「裏切りと罰」

 「裏切りと罰」



「ねえ、彼方さん。嘘吐かないで答えてほしいんですけど…。」

真っ暗な部屋の中。カーテンの隙間から洩れる月明かりだけが二人を照らす。
狭いシングルベッドの中、二人で身を寄せ合って見つめあう。
京子は彼方に腕枕をされながら、ずっと抱いていた疑念を口に出そうとしていた。

「何?」

彼方は笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。
そのいつも通りの優しい声に、本当に口に出してもいいのか、迷いが生まれた。

もし、疑いを持っていることに対して、彼方が呆れたり、怒ったりして、嫌われたらどうしよう。
もし、その疑いが本当ならどうしよう。自分は彼方を今までのように愛せるのか。
もし、嘘と分かる仮面で笑いかけられたらどうしよう。何も信じられなくなるのではないか。

怖い。怖くて仕方がない。
でも、だめだ。聞かないと。疑いを晴らさないと。
じゃないと、自分は真っ直ぐに彼方を愛せない。

「…浮気、してないですよね。」

迷いからか、浮気だなんて漠然とした言葉に変わった。
情けない。けれど、決意したって、やっぱり躊躇ってしまう。

「何?突然…。」

彼方は、不思議そうに目を瞬かせる。

「するわけないじゃない。もしかして、最近元気なかったのも、そんなこと考えてたから?」

可笑しそうに笑いながら、彼方は髪を撫でる。
あまりにも自然に彼方が笑うものだから、拍子抜けした半面、京子は安堵した。
これは、嘘の笑顔なんかじゃない。誠が言ったことは、全部嘘っぱちなのだ。
心の中のもやもやが、すっと晴れていく。

「よかった…。」

京子は、抱き付くように彼方の背に手を回す。
安堵からか、瞼が熱くなった。じわりと涙が滲む。
どうやら酒を飲んでいると、涙腺が緩くなるらしい。
それを隠すように、彼方の胸に顔を埋めた。

「ずっと悩んでたんです。誠さんが変なこと言ってきたから…。」

「…誠さんに会ったの?」

心なしか、彼方の声が一層低くなったように感じた。

「どんな話、したの?」

その声は、動揺しているように、どこか焦って聞こえた。
京子が顔を上げると、彼方は不安そうな表情を浮かべていた。

「どんな話って…。ただの誠さんの作り話ですよ。それも、とっても悪趣味な。」

「だから、作り話ってどんな?」

切羽詰ったような彼方の表情に、京子は戸惑いを覚えた。
だって、彼方は笑って否定したじゃないか。

「待ってください!浮気…してないんですよね?」

「浮気…はしてないよ。」

気まずそうに、彼方は目を逸らす。
浮気はしていない。じゃあ、何ならしているんだ。

「浮気以外のことをしているんですか?」

彼方は、目を逸らしたまま答えない。
焦りと動揺が、京子の中に広がる。

「答えてくださいよ!」

京子は身を起こし、彼方の肩を掴んだ。
一瞬目が合ったが、彼方は狼狽えたようにすぐに視線を逸らす。

「だから…浮気はしてないってば。」

彼方は動揺しているのか、早口で捲し立てる。

「わたしと付き合ってから、一度も?」

「僕が好きなのは、京子ちゃんだけだよ。」

「話を逸らさないで、ちゃんと答えてください!」

静かな部屋に、悲鳴にも、叫びにも似た声が響いた。
ああ、どうしてこんなに感情的になってしまうのだろう。
彼方のことを、信じていたかったのに。愛していたかったのに。
心の中で、何かが音を立てて崩れていく気がした。

気付かぬうちに溢れた涙が、ポロポロと彼方の首に、肩に、顔に、降り注いでいた。
その雨を受けた彼方は、狼狽した表情を歪め、辛そうに目を伏せた。
そして、静かに起き上がり、肩を落として項垂れる。

「…ごめん。誠さんが言ったことは、たぶん…きっと…全部、本当のことだよ。」

歯切れ悪く曖昧に言葉を濁したのは、罪の意識があるからなのか。
彼方はベッドに目を落としたまま、京子の方を見ようとはしなかった。

「…枕営業とか、売春だ、って…誠さんは言ってましたけど。」

口に出すと、声が震えた。

「…ごめんなさい。」

否定することなく、彼方は目を伏せる。
それは、肯定の意味なのか。

信じたくない。嘘だって言ってよ、ねえ。
いつもみたいに、「冗談だよ」って、笑ってよ。
貴方は、いつも嘘で全部を塗り固めてきたじゃないか。

けれど彼方は、寝巻にしているジャージの裾をギュッと握ったまま、何も言わなかった。
もはや、項垂れているのか、頭を下げて謝罪しているのか、わからない。
嘘を吐くことなど諦めて、観念しているようにも見えた。

静かな暗闇の中、重たい沈黙が二人を包む。
狭いベッドの上で向き合って座っていても、二人の視線は交わらなかった。
彼方は目を伏せたままだし、京子も彼方の顔を見るのが怖かった。

ショック ―というより、悲しみが京子の心を支配していた。
自分だけが特別だと思っていたのに。自分が彼方の一番であると思っていたのに。
彼方は、他の女にも見せる笑顔で自分に笑いかけ、他の女にするように自分と手を繋ぎ、他の女と同じように自分にキスをしていたのだ。
そう思うと、再び涙が頬を伝った。

唇を噛んで涙を堪えてみても、もう、止まらなかった。
ポロポロと、涙が頬を伝って、顎を伝って、膝に落ちる。
彼方は自分に手を伸ばそうとしたが、その手は躊躇うように空中で停止し、彼方の膝の上で固く握られた。
そして、小さく「ごめんなさい」ともう一度呟いた。

「どうして…どうして、そんなことしてたんですか。」

やっと絞り出した声に、嗚咽が交じる。
何度も涙を拭っても、止まる気配はない。
京子の袖は、溢れ出す涙で色が変わっていた。

「お金が…ほしかったんだ。」

消え入りそうなほど小さな声で、彼方は呟いた。
もう何も隠す気はないようだ。いや、最初から、嘘を吐くつもりなんてなかったのかもしれない。

「お兄ちゃんは、日払いで給料渡してるって…言ってましたけど。」

「…もっと、たくさん…早く集めたかった。」

「どうして…?なんのために…そんなこと…。」

彼方は何かを耐えるように、唇をギュッと噛んで、ゆっくりと顔を上げた。
そして、意志が籠った目で自分を見つめる。

「日向の…学費のために。」

ハッキリした口調で、彼方は言い切った。

「前に…僕の家のことは話したでしょ?
 日向がせっかく見つけた夢なんだ。せめて、お金の心配だけはさせたくないって…思って…。」
 日向に頼まれたわけじゃない。…全部、僕が勝手にやったことなんだ。」

躊躇いながら、けれども彼方は一言一言力を込めて話した。
京子は呆然とその話を聞きながらも、つい最近、日向が美容系の専門学校の専門入試を受けた、と話していたことを思い出した。
その時の日向は、やけに機嫌が良くて、虎丸と他愛のない話をしながらも終始ニコニコと笑っていた。
目の前の彼方とは対照的に、明るく、幸せそうに笑っていた。

「なんで…どうして、あなたが、日向さんのためにそこまでしなきゃいけないんですか!
 そんなの…そんなのおかしいでしょ!?あの人ばっかり幸せになって…なんで貴方は、いつも…こんな…。」

京子は彼方の肩を掴んで、怒りに任せて揺さぶった。
彼方は抵抗しなかった。自分の気の済むように、とでも思っているのか、ただされるがままだった。

「日向が大切だから。…でも、一番は京子ちゃんだよ。こんなこと言っても、もう信じてもらえないかもしれないけど。」

そう言って、彼方は自嘲気味に笑った。

「私と…付き合い始めてからも、してたんですか…?」

「…ごめん。」

「…今も?」

彼方は、静かに首を振る。

「もうしてない。…嘘じゃないよ。信じられないと…思うけど。」

彼方の返事を聞いて、京子は何も言えなくなった。
もはやこれは、浮気と呼んでいいのかすら、曖昧だ。
浮気の方が、よっぽどマシだったかもしれない。
けれど、裏切られたことには変わりない。
信じていたのに。愛していたのに。どうして…。

けれど、少なからず同情心があるのも事実だった。
全部彼方が悪いわけじゃない。悪いのは、彼方が置かれた環境と、何も知らないで幸せそうに笑う日向だと、京子は思った。
もちろん、そういう道しか選べなかった彼方にも、落ち度はある。
でも、彼方だけが悪いわけじゃない。そう、信じたかった。まだ、信じていたかった。

もうどうすればいいのか、わからなかった。
自分は、これからも彼方のことを愛せるのか。
不信感を抱きながら、今までのように、愛していられるのか。

京子が口を噤んだまま黙っていると、彼方は小さな溜息を吐いた。
そして、そのまま京子の横をすり抜けて、ベッドから降りる。

「ごめん、今日は帰るね。」

そう言いながら、彼方は脱ぎ散らかしてあった服を手に取る。

「…もう電車なんて、動いてないですよ。」

「うん。でも、今は僕といたくないでしょ。…大丈夫、適当に時間潰して、始発で帰るから。」

こんな時でも、彼方は笑う。
悲しい悲しい微笑みを、自分に向けるのだ。

「…逃げるんですか。」

「…ごめんね。」

「なんで…。」

黙々と着替えていく彼方を、京子は呆然と見つめていた。
何も言えないまま、ただ、見つめていることしかできない。
そうしているうちに、着替え終わった彼方は、上着を羽織り、部屋のドアに手を掛けた。

「本当にごめんね。好き…だったよ。…じゃあね。」

泣いてしまいそうな顔で、彼方は微笑みを作る。
そしてそのまま、自分に背を向けた。

今ここで彼方を引き留めなかったら、もう二度と会えない気がした。
それが何故だかは、わからない。けれど、そんな悪い予感がしたのだ。
―彼方は、自分を手放すつもりだ。

「待って!」

京子はベッドから飛び降りて、彼方の腕を掴んだ。

いつもそうだ。
彼方はいつもそうやって、本当に大事なものばかりを諦めて、手放していくんだ。
日向を、そして、自分さえも。
逃がさない。逃がすものか。こんな終わり方なんて、絶対に嫌だ。

腕を引っ張って、無理矢理彼方を振り返らせる。
彼方は、心臓を押さえ、苦しそうに顔を歪めていた。
心なしか、呼吸が乱れている。

「彼方さん…?」

力なく膝を折って、彼方は地面に倒れた。
そして、蹲りながら、呼吸を荒げ、苦しみだした。
心臓を押さえ、口元を手で覆って、まるで喘ぐような息遣いで必死に呼吸しようともがく。
これは― 過呼吸だ。

「ごめん…ごめんなさい…。」

彼方は苦しみながらも、うわ言のように謝罪を繰り返す。
瞳には涙が滲み、顔は血の気が引いて、青白くなっていた。

麻丸。
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麻丸。

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