ。
「一生…。」
日向は目を伏せて、小さく呟いた。
母親は、一生記憶がないままになるのかもしれないのか。
今まで散々暴力を振るっておいて、自分は忘れただなんて、虫がよすぎる。
腹立たしいというより、少しだけ、ほんの少しだけ、心が寒くなった。
「日向君、大丈夫よ。お母さん、きっとすぐ良くなるから。ね?」
美波は、自分を慰めるように肩に手を置く。
「看護師がそんなに軽々しく不確定なことを言うのは感心せんな。医療に関わる人間が、気休めで軽率な嘘を言っていいわけがない。」
明石の冷たい言葉に、美波は唇をギュッと噛んだ。
「…ごめんなさい。でも、日向君、まだ高校生なんですよ。」
「高校生なら、半分大人みたいなものだろう。現実をちゃんと受け止めるべきだ。」
丸眼鏡の奥の鋭い目が、自分を睨むように見つめる。
美波は不満そうに、明石に抗議の視線を向けた。
冷たい医者と、優しい看護婦。
二人の仲は、あまりよろしくないみたいだ。
けれど、明石が言うのは正論だ。
気休めの言葉なんか掛けられても、どうにもならない。
優しく気遣われても、現実は変わらない。
それなら、事実だけを聞いていた方がマシだ。
明石の話では、母親の記憶が必ず戻るという保証はないみたいだ。
遠まわしに「無駄な期待はせず、この現実を受け入れろ」と言われた。
骨折はしているが、母親の記憶喪失は日常生活には問題がないため、一週間検査入院をしたのち、問題が無かったら退院だと言った。
一通り説明を受けて、日向は解放された。
医師を置いて応接室から出ると、美波は自分に言い聞かせるように、言った。
「大丈夫よ。大丈夫。きっと、すぐに全部思い出すよ。」
医者に怒られても、美波は自分を気遣って優しい言葉を掛けてくれる。
その優しさが、なんだか逆に辛くなった。
病室へと続く廊下を眺めてみると、看護師が患者へ食事の配膳をしていた。
もうそんな時間なのか。時計を見ると、午後七時を回っていた。
もう面会時間は過ぎている。
「どうする?少しだけでもお母さんに会っておく?」
「でも…」
「昨日は、ちゃんとお母さんと話せなかったものね。
日向君のことは私が説明しておいたから、顔だけでも見せてあげて。」
そう言って、美波はいつもの優しい微笑みに戻っていた。
躊躇う日向に、半ば無理矢理に病室へと向かわせる。
長い廊下の先の516号室。
「高橋奈津子」と書かれたプレートが掲げられている。
記憶を無くした母親がいる病室。
なんだか昨日とは違う緊張を覚えた。
日向はゆっくりと深呼吸をして、その扉をノックする。
「はーい。」
昨日とは違う、少し間の抜けた声。
扉を開けて、中に入る。
ベッドに座っていた母親は、自分を見て戸惑ったような表情をしたが、すぐに微笑みを作った。
そんな顔、初めて見た。自分の記憶の母親は、いつも怒って、泣いていたのだから。
「…俺のこと、わかる?」
「えっと…日向よね?」
「…うん。」
母親の微笑みは、ぎこちないものだった。
記憶を無くして、突然息子がいると言われたら、戸惑うのも当然か。
「体…どう?」
「ちょっとだけ不便だけど、平気よ。体は元気なの。」
「…そっか。」
母親の左腕には、真っ白なギプスが嵌められていた。
唯一事故で怪我をした左腕。
「そんなところに立ってないで、こっちにいらっしゃいな。」
手招きをして、母親はベッドの脇に置かれたパイプ椅子を指さす。
「いいよ、すぐ帰るから。」
「そんなこと言わないで、近くに来てもっとよく顔見せて?」
そう言われて、日向は仕方なしにパイプ椅子に座る。
母親に近付くと、嫌な汗をかいた。
無意識に、肩に力が入る。逃げ出したいほどの緊張に襲われた。
日向は母親の顔が見れなくて、視線を足元に彷徨わせる。
「美波さんから聞いたんだけど、毎日お見舞い来てくれたのよね。」
「…毎日は、来てないけど。」
「家遠いのに、ごめんね。」
「…別に。」
小さく呟くと、母親は困ったように笑った。
とても親子とは言えないぎこちない会話。
「心配してくれたのよね。日向は、優しい子ね。」
そう言って、母親は手を自分へと伸ばす。
日向は無意識に身を固くしてギュッと目を瞑った。
―殴られる。
そう思った。
けれど、その手は自分の頭を撫でた。
やけに優しい、温かい手。
「え…?なんで…。」
戸惑った視線を向けると、母親は申し訳なさそうな顔をした。
「あら、嫌だった?ごめんね?」
まるで小さな子供に接するかのような、柔らかい言葉。
この人は、本当に自分のことを覚えていないんだ。
母親と自分との関係を、何一つも覚えていないんだ。
明石に言われてわかっていたけれど、日向はただ戸惑うことしかできなかった。
優しい笑顔、優しい声。
こんな母親、見たことがない。
「日向は優しくて、賢くて、いい子だものね。大丈夫。ちゃんと覚えているわ。」
そう言って、母親は微笑む。
「…そんなんじゃないよ。」
優しい?賢い?いい子?
そんなわけないじゃないか。
覚えているだなんて、それは嘘だ。
この人は、自分のことを何一つわかっていない。
全部美波から聞いた話だろう。
人に聞いた話で、知った気になっているだけだ。
母親の知っていると言う自分は、美波が作り上げた虚像だ。
日向は、何故か胸が締め付けられるような気持ちになった。
この感情を、言葉にしようと思ったけれど、無理だった。
悲しい。寂しい。辛い。怒り。絶望。安堵。虚無。
どんな言葉も、近いようで違う気がした。
複雑な気持ちが胸を犇めき合い、言葉と言う形を成さなかった。
家に帰って、キッチンや母親の部屋にある酒をすべてシンクに流した。
灰皿やライターも、自分の部屋の箪笥の奥の奥に隠した。
彼方の服や物を、誰の目に触れないように全てクローゼットにしまった。
家の片付けを済ませると、日付が変わっていた。
日向は疲れてベッドに沈み込む。
正直、頭はまだ混乱していた。
優しい笑顔、優しい声、優しい手。
あれが、自分の母親なのか。
自分が知っている母親は、酒に酔って泣いて暴れる姿だけだった。
笑顔を向けてくれることも、自分の頭を撫でたことだって、一度もなかった。
酒さえ飲まなければ、あんなにも穏やかで優しい人だったのだろうか。
ふいに、ベッドの隅に綺麗に畳んであるパジャマが視界に入った。
百合のパジャマだ。ピンクと白の縞模様の百合らしい可愛いパジャマ。
何度か百合が家に泊まっているうちに、日向の家には百合の私物が増えていた。
パジャマに歯ブラシ、シャンプー、携帯電話の充電器。
髪のセットに使う美容液と整髪料。
百合の私物が増えるたびに、半同棲しているような感覚になって、少しだけ嬉しかった。
日向はそのパジャマを手に取る。
今朝まで百合が来ていたパジャマ。
抱きしめると、百合の甘い香りが残っている気がした。
落ち着く、けれど情欲をそそる百合の香り。
百合に会いたい。
何かを悩んだり、落ち込んだりすると、無性に百合に会いたくなる。
日向にとって、百合は天使や女神のような存在だった。
辛い時に傍にいてくれる。寂しさを癒してくれる。
自分に必要なのは、百合以外に考えられなかった。
あの優しい微笑みと、凛とした声で自分の名前を呼んでほしかった。
百合の全てがほしかった。
百合の柔らかい唇にキスをして、呼吸が苦しくなるほど舌を絡めてみたかった。
そのきめ細やかな白い肌に触れて、しつこいくらいに自分の印を残したかった。
体を汗ばませて、溶けてしまうほど絡み合いたかった。
百合を滅茶苦茶に犯したかった。自分だけのものにしてしまいたかった。
「…百合…っ。」
百合の名を呼びながら、右手を遊ばせる。
百合の甘い香りに包まれながら、欲望に身を委ねる。
汚したくない、傷つけたくないと思いながら、頭の中では何度も百合を汚していた。
こんなことをしていると百合に知られたら、嫌われてしまうかもしれない。
けれど、年頃の性衝動には逆らえるはずもなく、寂しい夜は熱を持て余した。
百合の前では、隠している衝動。
こんな欲望、百合に言えるはずもない。
キスだけじゃ足りないだなんて、口が裂けても言えなかった。
百合の知らないところで百合を汚す自分に罪悪感を覚えつつ、熱を吐き出す。
「…俺、ホント最低だ。」
深い溜息を吐きながら、日向は頭を抱える。
行為が終われば、いつも後悔が押し寄せた。
天使のような可愛い女の子を、頭の中で滅茶苦茶にしている自分に、嫌気がさした。
百合の前では、恥ずかしいとか、嫌われたくないなどと言いながら、これも自分の本性なのだ。
百合と共に眠る夜は、いつも自分との戦いだった。
天使のような無防備であどけない寝顔に、何度も理性を揺さぶられた。
露出の多い服を咎めたり、ブランケットを膝に掛けたりするのは、百合への優しさではなかった。
自分の欲望が抑えきれなくなりそうで、怖かったのだ。
百合には、自分のこの醜い本性を悟られたくなかった。
百合の心の傷は癒えていない。
いつか百合を押し倒した時、わずかに体が震えていた。
彼女は情けない自分を笑ったが、本当は心の底で恐怖したのだろう。
それでも彼女は強がって、挑発的な笑みを見せた。
そんな彼女を汚すなんて、できるわけがなかった。
大切にすると誓った。大事にすると決めたんだ。
自分の汚い欲で、百合を傷付けたくなかった。
大体、自分はこんな時に、何をしているんだ。
これから自分すらもどうなるかわからないのに、こんなことをしている場合じゃない。
これからどうするか、ちゃんと考えないと。
彼方の痕跡は全部消した。
自分たちに関する母親の記憶は、一切無い。
それなら、彼方のためにも、彼方は最初から居なかったことにするべきだ。
その方が、きっと彼方も幸せだ。
このまま母親の記憶が戻らないことを祈ろう。
大丈夫。どうにかなる。
自分なら、きっと平気だ。