「半透明の幽霊」
「半透明の幽霊」
「竹内さん待って。」
そう日向に呼び止められたのは、学園祭を明後日に控えた木曜日のことだった
バイトを終えて更衣室から出ると、日向が黒い紙袋を差し出してきた。
その紙袋には見覚えがあった。銀の文字でロゴが描かれている。
確か、彼方が好きな洋服店の紙袋だ。
「なんですか、これ。」
その紙袋を受け取って中身を覗くと、大きなタッパーが一つ入っていた。
「肉じゃが。家で作りすぎたから。」
「はあ…。」
「竹内さん、一人暮らしなんだろ?これから帰って食事作るのは大変かな、って思って。…よかったら、彼氏と食べて。」
「ありがとうございます。でも、なんで…。」
「余ったからお裾分け。じゃあ、俺帰るから。」
それだけ言って、日向はさっさと帰ってしまった。
京子は、ほとんど無理矢理に押し付けられた紙袋を持って、しばらく立ち尽くした。
どうして急に、お裾分けなんて言い出したのだろう。
「彼氏と食べて」とは、どういう意味だろう。
何故こんな不釣り合いな紙袋に入れて渡したのだろう。
色々と疑問はあるが、京子は仕方なしにその紙袋を持ち帰った。
家に帰ると、彼方が待っていた。
今日は、たまたま仕事が休みらしく、泊まっていく予定らしい。
彼方はラフな部屋着に着替えて、また勝手に自分のパソコンを弄っている。
結局、温泉旅行の話はうやむやにしたのだが、彼方は諦めていないらしく、一人で旅行サイトとにらめっこをしている。
時々、自分に画面を見せて、「ここの旅館、蟹が美味しいんだって。」「今の季節はブリしゃぶとかやってるみたいだよ。」と自分の興味を引こうとするが、京子はあまり乗り気ではなかった。
彼方は「思い出が作りたい」、「恋人らしいことがしたい」と言うが、こうして毎日会って、休みの日には泊まりに来るこの関係は、充分恋人らしいと思う。
一体、この男は何を生き急いでいるのだろう。
彼方と付き合って、もうすぐ二ヶ月。出会ってからは、三ヵ月。
気付けばこの部屋には、彼方の着換えや私物が増えた。
風呂場には彼方のシャンプー、洗面所には歯ブラシに歯磨き粉、食器棚には彼方の茶碗や箸まである。ほとんど半同棲状態だ。
きっと彼方は、兄のマンションで過ごすより、自分のアパートで過ごす時間の方が長いのだろう。
彼方は謎が多い男だ。
自分にだけは本当のことを話せると言いながら、きっと自分が知らないことはたくさんある。
都合が悪くなると、笑顔の仮面で隠し、誤魔化し、なかったことにする。
その仮面で、それ以上を聞けなくなる。
笑顔の仮面は彼方の壁だ。けして本心に踏み込ませないための、冷たい壁。
最近は彼方の心からの笑顔と、虚像の仮面の見分けがつくようになってきた。
彼方が虚像の仮面を被るのは、いつも未来の話をしている時だ。
明日、明後日の話じゃない。遠い未来の話。
彼方の目には、どんなふうに未来が映っているのだろう。
明るい未来が見えるのか、それとも暗い未来か。
未来の話をするときの彼方は、悲しそうに笑う。
まるで自分に未来なんてないとでも言うように、悲しそうに。
普通の道から少し離れたくらいで、そんなに悲観しなくてもいいのに。
彼方が何を思い、何を考え、何を悩んでいるのか、京子は知らない。
その悩みを聞いてあげたいと思っても、彼方が壁を作るからだ。
それなら、何も聞かない方が彼方のためだろう。
少なくとも、自分といる時は嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれる。
それでいい。一緒にいることで、少しでも彼方が安らげるのなら、それでいい。
自分にできるのは、何も聞かずに彼方を受け入れることだけだ。
彼方が家に泊まりに来ても、別に特別なことはしない。
いつも通り、ただテレビを見ながら他愛のない話をしたり、彼方が撮った写真を見せてもらったりするくらいだ。
彼方が言う「恋人らしいこと」なんて、ほとんどない。
たまに彼方から抱きしめてくるくらいだ。
キスや、それ以上のことなんてない。
「大事にしたいから」なんて言って、意図的に自分を抱くことを拒んでいるようだった。
実際、付き合ってから体の関係はない。たった一度も、だ。
それはそれで不満に思いながらも、京子は何も言わなかった。
夜も更けてきて、少し小腹がすいてきた。
彼方も「お腹すいた」と言うので、夜食に日向から貰った肉じゃがを、何も言わずに食卓に出した。
「わー。肉じゃがだあ。僕好きなんだよねえ。」
何も知らない彼方は、嬉しそうに笑う。
頂きます、と言って彼方は真っ先に肉じゃがに箸をつけた。
けれど、彼方は肉じゃがのじゃがいもを一口食べて、それから静かに箸を置いた。
「これ、京子ちゃんが作ったのじゃないよね?」
「…わかるんですか。」
「うん、わかるよ。間違えるはずないでしょ。…僕、この味で育ったんだから。」
彼方は、誰が作ったものなのかも察しがついたようだった。
「日向さんが、余ったから持ってけって。」
「…そっか。」
そう言って、彼方は目を伏せた。
「…バレてるね。日向に。僕が京子ちゃんといること。」
「まさか…たまたまでしょう。」
「この肉じゃがね、僕が日向の料理で一番好きだったんだ。…なんで日向は、こんなことするかなあ。」
彼方は俯いて目頭を押さえる。
まるで、涙を堪えているようだった。
京子は後悔した。こんなことなら、彼方に食べさせなければよかった。
日向はこうなることをわかっていて、この肉じゃがを自分に渡したのだろうか。
最初から、自分じゃなくて彼方に食べさせるために、この肉じゃがを作ったのだろうか。
だとしたら、どうして。
「…嫌なら、片付けますけど。」
京子は肉じゃがが乗った皿を片付けようと手を伸ばす。
しかし、その手は彼方に掴まれた。
「ううん、食べる。食べたい。」
食事の最中、彼方はずっと浮かない顔をしていた。
何かを考えるようにぼーっとして、たまに涙を堪えるように俯いたりもした。
食事が終わった後、いつもより口数が少なくなった彼方はすぐにベッドに入った。
いつもは狭いベッドの中で向き合って眠るのに、今日の彼方は壁の方を向いていた。
「ねえ、京子ちゃん。日向さ、マフラーしてた?」
ふいに、彼方はポツリと静かに呟く。
自分に背を向けたままで、表情はわからない。
「マフラー?」
「赤いやつ。」
「ああ、してましたよ。」
「そっか、良かった。気に入ってくれたのかな。」
「もしかして…あのマフラー、彼方さんが?」
「そうだよ。誕生日に、玄関に置いてきたんだ。」
抑揚のない声で彼方は言う。
まさかとは思っていたが、あの派手なマフラーを日向に贈ったのは、やっぱり彼方だったのか。
「いいじゃない、誕生日プレゼント贈るくらい。日向は寒がりだからさ。風邪なんかひいたら大変だもん。今一人暮らしなんだし。」
そう言って、彼方は身をよじって自分の方に顔を向けた。
その顔は、あの悲しそうな微笑みを張り付けていた。
「心配しなくても、日向のことは諦めたよ。」
またこの人は、自分に嘘を吐いている。
諦めた、だなんて口だけで言って、本心はそうじゃないくせに。
本当は、日向に逢いたくて逢いたくてしょうがないくせに。
どうしてこの人は、自分自身にさえ嘘を吐くのだ。
その張り付いた微笑みがやけに綺麗で、でも悲しくて、京子は何も言えなかった。
「ちょっと、そんな変な顔しないでよ。せっかく綺麗な顔なのに。」
そう言いながら、彼方は自分の頬をつつく。
無意識だった。
今自分は、どんな顔で彼方を見つめていたのだろう。
「…私、そんなに変な顔してました?」
「うん、してた。可哀想な子でも見るような目してたよ。」
おどけるように、彼方は笑う。
けれど、その瞳は少しも笑ってはいなかった。
可哀想な子を見るような目、か。その通りかもしれない。
少なからず自分の心の中には、彼方への同情心がある。
可哀想な人。それが、彼方に惹かれた最初の理由だった。
けれど、同情で彼方と付き合っているわけじゃない。
少しずつ彼方を知るにつれ、自分は彼方の優しさに惹かれていった。
彼方の優しさは、広くて暖かい。
こんなに素直じゃない、可愛げのかけらもない自分に、彼方は愛想尽かさず、文句も言わずに笑ってくれる。
それがどんなに些細なことでも、彼方と過ごす時間は、自分にとって心落ち着く一時だった。
「ねえ、京子ちゃん。」
彼方の指が、自分の手に絡まる。
「日向にさ、次はタケノコの煮物が食べたいなあ、って伝えてよ。」
「そんなこと言ったら、バレちゃうんじゃないですか。」
「もうバレてるでしょ。…バレてるけど、日向は僕のことを探す気はないみたいだ。」
そう言った彼方は、寂しそうな笑みを浮かべていた。
この人は辛い時も寂しい時も、笑うことしか知らないのだ。
笑って、自分自身ですら誤魔化そうとするのだ。
「本当は、日向さんに見つけてほしいんじゃないんですか?日向さんの元に、戻りたいんじゃないんですか?」
彼方の手をぎゅっと握って、京子は彼方を見つめる。
彼方は口元に薄笑みを浮かべたまま、瞳を伏せた。
「…どうだろう。」
少しの沈黙があった。
静寂に包まれると、遠くで虫の鳴く声が聞こえる。
わずかに雨音もする。いつの間に降ってきたのか。
ああ、そういえば、彼方は雨男だと言っていたな。
ふっと息を吐いて、彼方は瞳を開ける。
「もし、もしも日向が僕のことを探してくれたら…嬉しいな。
…でも、無理だよ。無理なんだ。日向は、僕がいない方が幸せなんだから。
デートしてる時の二人、幸せそうだったでしょ。
僕はあんな日向の顔、見たことない。僕にあんな顔はさせれらない。
きっと、僕はもう用済みなんだよ。もう、日向には必要ないんだ。
日向は、あの子だけいれば、それでいいんだよ。」
「…会いに行ってみればいいじゃないですか。
会いに行って、自分で確かめてみたらいいじゃないですか。
日向さんは、そんなこと思っていないかもしれませんよ。」
彼方は、静かに首を振る。
「自分からは、行けないよ。僕は日向にも、日向の彼女にも、たくさんひどいことをしたんだ。今更、合わせる顔なんてない。」
雨音が強くなってきた。
ザアザアと屋根や木々に打ち付ける音がする。
それはとても寂しい音で、まるで彼方の心の奥の悲しみのようだった。
次の日、バイトが終わった後に日向にタッパーを返した。
洗って綺麗になった空のタッパーを見て、日向は安心したような笑みを漏らす。
「食べてくれたんだ。」
「はい。美味しかったです。彼氏も…美味しいって言ってました。」
「そう。よかった。」
そう言って、日向は小さく微笑む。
同じ顔をした双子でも、笑い方はこんなにも違うのだな、と京子は思った。
「あの…。次は、タケノコの煮物が食べたいって…彼氏が言ってたんですけど。」
内心ヒヤヒヤとしながらも、昨日彼方が言ったことを切り出してみた。
日向に料理のリクエストをする厚かましさよりも、タケノコの煮物が彼方を連想させるキーワードではないかと思って、気が気じゃなかった。
肉じゃがは、彼方が日向の料理の中で一番好きなもの。
タケノコの煮物が二番目なら、日向に確信を持たせてしまうのではないか。
この会話は、自ら彼方と繋がっていることをバラしているのと同じなのではないか。
けれど、日向はあっさりと言う。
「そっか。いつ作ればいい?次はいつ彼氏と会うの?」
「まだわからないですけど…。」
「じゃあ決まったら教えて。バイトない日でも学校で渡すし。」
日向は嫌な顔や迷惑そうな顔一つせず、そう爽やかに言い切る。
どうして疑問に思わないのだろう。どうして何も聞いてこないのだろう。
「…何も、聞かないんですか?」
「聞いても、竹内さんは答えてくれないだろ?」
お見通し、とでもいうように日向は少し困った顔をした。
「いいんだ。元気なら、それでいい。」
誰が、とは日向は言わなかった。
けれど、思い浮かべている人物は一緒だろう。
やっぱりこの人は気付いている。自分が彼方と共にいることを。
けれど、違う。あの人は日向に探してほしいと願っている。
確信を持って彼方の居場所がわかっているなら、どうして探してやらないんだ。
それを言おうと思ったが、どうしても言葉にできなかった。