「最後のお泊り」

 「最後のお泊り」



週末の金曜日。
学校を終えて、日向は百合と共に家に向かっていた。
今日は、いつもより百合の荷物が多い。
右肩にスクールバックを下げて、右手には学校指定の皮の学生鞄。
パンパンに膨らんだ可愛らしいウサギが描かれたトートバッグは左肩に、左手には傘が握られていた。
天気予報では午後から雨が降ると言っていたが、どうやら外れたみたいだ。
空を見ると、薄い雲の隙間から晴間が覗いていた。

「荷物、俺持つよ。」

「え、いいですよ!重いし…」

百合は、首を左右に振って拒否する。
両手が塞がっているのだから、首を振ることでしか拒否できないのだろう。

「手、繋げないだろ?」

そう言うと、百合はおずおずと「じゃあ傘だけ持ってください。」と言った。
渡された傘を持って、空いた左手を繋いでも、百合はまだ重そうだ。
何か重たいものでも入っているのか、足取りはフラフラと左右に揺れる。
華奢な体でこんな大荷物を運ばせるのは、さすがに彼氏としては見過ごせない。
それに、手を繋いでいても左肩のトートバッグが邪魔をして、いつもより百合との距離が遠い。

「百合、そっちのトートバッグも持たせて。」

日向は、パンパンに膨らんだトートバッグを指さした。

「こ、これは駄目です!」

「重いだろ?」

「大丈夫です!」

何か大事なものでも入っているのか、百合は頑なにトートバッグを渡さない。
仕方なしに日向は、別の荷物を持ってあげようと、

「じゃあスクールバッグ持つから、貸して。」

そう言うと、百合は大人しくスクールバッグを渡してきた。

「ごめんなさい、持たせちゃって。」

「いいよ。急に言いだしたの俺なんだし。」

そして、百合はトートバッグを右肩に持ち替えて、再び手を繋いだ。
さっきよりも近付く距離に、日向は安心感を覚えた。

母親の退院が、来週の月曜日に決まった。
しばらく百合を家に呼ぶことができなくなるため、今日と明日は、百合に家に泊まってもらうことにしたのだ。
百合の荷物が多いのは、二日分の泊り道具が入っているせいだろう。
これは、自分のワガママだ。けれど、百合は喜んで了承してくれた。
そんな百合の優しさに、自分はいつも救われている。

母親の様子は、相変わらずだった。
何度も繰り返した検査の結果は、異状なし。
けれど、記憶を取り戻すことはなかった。
あれから何度か病院に出向いたが、母親は穏やかな笑みで自分を迎えた。
平和で安穏とした日々。
いつ、どうなるかはわからないけれど。

「今日はスーパー寄らないんですか?」

「うん。買い出しは昨日のうちにしておいたし。」

「今日のご飯はなんですか?」

「内緒。今日は、ちょっと奮発して豪華なの作るから楽しみにしてて。」

「豪華なのですか?なんだろう。楽しみだなあ。」

そう言って、百合は笑う。

最後のお泊りと、二人は呼んでいた。
別に、別れるわけではない。これからも百合と付き合っていくつもりだ。
けれど、母親が退院して家に戻ってきたら、百合を家に呼ぶわけにはいかなくなる。
母親に彼女を紹介するのも気が引けるし、万が一、百合に何かあったら困るからだ。
いつまで母親が家にいるかわからないし、ずっといるのかもしれない。
次に百合と一緒に眠れる日がいつくるかわからない。
だからこの三日間は、日向と百合に残された最後のお泊りだった。

家に着いて、荷物を置いてから、百合が好きなミルクティーを淹れた。
百合に合わせて自分も同じものを飲むうちに、日向もミルクティーが好きになっていた。
百合は気付いていないかもしれないが、いつもより少し高い茶葉を選んだ。
たっぷりのミルクと、くどいくらいの甘い角砂糖で、最後の日を彩る。

「今日は、いっぱい甘やかしてあげますよ。」

そう言って、ソファーに座った百合は両手を広げて微笑む。
その胸に飛び込めば、百合の甘い香りに包まれた。

「ふふっ、ひーくんは甘えんぼですね。」

百合は自分を抱きしめて笑う。

「甘やかしてくれるんだろ?」

日向も百合を抱きしめて、微笑む。
温かい体温。落ち着く甘い香り。華奢で柔らかい体。
百合を抱きしめて、百合に抱きしめられると、ひどく安心した。
ミルクティーに入れた砂糖より甘い時間だった。

一日目の夕食は、日向一人で作った。
百合も手伝うと言ってくれたが、断った。
百合を驚かせて、喜ばせたかったのだ。
メニューは魚介のパエリアと野菜のコンソメスープ。
パエリアなんて作ったことはなかったけれど、たまたま雑誌で作り方が書いてあって、見栄えもいいし、豪華に見えるし、百合のために作ってみようと思ったのだ。
具材はイカとタコとエビ。野菜もたっぷりと入れて、フライパンで蒸し焼きにする。

蓋を開けた時、あまりの出来の良さに嬉しくなって、キッチンから百合を呼んで見せた。
我ながら子供っぽいと思うが、それくらい初めて作ったパエリアに自信があったのだ。

「わあ!すごい!パエリア?パエリアですか?ひーくんパエリアも作れるんですか!?」

百合も興奮した様子で、フライパンの中のパエリアと自分を見比べる。
思惑通り、百合は驚いて、喜んでくれた。
そんな百合の素直で無邪気なところが好きだった。嬉しそうな笑顔が好きだった。

それから二人で夕食を取って、順番に風呂に入った。
先に百合に風呂を進めると、百合は冗談めかして「一緒に入ります?」なんて悪戯っ子のような笑みを向けてきた。
「いや、いいよ…。」と照れながら拒否すると、「そう言うと思った」と百合は可笑しそうに笑った。
無意識なのか、そんなことを言われると心臓に悪い。
百合のことを性的な目で見るようになってしまってからは、百合の言葉や仕草の一つ一つを意識してしまう。
そんな目で見てはいけないと思いながらも、日向の中には悶々とした感情が溜まっていった。

風呂場から出てきた百合の髪を乾かすのは、すっかり日向の役目になっていた。
百合を椅子に座らせて、後ろからドライヤーを当てる。
慣れた手つきでいつものように百合の髪を乾かしていると、百合がパジャマにしているパーカーが肌蹴て、肩が露出していることに気付いた。
白いブラジャーの肩紐が見えている。
白だなんて、百合らしい。なんて思ったけれど、すぐに恥ずかしくなった。
何を思っているんだ、自分は。そんな目で見てはいけないとわかっているのに。
日向は目のやり場に困って、髪を整えるふりをして、できるだけさり気なくパーカーを上げて肩ひもを隠した。

「あ。」

そのことに気付いたのか、百合は小さく声を上げる。
日向は動揺を隠しながら平静を装う。

「な…何?」

「…なんでもないです。」

そう言って、百合は少しおかしな顔をした。
日向は内心ドギマギしながら、百合の髪を乾かした。

夜が更けてきて、二人は日向の部屋へと入った。
日向が換気で開けっ放しだった窓を閉めていると、百合がおかしな行動をしていた。
しゃがみ込んで、何かを探しているみたいだ。

「…何やってるの?」

「坂野先輩が、男子がエロ本を隠すのはベッドの下だって言ってたんです。」

ベッドの下を覗き込みながら、百合は言う。

「ないよ、そんなの。」

「ないんですか。」

「ないよ。」

「なーんだ。」

百合は、つまらなさそうに肩を落とす。
ベッドの下には、何も置いていない。
百合がいるのに、そんな本を読んだりはしない。
そもそも、そんな物を買う勇気なんて、自分にはない。
何度か亮太に無理矢理借りさせられたことはあるけれど。

その日は、いつものように手を繋いでベッドに入った。
ピッタリとくっついて、指を絡めて、いつものように何気ない話をした。
けれど、その夜の百合はいつもより饒舌だった。
まるで今日が終わるのを惜しむように、いつまでもいつまでも、他愛のない話を続けた。
学校のこと、テストのこと、学園祭のこと。ありふれた、普通の会話だった。
日向は相槌を打ったり、頷いたりして、百合の話に耳を傾けた。
日付が変わっても百合は喋り続け、しばらくして話すことがなくなったのか、無口になった。
そして、自分の様子を窺いながら、静かに抱き付いてきた。

「ひーくん、もう眠いですか?」

「…ちょっとだけ。」

静かな部屋で、時計の針の音だけが響く。
カチ、コチ、と今日が終わっていく音。
百合と一緒に眠れるのは、今日と明日だけ。

「ねえ。キス…してください。」

甘えるような上目づかいで、百合はキスを強請る。
理性が崩れてしまいそうだった。
月明かりで照らされた白い肌。小さな赤い唇。悩ましい瞳。
パジャマの胸元から覗く僅かな谷間に情欲がそそられて、日向は生唾を飲み込んだ。
最後のお泊りならば、いっそ百合がほしい。百合の全部がほしい。
数えきれないくらい頭の中で想像したことを、今ここで百合にしてしまいたい。

いや、ダメだ。変なことを考えてはいけない。
百合はそういう意味で言っているんじゃない。
自分は何馬鹿なことを考えているんだ。

日向は、邪念を振り払うように目を伏せて、百合に小さくキスをした。
触れるだけの、短いキス。
これだけでも、今の自分はどうにかなってしまいそうだった。

「…もっと。」

唇が離れると、百合は名残惜しそうな表情を見せ、もう一度キスを強請った。
先程と同じように軽く口付けると、百合はもっともっとと、日向を求めた。
日向は百合に求められるまま何度も何度もキスをして、百合は何度も何度もキスをせがんだ。
結局、百合の寝息が聞こえてきたのは、午前三時を過ぎた頃だった。

百合は縋りつく子供のように自分をギュッと抱きしめたまま、あどけない寝顔で眠っている。
百合がこんなにも無防備な姿を晒すのは、自分が変なことをしないと思っているからだろう。
信頼されていることが嬉しい反面、日向は自分の邪な気持ちに恥ずかしくなった。

自分は、百合が思っているほど紳士ではない。
百合に手を出さないのは嫌われたくないからだ。
けれど、自分だって人並みに性欲くらいはある。
いつだって百合の体に触れたいと思っているし、その衣服を脱がせたいとさえ思ってしまっている。
白く滑らかな肌を露わにして、キスをして体に舌を這わせて、もっと深くまで繋がりたいとも思っている。
実際、頭の中では、自分に都合のいい妄想をして、何度も百合を犯した。

日向は、静かに眠る百合を見つめてみる。

閉じた瞼。長い睫毛。雪のように綺麗で白い頬に、薄く開いた唇。
この唇と、さっきまでキスをしていたんだ。
そっと指を押し当ててみると、柔らかい感触がした。
自分とは違い、少しも荒れていない潤いのある唇。
その隙間からは、小さな赤い舌が覗いていた。

本音を言うと、キスだけじゃなく、百合と舌を絡めてみたいとも思う。
でも急にそんなことをしたら嫌われるかと思って、なかなか踏み出せずにいた。
それに、そんなことをしてしまったら、歯止めが利かなくなりそうで怖かった。

もっと百合と色々なことがしたい。
もっと百合がほしい。百合の全部が欲しくてたまらなかった。

自分がプレゼントした百合の右手薬指に輝く指輪。
百合は律儀に毎日つけてくれている。
子供じみた独占欲だと思われるかもしれないけれど、百合が自分のモノだと言う証が欲しかった。
いつも自分は、百合が誰かに取られやしないかと、百合に愛想を尽かされないかとヒヤヒヤしている。
だって、百合は可愛い。可愛いだけじゃなくて、優しくてとてもいい子だ。
そんな百合がモテないわけがない。男なら誰もが目を引く容姿だと思う。
現に、身近に百合に好意を寄せていた友人もいる。
それに比べて、自分には何の取り柄もない。
ただ、人よりほんの少しだけ、器用なだけ。
何でもいいから、百合を繋ぎとめるものがほしかった。
それが指輪だなんて、少しキザすぎたかもしれない。
けれど、目に見える形がないと、不安になるんだ。

日向は指輪が光る百合の右手を取り、手の甲にキスをしてみた。
唇に吸いつくような滑らかな柔肌に、なんだかひどく興奮した。
百合は静かに寝息をたてて眠っている。目を覚ます気配はない。

少しだけ、少しだけ、もっと百合に触れたい。

日向は手を伸ばし、百合の頬に触れた。
自分とは違う、女の子特有の柔らかさに、胸がドキドキした。
そのまま手を滑らせ、首筋、肩をなぞる。
細く、折れてしまいそうなほど華奢な体。けれど、百合の優しさと同じように。温かかった。
そして、百合がパジャマにしているパーカーのファスナーに手を掛けた。
その瞬間、

「ううん…。」

百合はそう小さく漏らし、寝返りを打った。

その声で、日向は我に返った。
なにをしようとしていたんだ、自分は。
自分がしていたことが、信じられなかった。必死に理性で押し込めていたのに。
嫌な汗が体中から吹き出る。心臓がバクバクと脈打った。
こんな、寝込みを襲うような真似をしそうになったなんて。
まだ興奮が覚めないまま、日向はそっとベッドを抜け出して、逃げるようにトイレに駆け込んだ。


次の日の百合は、少し様子がおかしかった。
二人はソファーに腰掛けて、いつものようにテレビを眺めながら他愛のない話をしていた。
日向は昨日の罪悪感から、百合と目を合わせ辛かった。
けれど、昨日のことを知らない百合は、いつものように無邪気に笑う。

百合はもう秋だというのに、肩が出た寒そうなキャミソールのワンピースを着ていた。
胸元が大胆に開いている。肌の露出がいつもより多い。それに、スカートもいつもより短い。
ソファーの上で膝を抱えるように座ると、スカートが捲れ上がって白い太ももが露わになる。
下着が見えそうになっていることを百合は気付いていないのか、日向は目のやり場に困った。
視線を上げると、百合の腕には鳥肌が立っていた。寒いのだろう。
当たり前だ。もうそんな薄着で過ごせるほど暖かくはない。
日向は暖房のスイッチを入れて、百合の膝にブランケットを掛けた。

「あ。」

何も言わずにブランケットを掛けたことに驚いたのか、百合は小さく声を上げる。

「どうしたの?」

「なんでもないです。」

昨日と同じだ。
百合は、拗ねているような、残念そうな、なんだかおかしな表情をするのだ。
これは、誘っているのだろうか。いや、違う。きっと、自分を試しているんだ。
こんな単純なことで自分が百合に手を出さないか、試しているんだ。
ならば、百合の理想通りに紳士に接しないと。

そう思った日向は、部屋の奥からカーディガンをひっぱり出してきて、百合の肩に羽織らせた。

「寒いんだろ?最近冷えるんだから、そんな薄着してたら風邪ひくぞ。」

百合は少し面白くなさそうな表情をして、けれど素直に「はあい。」と言ってカーディガンに袖を通した。

その日の百合は、ずっと携帯電話を気にしていた。
メールの受信音が鳴るたびに携帯電話を手に取り、指先を画面に滑らせる。
また受信音が鳴ったら、すぐに携帯電話を確認する。
いつもは二人でいる時は、あまり人とメールなんかしたりしないのに。
今日の百合は、そのメールの相手に夢中な様子だった。

日向は、なんだか面白くない気持ちになる。
そりゃ、百合にも友達付き合いがあるのもわかるし、あまりうるさく束縛するつもりもない。
けれど、一緒にいる時くらい、メールの相手なんかよりも、自分を見ていてほしい。

「誰とメールしてるの?」

「内緒です。」

百合は、画面に目を落としたまま答える。
こっちを見てもくれない。

「俺に言えない人?男?」

日向がムキになって聞くと、百合は顔を上げておかしそうに笑った。

「拗ねてるんですか?」

そう百合に言われて、初めて自分が唇を尖らせていることに気付いた。
メールの相手に嫉妬をしてしまうなんて、恥ずかしい。

「そんなんじゃないですよ。男の人だけど、浮気とかじゃないです。」

クスクスと笑いながら、百合は否定する。
自分といるのに、自分以外の男とメールしているなんて、面白くない。
醜い嫉妬だとはわかっていても、日向は追及を止められなかった。

「じゃあ誰?」

「坂野先輩です。」

「亮太?なんで?」

「ちょっと聞きたいことがあっただけです。」

そう言って、メールを打ち終えたのか、百合は携帯電話の画面を下にして机に置く。
それからも、百合は自分を気にしつつ、メールの受信音が鳴るたびに携帯を手にした。

百合がしゃがめば下着が見えそうになるし、だぼだぼのカーディガンからはしょっちゅう白い肩が覗く。
大きく開いた胸元には無意識に目が行ってしまうし、自分を見つめて微笑む姿はなんだかいつもより色っぽく見える。
百合は自分に見せつけるように髪を掻き上げてみたり、細く白い足をしょっちゅう組み替えてみたり。
日向は、その仕草の一つ一つに心を惑わされ、頭に浮かぶ邪な感情を必死に理性で押し込めた。

「ねえ、ひーくん。」

そう甘い声で言って、百合は自分にくっつくようにして腕を絡める。
腕に柔らかい感触がした。百合の胸が当たっている。

「な、なに?」

この可憐な天使は、自分がこんなに悶々としているのも知らずに、無邪気に振る舞う。

無意識なのだろうか。それとも、本当に誘っているのか。
百合は、自分が手を出すのを待っているのではないか。
いや、それは違う。自分に都合のいいように考えすぎだ。
いつもより一緒にいる時間が長くて、今日が最後のお泊りだからと理由を付けて、自分が過剰に意識しているだけだ。
不純なことを考えてはいけない。冷静にならないと。

そうは思っても、なかなか胸の高鳴りは抑えられなかった。

麻丸。
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麻丸。

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