「嘘で固める」
「嘘で固める」
「わあ、すごい!」
ベッドの上に付けられた補助テーブルの上のプリンを見て、母親は感嘆の声を上げる。
申し訳程度に、生クリームとイチゴを乗せただけの、何の変哲もない、ただ混ぜて固めただけのプリン。
午後から会う百合のために作った余り物だ。
他にお見舞いの品なんて思いつかなかった。
「これ、日向が作ったの?」
「ああ、うん。…まあ。」
「お菓子作りできるのね。すごいすごい。」
そう言って、母親は柔らかな微笑みを日向に向ける。
今の母親の目には、憎しみも悲しみも何もない。ただ無邪気だった。
こうも素直に褒められると、なんだか照れくさい。
「母さんが教えてくれたんだろ?」
「え?あ…そ、そうね。」
母親の微笑みが、戸惑いに代わる。
戸惑いが生じるのは、母親にそんな記憶がないから。
事実とは違っても、本人にそれを確かめる術はない。
「そうだったわね。よく一緒に作ったのよね。」
母親はすぐに取り繕って、微笑んだ。
そして、プリンをスプーンで掬って口に含んで、
「…美味しい!」
そう洩らして、頬を緩ませた。
「よかった。」
ぱあっと明るくなった母親の表情は、彼方に似ていた。
自分が好きだった、彼方の純粋無垢な笑顔に重なる。
当たり前か、親子なのだから。
自分も将悟に、母親と顔が良く似ていると言われたっけ。
「でも、一人で大変でしょう?家のこと。ご飯とか、洗濯とか。
ごめんね、母さんこんなことになっちゃって。」
プリンを食べながら、母親は日向を気遣うように言う。
「平気だよ。いつも母さんの手伝いしてたから、俺なんでもできるし。
そんなことより、母さんは自分の体を治すことだけ考えて。」
「ありがとう。日向は優しい子ね。」
「そんなことないって。」
そう言って、日向は微笑んでみせた。
日向は、母親に偽の記憶を植えつけていた。
虚像の母親を作り上げて、その通りになるように仕向けた。
虐待を繰り返していたことを、思い出させないように。
母親のためなんかじゃない、自分の身を守るために。
そして、家を出ていった彼方のために。
母親の失われた記憶の中の、彼方を存在を消した。
これがきっと、今の自分にできる正しいことだ。
自分の下手な嘘がバレないよう、出来るだけ日向は微笑むようにした。
彼方の真似をしたのだ。
彼方はいつも、嘘を吐くときに微笑む。
誰よりも彼方を間近で見てきた自分になら、できるはずだ。
大丈夫、きっと隠し通せる。母親を、騙しきってみせる。
ふいに、病室の扉がノックされた。
「はーい。」
そう母親が返事をすると、美波が扉を開けて現れた。
美波は日向と母親を見比べて、少し安心したような表情をして微笑んだ。
自分達親子が、仲良さそうに見えたのだろうか。
彼女には、自分が母親のことを心配しているように見えているらしかったから、普通に会話をしている二人を見て安心したのだろうか。
仲が良い親子だなんて、そういうわけじゃない。
なんて日向は心の中で思ったけれど、口には出さなかった。
「高橋さん、せっかく日向君来ているのに申し訳ないんですけど、そろそろ検査の時間ですよ。」
おそらくは、記憶に関する脳の検査だろう。
脳に何の問題もなく、記憶を戻す術もなければいいのに。
このまま何事もなく、何も変わらずに終わってくれたらいいのに。
いや、終わりなんてないか。親子と言う事実は、一生変わらないのだから。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るよ。」
そう言って、日向は席を立つ。
「ええ、プリンありがとうね。ちゃんと一人でもご飯食べないと駄目よ?
カップラーメンとかレトルト食品なんかは駄目だからね?育ち盛りなんだから、ちゃんと栄養のあるもの食べないと。」
「わかってるって。明日は…バイトがあるから無理だけど、また火曜日にでも来るよ。」
「ええ。…気を付けて帰ってね。」
「うん。じゃあ。」
帰りのバスに揺られながら、日向は考える。
帰り際、母親は名残惜しそうな顔を見せた。
始終自分の体を気遣うようなことを言った。
あれが、自分の母親か。
日向は胸に広がる違和感が拭えずにいた。
自分を心配するようなことなんて、今まで一度も言ったことなかったじゃないか。
どうして今更、母親らしいことをいうのだ。
息子がいることすら忘れていたのに、どうして母親らしく振る舞うのだ。
記憶を無くした母親は、別人のようだった。
別人のように、穏やかで、優しかった。
記憶を無くした本人よりも、日向の方が戸惑っていた。
それを彼方の真似の微笑で、なんとか誤魔化した。
自分は上手く笑えていただろうか。
上手く、騙せていたのだろうか。
穏やかで優しい母親。
騙しきれたのなら、自分も普通の暮らしができるのだろうか。
彼方がいない家で、普通の親子になれるのだろうか。
暴力も暴言もない、普通の親子に。
なんだか疲れた。
嘘がバレないように、気を張りすぎたんだ。
日向は溜息を吐いて、ぼーっと窓の外を見つめる。
駅はもうすぐそこだった。
昨日と変わらず、とてもいい天気とは言えない曇天。
重たい雲が、落ちてきそうなほど低く垂れていた。
そういえば、今日は午後から雨が降るんだっけか。
この街は、日向が住む町とは違い、都会だと思う。
高いビルが立ち並んでいるし、車も人も多い。
道路も綺麗に舗装されていて広いし、いろんなお店が犇めき合い、いろんな人がいる。
けれど、なんだかごちゃごちゃとしていて目が疲れる。
バスが信号待ちで止まった。
日向は、広い歩道に目を向ける。
都会だからだろうか。お洒落な人が多い。
勉強のために買い漁ったファッション誌や女性誌で見た、流行りの服に身を包んだ女性。
テレビの特集で見た、今年流行ると言われていた細身のパンツを穿いている男性。
着飾って、仲良さそうにデートをするカップル。
その中に、見知った顔を見つけた。
黒いワンピースを来た京子だ。
そういえば、京子も今日はバイトが休みだった。
デートだろうか。カメラを構えた男と歩いている。
フラッシュが瞬いた後、京子は怒ったような表情をした。
男は、カメラから目を離して笑った。
信号が変わって、バスが動き出す。
日向は車窓に張り付くように、身を乗り出した。
その男は、彼方だった。
動き出したバスの窓越しに、彼方が小さくなっていく。
今すぐバスを降りたい衝動に駆られた。
彼方に駆け寄りたくなった。
けれど、それはしなかった。
いや、できなかった。
だって、彼方は幸せそうに笑っていた。
心底楽しそうに、京子をカメラに収めていた。
なんだ、幸せそうじゃないか。
彼方は彼方で、幸せを手に入れた。
彼方の人生に、自分が口を挟む隙は、ないじゃないか。
自分がやってきたことは、正しかったんだ。
彼方の存在を消したのは、正しかったんだ。
案外、彼方は自分の近くにいた。
元気そうな彼方の姿が見れた、それだけでいい。
それだけで、いいんだ。
遠くなる彼方の背中を見送って、日向はそっと目を伏せた。
午後になって、日向はいつも通り自宅で百合と過ごしていた。
昨日一日と今日の午前は、バイトがあるとメールで嘘を吐いた。
直接話せば、自分の嘘がバレてしまうから、メールを使うなんて卑怯だと思う。
けれど、百合に心配をかけたくなかったのだから、仕方ない。
一人で病院に行くなんて言ったら、百合は絶対に大騒ぎする。
今度こそ、自分もついていくと言って譲らなかっただろう。
日向は百合に嘘を吐いたことに罪悪感を覚えつつ、心配を掛けないように、いつも通りを装う。
けれど、テーブル越しに向かい合うお姫様は、ご機嫌斜めだった。
両手で頬を覆うように頬杖をついて、百合は不満そうに唇を尖らせる。
そんな百合の不機嫌そうな顔でさえ、日向には可愛く見えた。
けれど、テーブルの上のミルクティーや、プリンは、まだ手付かずのままだ。
百合の大好物のはずなのに。
「百合…食べないの?」
「その前に、何か言うことないんですか?」
そう言って、百合は訝しげな視線を自分に向ける。
一体何が不満なのだろう。
「今日のプリンも自信作のつもりなんだけど…。」
「ひーくんのプリンはいつも美味しいですよ。でもそうじゃなくって…!」
「じゃあ何?俺なんかした?」
百合は一度視線を伏せて、それから頬杖を止めて、自分を真っ直ぐに見つめた。
百合の強い瞳が、自分を捕らえる。日向は、その視線にたじろいだ。
「今日は何があったんですか?…やっぱり、一人で病院行ってたんですか?」
「…え?」
思いがけない言葉に、日向は唖然とする。
百合は、やっぱり、とでも言いたげに溜息を吐いて、悲しげな顔になった。
「ひーくんは隠し事が下手なんだから、私にくらいは隠さないでくださいよ。」
どうやら、百合には全てお見通しらしい。
百合に下手な嘘も、隠し事も通じない。
その澄んだ強い瞳で、自分の心を見透かしている。
凛とした綺麗な声で、嘘も何もかもが暴かれてしまう。
百合は自分のことを、わかりすぎるくらいわかっているのだ。
百合は、自分が百合に何も相談しなかったことに、しょげていたようだ。
「…ごめん。心配かけるかと思って。」
「何も言わない方が心配です」
「ごめん。」
駄目だな、自分は。
心配かけたくないと言いながら、百合に心配させている。
上手くいかない。百合に弱いところを見せたくないのに。
けれど、こんな不器用で弱い自分を受け入れてくれる百合に、
「実は…昨日も、今日も、病院行ってたんだ。」
それから、百合に全て話した。
隠し事ができないことはわかっているから、ちゃんと、全部。
一つずつ、ゆっくりと説明をした。
母親の記憶が本当になかったこと。
記憶がない母親は、穏やかで優しかったこと。
自分の頭を撫でて微笑んだこと。
彼方の存在を消して、嘘の家族を作ったこと。
けれど、街で彼方を見かけたことは言わなかった。
言ったってどうにもならないし、百合は彼方のことを良くは思っていない。
彼方の存在は、自分の中だけにしまい込んでしまおうと思った。
百合は頷いたり、相槌を打ったりして、静かに話を聞いてくれた。
話し終えて一息つくと、百合は心配そうな眼差しで自分を見つめた。
「じゃあ、大丈夫なんですか?もうひどいことされたり…」
「わからない。わからないけど…多分、大丈夫だと思う。」
「多分じゃダメです。」
曖昧な言葉に、百合は納得できないようにむくれる。
けれど、自分でもどうなるかはわからないのだから、ハッキリしたことは言えない。
「…平気だよ。また何かあったら、ちゃんと百合に言うから。」
百合はまだ納得していないようだけれど、小さく頷いて、
「…約束ですよ?」
そう言って、小指を差し出した。
「うん、約束。」
日向も小指を差し出して、百合の小指に絡めた。
「次から、全部私に話してくださいね。」
「うん。」
「隠し事は絶対ナシですよ?」
「わかってる。もう隠さないよ。」
「嘘吐くのもダメですよ?」
「うん、約束する。」
指を絡めたまま、二人は見つめ合う。
折れてしまいそうなほど細い、百合の指。
けれど、折れることのない清らかで強い心。
ああ、自分は、百合には敵わない。
「じゃあ、ゆーびきりげんまん、嘘吐いたら針千本のーます!」
契りを交わして、小指が離れた。
そして、百合は、ふっと意地悪な笑みを浮かべる。
「嘘吐いたら、本当に針千本飲んでもらいますからね。」
「ええ…それはちょっと…。」
「ひーくんが約束守れば済む話です。」
すっかりご機嫌が直ったお姫様は、満足そうに微笑む。
そして、自分が作ったプリンにやっと口を付けた。
「美味しい。ほっぺた落ちちゃいそう。」
落ちてしまいそうだという頬を両手で支えて、百合は心底可愛い笑顔を見せる。
「よかった。」
その笑顔で、日向の心も癒された。
百合の笑顔で、悩みも、戸惑いも、何もかもが吹き飛ぶような気がした。
この笑顔を、ずっと傍で見ていたい。この先も、ずっと、ずっと。
「毎日ひーくんの作るお菓子食べたいなあ。ひーくん、お嫁に来てくださいよ。」
冗談めかして百合が言う。
「お嫁に来るのは百合だろ?」
「あら、もらってくれるんですか?」
「そのうち、な。」
その言葉に、百合は幸せそうに笑った。