「選べる未来」
「選べる未来」
週明けの火曜日。
この町の十月にしては、珍しく綺麗に晴れた日だった。
最近は雨降りやハッキリしない曇り空が多かったから、久しぶりに眩しい太陽を見た気がする。
秋らしく、高い空が青く澄んでいて綺麗だった。
今日の日向は、朝から機嫌が良かった。
いつものように駅まで自分を迎えに来てくれたのだけれど、いつもより口数は多いし、よく笑う。
この人は、いい意味でも、悪い意味でも、分かりやすい人だから、何かあったのではないかと百合は勘繰った。
けれど、日向は何度聞いても答えない。
「何かあったんですか?」
「うん、まあ。放課後話すよ。」
何度聞いても日向は、嬉しそうに口元を歪めてそう答えた。
日向の様子を見ている限り、何か悪いことがあったわけではなさそうだが、何が日向をそんなに上機嫌にしているのだろう。
それに、「放課後話す」だなんて。今言えないことなのだろうか。
一つ、不安の種もある。
昨日の夕方から、日向の母親が退院して日向の家に帰ったはずだ。
自分は昨日日向と別れてから、気が気じゃなかった。
日向は大丈夫だというが、本当に大丈夫だと言う保証はない。
なにか大変なことになっていなければいいが、と何度も日向にメールを送った。
けれど、その返事は「本当に大丈夫だから、心配しないで」というものだった。
実際に日向は、落ち込んでいる様子もないし、悩んでいる様子もない。
百合はなんだか拍子抜けすると同時に、母親との生活に問題がないようで安心していた。
昼休みもいつも通り一緒に過ごしたし、いつものように手の込んだ弁当を作ってきてくれた。
午後の授業中に、ポケットの中で携帯が震えた。
また亮太が「授業が退屈」だと、メールを送ってきたのだろうか。
スカートのポケットに手を突っ込んで机の下で携帯電話を確認すると、差出人は日向だった。
すぐに指先を滑らせて内容を確認する。
『今日の放課後、進路指導室いかなきゃいけないんだけど、先帰る?遅くなるかもしれないんだけど…』
黒板に板書をしている教師に気付かれないよう、こっそり指先を滑らせて文字を打つ。
『玄関で待ってます!』
そう日向に返信した。
すると、またすぐに返事が返ってきた。手の平の中で携帯が震える。
『ありがとう。なるべく早く終わらせるから。玄関で待ってて。』
日向のメールはいつもこんな感じだ。
絵文字も顔文字もない。日向らしいと言えば日向らしいが、少し寂しいメールだ。
けれど、言葉の端端に日向の優しさが詰め込まれている気がして、メールが来るだけでも嬉しくなるのだ。
放課後になり、日向に言われたとおり玄関で日向を待った。
着替えて部活動に行く生徒や、帰路に着く生徒が次々と玄関を通って外で出ていく。
友人もとっくに帰ってしまったし、ここで一人待つのは少し退屈だ。
時計を見れば、もう三十分もここに居ることに気付いた。
日向は、まだだろうか。
確か、進路指導室へ行くと言っていた。
こんなに時間をかけて、何の話をしているのだろう。
することもなく、百合は携帯電話に目を落とす。
毎日増えていく、日向が作ってくれた弁当の写真。
これまで作ってくれた弁当は、食べる前に必ず携帯で写真を撮っていた。
最近は、人参やハムなどがハートの形や星の形に模られることが多くなった。日向なりの愛情表現だろう。
こんな可愛らしい弁当を日向が自分のために作っているのかと思うと、嬉しくなる。
この弁当を作っている間、日向は自分のことを考えてくれているだろうか。
毎朝、自分のことを思い浮かべてくれているだろうか。
「百合ちゃん!」
ふいに名前を呼ばれて視線を上げると、そこには亮太と真紀がいた。
「何やってんの?日向待ち?」
「ええ、まあ。坂野先輩はこれから帰りですか?」
「おう!今日もこれから真紀ちゃんと受験勉強だぜ!」
そう言って亮太は後ろに佇む真紀を指さす。
けれど、真紀は不機嫌な様子で黙っていた。
「こんにちは」と言ってみても、プイとそっぽを向いてしまった。
正直、百合は真紀が苦手だった。
いつも睨むような目つきで自分を見つめ、威圧的な態度を取る。
口を開けば言葉はキツいし、なんだか威嚇さえされている気分だ。
自分が何か気に障ることをしただろうか。そう考えてみても、思い当たる節がない。
以前、彼方に捕まっているところを連れ出してもらったくらいだ。
真紀は自分とは違い、大人びている。
亮太に受験勉強を教えるくらい頭もいいらしい。
身長も女子にしては高い方だし、スラっとしていてスタイルもいい。
おまけにスポーツ万能らしく、短いスカートからは筋肉と脂肪のバランスの取れた魅力的な足が覗いていた。
胸もほどよくしっかりとついているし、余分な脂肪はほとんどない。
性格は強気で明るく、自分とは正反対だ。だからこそ、自分を嫌うのだろうか。
「なあなあ、それよりさ、週末…どうだった?」
亮太は真紀の態度を気にもせず、大きな巨体を少し曲げて自分の耳元で声を潜めて言う。
どうしたら日向の気を惹けるかと、先週末亮太にメールで相談していたのだ。
亮太に教えてもらった作戦は、ことごとく失敗に終わったのだけれど。
「ぜーんぜん駄目です。ひーくんは坂野先輩と違って紳士ですから、全然効果ありませんでした。
それどころか、カーディガン着せてくれたり、ブランケット掛けてくれたりするんですよ?
彼氏っていうより、おとーさんみたいです。」
「お父さんって…。メイド作戦もダメだったのか?」
「それ、ひーくんが坂野先輩の趣味だって言ってましたよ!」
「あちゃー、バレたか。」
亮太は大げさに肩を竦めてみせる。
そして、悪びれる様子もなくニヤリと笑った。
「でもでも、学園祭で俺にも見せてくれるんだろ?」
「坂野先輩には見せてあげませんよーだ。」
そう言って、百合は頬を膨らませる。
「えええ!俺結構楽しみにしてたのに!」
亮太は、残念そうに肩を落とした。
日向がチラチラと自分の足や胸を見ていたことには気付いていた。
けれど、日向は一向に手を出してこなかった。
気にはしていたようだけれども、日向は亮太のように喜んではくれないのだ。
それが照れ屋の日向らしいと言えば、日向らしいのだけれど。
それに、結局、自分から誘ったあの夜もダメになってしまった。
「そういえば、なんか今日のひーくんったら、機嫌がいいんですよね。」
「そうか?いつも通りじゃねえの?」
亮太は日向の様子に気付いていないらしく、不思議そうに首を傾げる。
いつも通りなんかじゃない。何かいいことがあったのだ。
朝の日向の様子と、弁当の中身を思い出し、百合はそう確信していた。
「いーえ、そんなことないです。今日はお弁当のハムもチーズもハンバーグもハートの形してました!」
「それ、いつものことじゃん。」
「いつもは一個だけなんです。今日はハートが三つもありました!」
「全部ハートにしちゃえーって手抜きしたんじゃねえの?」
「ひーくんはお弁当に手抜きしませんよ。愛情たっぷりなんですから。」
そんな冗談を言い合う。
亮太と話すのは、気が楽だ。
気を遣いすぎなくてもいいし、多少雑な扱いをしても文句を言わない。
建前上は先輩と呼ぶけれど、亮太にはあまり先輩と言う雰囲気がない。
砕けた性格と言うか、ただのお馬鹿と言うか。
とにかく、百合にとっては、話しやすい人だった。
「亮太。そろそろ行くわよ。」
真紀は亮太の肩を掴んで言う。
気のせいだろうか。その口調は少し苛立っていた。
「えー、もうちょっといいじゃん。どうせ帰っても勉強しかすることないんだし。」
「馬鹿言わないでよ。もう受験までそんなに日がないんだから。こんなところでお喋りしてる暇なんてないでしょ。」
「少しくらいいいじゃん~。せめて日向が来るまで!百合ちゃんだってこんなところで一人じゃ寂しいだろうし…。」
「いいから!さっさと行くわよ。」
そう言って、半ば無理矢理に真紀は亮太の腕を掴んで歩き出す。
戸惑う亮太に、真紀はお構いなしに亮太を引き摺る。
「ちょ、ちょっと真紀ちゃん!」
「うるさい、馬鹿!」
苛立ちを露わにして、真紀は吐き捨てるように言う。
亮太は、訳が分からない様子で真紀と百合を見比べた。
「ええ!?ああ、もう…。百合ちゃんまたなー!」
長い腕を伸ばして、亮太は手を振る。
そして、真紀に引き摺られるようにして、玄関の外へ消えていった。
その姿を見送り、百合は溜息を吐いた。
なんだったのだろう。
なんだか真紀は怒っているように見えた。
自分が何かしてしまっただろうか。
真紀は一度も自分の方を見なかった。
それどころか、ずっと不機嫌そうにプイッとそっぽを向いていた。
たまたま機嫌が悪かっただけだろうか。いや、自分の前ではいつも不機嫌そうだ。
自分が真紀を苦手だと思うように、真紀も自分のことが嫌いなのだろうか。
なんだかもやもやした気持ちのまま、再び携帯電話に目を落とす。
一人で待つのは、やっぱり退屈だ。
「百合。」
ふいに、遠くから声を掛けられた。
顔を上げると、日向が小走りでこちらに向かってきていた。
「お待たせ。ごめん、遅くなって。」
「いいえ。それより、何の話してたんですか?」
「聞きたい?」
もったいぶるように、日向は言う。
その表情は本当に上機嫌で、言いたくて仕方がないという様子だった。
「放課後に話してくれる約束でしたよ?」
そう言うと、日向はふっと、小さな笑みを見せた。
「実はさ…卒業したら、すぐに専門学校行けることになった。」
思ってもみない話だった。
百合は、驚いて目をパチパチと瞬かせる。
「えっ?じゃあもうバイトしなくてもいいんですか?」
「バイトは続けるよ。なんだかんだ言って楽しいし、新生活にもお金かかるだろうし。でも、学費は母さんが出してくれるって。」
はにかむように日向は笑う。
「おめでとうございます!」
百合はとびっきりの笑顔を作って、両手を叩いて日向を祝福した。
朝から機嫌がよかったのは、このせいだったのか。
日向は、照れたように頬を掻いた。
「今週の土曜にオープンキャンパスがあるんだって。それ行ってから、ちゃんと手続きするつもり。
まあ、寮に入る話はまだちゃんと決まってないけど、あの家は出ようと思ってる。」
日向は、百合を見つめて微笑む。
「そういうことだから、母さんのことは本当に心配しなくていいよ。」
正直、母親が戻ってきて日向が無事なはずがないと思っていた。
けれど、今の日向を見る限り、普通の良好な親子関係を築けているようだ。
百合は心から安心した。もう、この人を傷付ける人はいない。
「じゃあ、お祝いしないといけませんね!ひーくんの誕生日ももうすぐだし、みんなでパーティーでもしますか!」
そう提案すると、日向は首を傾げて小さく呟いた。
「…できれば、誕生日は二人っきりがいいな…なんて。」
そう言って、日向は恥ずかしそうに口元を手で隠す。
「ひーくん、意外と可愛いこと言いますね。」
「…嫌ならいい。」
「嫌じゃないですよ。じゃあ私ケーキ焼きますね!」
日向は意外そうな顔をした。
「百合、ケーキ焼けるの?」
確かに、いつも日向に作ってもらってばっかりで、自分は日向の手伝いも覚束ない。
けれど、大切な彼氏の誕生日くらい、彼女として頑張りたいものだ。
自信はないけれど、愛情は誰にも負けないつもりだ。
「本見ながら作ってみます。ひーくんより上手くないかもしれないけど…。」
「ううん、楽しみにしてる。」
日向は嬉しそうな顔をして、手を繋いできた。
「誰かに誕生日祝ってもらうの、初めてなんだ。」
「じゃあ盛大にお祝いしないといけませんね!ケーキ焼いて、クラッカー用意して、御馳走も作らないと。」
「そんなに気を遣わなくてもいいよ。一緒にいれるだけでいい。」
「またメイドさん着てあげましょうか?」
「…それはいいよ。」
日向は照れたように顔を背ける。口元がにやけている。
あの日用意したメイド服が気に入らなかったわけじゃないと、百合は気付いていた。
けれど、照れて気にしてない風を装うところも、可愛いと思う。
素直になりきれないのだ、日向は。
誕生日には、思いつく限りのことをしてあげよう。
自分と過ごす誕生日が、思い出に残るように。
もう生まれたことを悔やまなくていいように。
日向を必要としている人間がちゃんといることを教えてあげよう。
大切な人の、大切な日が、幸せで溢れるように。
学校を出て、二人は手を繋いで歩いていた。
木々の紅葉もすでに終わり、風で葉が飛ばされて寂しい姿になっていた。
気温は少し肌寒い。だからこそ、繋いだ手が温かく感じた。
秋は既に終わりかけて、もうすぐそこまで冬の気配が近付いてきている。
「ホント遅くなってごめんな。図書室とかで待っててもらった方がよかったかもな。退屈だっただろ?」
「平気ですよ。坂野先輩と話してましたし。」
「…また亮太?」
日向はチラリと横目で自分を見て、唇を尖らせる。
「あら、嫉妬ですか?」
「別に、そんなんじゃないけど…。」
そうは言うが、その表情はなんだか面白くなさそうだ。
子供のように拗ねている様子がなんだか可愛くて、百合は笑みが零れた。
「ちょっと話してただけですよ。すぐに渡辺先輩に連れていかれちゃったし。」
「ああ、最近放課後は渡辺に勉強教えてもらってるんだって。なんか一緒の大学行くらしくて。」
「へえ、そうなんですか。」
意外だった。勉強は得意じゃないと聞いていたが、亮太も進学するのか。
将悟も名古屋の専門学校に行くと言っていた。日向も専門学校への進学がほぼ決まった。
それは喜ばしいことだが、春からこうして一緒に通学できなくなると思うと、なんだか寂しくなった。
一緒に学校に通えるのは、もう半年もない。
今は当たり前のこの日常が、半年後にはないのだと思うと、切なくなった。
せめて自分も日向と同じ学年だったらよかったのに。
そうすれば、真紀と亮太のように、日向と一緒の専門学校も選べたかもしれないのに。
いや、不器用な自分に美容師なんて向いていない。
それでも、同じ学年だったのなら、日向のいない学校で過ごすこともない。
日向との歳の差は二つ。
その埋めようのない二つが、なんだか恨めしかった。