「幽霊の痕跡」

 「幽霊の痕跡」



母親が運ばれたのは、電車で一駅先の隣町の病院だった。
ここは、以前来たことがある。彼方が過呼吸の発作を起こした時に運ばれた病院だ。
見覚えのある出入り口を潜って、受付で名乗ると、五階に行くように言われた。

五時限目の授業中、学年主任の教師に呼ばれて言われたのは、母親が病院に運ばれたということだった。
詳しく聞くと、海に転落し、溺れたそうだ。幸い早く救出されて助かったが、今は病院で治療を受けているらしい。
何故こんな豪雨で海が荒れた日に、海なんかに行ったのだろう。
一体母親は、海で何をしていたんだ。

エレベーターで五階に着くと、すぐ目の前にナースステーションがあった。
中にいた看護婦はすぐに自分に気付き、母親がいると言う病室へと案内してくれた。
母親の病室は、長い廊下の先の一番奥だった。

病室の扉をノックすると、か細い声で「はい…」と返事が聞こえた。
日向が病室を開けると、母親はベッドから体を起こしてこちらを見ていた。
心なしか、その目には怯えの色が見えた気がした。

「母さん、大丈夫?」

そう言うと、母親は目を瞬かせた。
そして、安堵したようにゆっくりと息を吐き、微笑みを作ってみせた。
それは、少しぎこちない微笑みだった。

「…日向。ごめんね、心配かけちゃって。」

「ホントだよ。急に溺れて運ばれたって聞いたから…心配したよ。」

嘘ではない。
事実、学年主任の教師の話を聞いた時は、動揺した。
平和の日常を送れていたからこそ、その話を聞いた時は、どうしていいかわからなかった。
やっと母親のいる暮らしに慣れたと思ったのに、それが壊れてしまうかもしれないと思ったら、怖かった。

「それより、なんでこんな日に海なんて行ったんだよ。
 今日は雨で大時化だし、風も強いんだから、危ないってわかってただろ。」

「…ごめんなさい。…海が見たかったの。海を見に行ったら、足を滑らせて…それで…。」

そこまで言って、母親は俯いた。
後悔しているのか、反省しているのか、母親は黙ったまま背中を丸める。
まるで叱られた子供のようだ。少し、キツく言いすぎたかもしれない。

「…でも、よかった。母さんが無事で。」

らしくないとは思う。
けれど、自然とその言葉が出た。
自分は今の母親のことを、かけがえのない存在だと認識し始めていた。

「日向…。」

母親は俯いていた顔を上げ、再び目を瞬かせた。

「怪我は?病院の先生はなんて?」

「掠り傷だけよ。今日は検査入院して…何もなかったら、明日退院できるって。」

「そっか。何かいるものある?着替えとかタオルとか…。今から取りに帰ってもいいけど。」

「そんなのいいわよ。どうせ明日退院できるんだし。けど、ありがとう。日向は優しい子ね。」

そう微笑んだ母親の顔が、今日はやけにぎこちなく見えるのは、気のせいだろうか。
なんだか顔色も悪く見える。まだ体は回復していないのだろうか。

それから少し話をして、日向は家に帰ることにした。
病室を出ようと扉に手を掛けた時、背後から控えめな声が聞こえた。

「ねえ…日向。」

「何?」

振り返ると、母親は躊躇うように、俯いた。
そしてゆっくりと顔を上げると、先程と同じように怯えた目で自分を見つめた。

「…日向も…私のこと、殺したいくらい…恨んでる?」

その言葉に、日向は目を見開いた。

「な…なんで…そんなこと…。」

突然のことに、日向は言葉を失う。
何も言えないまま母親の顔を見つめていると、母親は慌てて取り繕った

「あっ…。ううん、なんでもないの。なんでもないのよ。」

わざとらしい作り笑いだ。頬が引きつっている。

「どういうこと…?母さん…記憶が戻ったの…?」

母親は、焦るように激しく首を振った。

「本当になんでもないったら。ほら、早く帰らないと、明日も学校でしょ?」

聞きたいことは山ほどあったが、母親のぎこちない微笑みと雰囲気に押され、日向は病室を出た。

病室を出ると、嫌な汗がドッと噴出した。
どういうことだ。母親の記憶が戻ったのか。

それに、母親は「日向も、私のこと殺したいくらい恨んでる?」と言った。
自分も、とは、どういう意味だ。
それじゃあまるで、他に誰かに同じことを言われたみたいじゃないか。
他の誰かって誰に?そんなの、一人しかいない。

考えてみれば、おかしいことだらけだ。
なぜ、この時期に、一人で、海なんかに。
足を滑らせて落ちた?
いくら激しい雨風とはいえ、母親だってそこまで馬鹿じゃないだろう。

嫌な妄想が、頭の中に広がる。
母親が一人で足を滑らせたという単なる事故ではなく、誰かが絡んだ事件だとしたら―。
いや、そんなことありえない。いくらアイツでも、そこまでしないはずだ。
いくら恨んでいるとしても、人殺しなんて―。

その妄想を振り払うように、日向は頭を振った。
考えすぎだ。そんなこと、あるわけがない。あっていいはずがないんだ。

重い足取りで、日向は長い廊下を進む。
途中、看護婦とすれ違ったが、声を掛けられないように、早足で通り過ぎた。
とても、人と話をできる状態ではななかった。

逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まるのと同時に、大きなため息が出た。
今日は早く家に帰ろう。帰って、ゆっくり休もう。
今は何も、考えたくない。

ポケットに手を突っ込むと、携帯電話の固い感触があった。
それを取り出すと、三件の着信履歴と一通のメールが来ていた。
全部百合からだ。
そういえば、何の連絡もなしに学校を出てきてしまった。
今頃百合は、すっぽかされて怒っているだろうか。

メールを開くと、「何かあったんですか?心配しています。連絡ください。」と書かれていた。
こんな時でも、百合は心配してくれているのか。やっぱり優しい子だ。
すぐにメールを返そうとしたが、やめた。
ここは病院だ。外に出てからにしよう。

そう思って、携帯電話をポケットに収めると、ちょうどエレベーターの扉が開いた。
もう診察時間は終わっているのか、待合室はガランとしていた。
そのまま玄関まで向かい、ガラス張りの自動ドアを見ると、外はもう既に暗くなっていた。
相変わらずの大雨。風が強くなっているのか、木々が激しく揺れている。
傘を差しても、きっと意味はないだろう。

そう思いながら扉をくぐろうとすると、背後から声が聞こえた。

「あら。日向君。日向君よね?」

振り返ると、見たことのある人物が立っていた。
背が高く、切れ長の目をした白衣を着た女。
確か、彼方が救急車で運ばれた時に診察をしてくれた精神科医だ。名前は、白崎と言ったか。

白崎は口元を歪め、笑みを浮かべた。
自分の警戒心を解こうとしているのだろう。

「こんなところでどうしたの?風邪でもひいた?」

「いや…そんなんじゃないです。」

何と言っていいかわからずに、日向は俯いたまま曖昧に答える。
白崎は首を捻って不思議そうな顔をしたが、すぐに笑みを戻した。

「そう…。よかったら、今ちょっと時間ないかしら?彼方君のことで少し話したいんだけど。」

「彼方のこと…?」

日向がわずかに顔を上げると、白崎と目が合った。

「そんなに時間は取らせないわ。ついてきて。」

そう言うなり、白崎は背を向け歩き出す。
ほとんど拒否権がない日向は、仕方なくその後ろに続いた。

日向は、「カウンセリングルーム」というプレートが掲げられた部屋に案内された。
ここも以前来たことがある。彼方が薬で眠っている間、今と同じように白崎と話をした部屋だ。
壁はクリーム色だし、観葉植物やぬいぐるみが置かれていたりして、普通の病室や診療室とは少し違った雰囲気のある部屋だった。
中央に大きなテーブルがあり、それを挟む形で二つのソファが並べられている。

「ちょっと座って待っててね。」

そう言うなり、白崎は一度部屋を出た。
日向は言われたとおりに、ソファに腰を下ろす。
早く百合にメールを返したいと思っていたが、まだ時間がかかりそうだ。

それにしても、彼方の話とは何だろう。
どうしてあの女医が、彼方のことを聞いてくるのだろう。
彼方がここを訪れたのは、たった一度きりじゃないか。

数分で戻ってきた白崎の手には、ファイルが握られていた。
カルテ、というやつだろうか。

「お待たせ。」

白崎は、日向の向かいのソファに腰を下ろした。

「さて、さっそく始めましょうか。」

そう言って、目の前の女医はファイルをパラパラと捲る。
日向からはファイルの背しか見えない。きっと中身を見せる気なんてないのだろう。

「家での彼方君の様子を教えてほしいの。何か最近変わったことはなかった?」

「家での彼方…?」

そんなことを言われても、自分はもう四ヶ月も彼方と話していない。
けれど、ありのままのことを他人に、精神科医と言う得体のしれない人間に話すのは、気が引ける。
日向はこの場を適当にやり過ごそうと、嘘を吐くことにした。

「別に…普通ですけど。」

「普通?普通って言うのは、日向君から見ると、彼方君は元気そうってことかしら。
 落ち込んでるとか、塞ぎこんでるようには見えない?」

「そういう風には、見えないです。」

「本当?」

「…はい。」

白石は、真っ直ぐに自分を見つめてくる。
探るような嫌な視線だ。
日向は、その視線から逃げるように俯いた。

「そう…。」

白崎は、腑に落ちないような顔で首を傾げた。

「最近は、彼方君とあまり話してないのかな。前はあんなに仲良さそうに見えたけど、喧嘩でもした?」

日向は静かに首を振る。

「いつも通りですよ。別に、何も変わってないです。」

「じゃあ、今も彼方君とは仲良し?」

「…はい。」

白崎は、静かに自分を見つめてくる。
話していることが全て嘘だとバレたのだろうか。
実験動物でも観察するような冷たい視線。
居心地が悪くて堪らなかった。

「あの…なんなんですか。なんでこんなに彼方のこと聞いてくるんですか。
 彼方のことなんて、あなたには関係…ないじゃないですか。」

そう捲し立てるように言うと、白崎は意外そうに眼を瞬かせた。
そして、すぐに訝しげに眉間に皺を寄せて言った。

「もしかして、彼方君がここに通っていること聞いてないの?」

「…え?」

白崎の言葉に、日向は耳を疑った。
思わず顔を上げると、白崎は口元だけでニヤリと笑った。

「そう。日向君は知らなかったのね。やっぱり彼方君、隠してたみたいね。」

一人で納得したように、白崎はウンウンと頷く。

「でも、彼方君の具合はあんまりよくないし、日向君にも知っておいてほしいの。
 ここ最近は、鬱状態も見られるし、自殺願望もあるようだし…。
 あと、あの子、薬の量を守らないのよ。いつも二週間分の薬を出して、二週間後に予約取ってるんだけど、『薬が無くなったから』って予約日の前に来るのよ。
 一日や二日ならいいけど、ひどいときは一週間も早くよ?たった一週間で二倍の量の薬飲んだってことになるの。
 眠れない、って言って、睡眠薬を異常に欲しがったりもするし…。今出してる薬も、えーと…八種類、一日三十個近くね。
 もちろん、処方箋以上の薬を飲むのは良くないことだし、こんな状態だから、彼方君の薬の管理は、できればご家族にお願いしたいの。
 日向君でもお母さんでもいいから、決まった時間に、決まった量だけを、彼方君に渡してほしいの。」

慣れた様子で、白崎はファイルを見ながら、スラスラと言葉を紡ぐ。
しかし、一気にそんなことを言われても、日向は理解が追い付かなかった。

「ちょ…ちょっと待ってください。」

白崎はファイルを見つめる視線を上げた。
冷たい観察眼に、日向はたじろぐ。

「え、えっと…彼方は病気なんですか…?鬱状態とか自殺願望って…。」

「彼方君は、パニック障害…と、鬱病の疑いがあるわね。
 パニック障害は、緊張や不安で過呼吸を起こしちゃう病気。
 鬱病は…最近ニュースとかでも、よく聞くでしょ?強いストレスや不安に耐えらえれなくて、塞ぎこんじゃう病気よ。不眠や食欲の低下、倦怠感もあるわね。
 酷い時は、希死念慮と言ってね、生きていくのが辛くなって、死んだ方がマシだと考えて、自殺しちゃう人もいるわ。」

「自殺…。」

「大丈夫。そうならないために、医者がいるんだから。」

自分の不安を感じてか、白崎は力強い声で言った。

「でも、彼方君に良くなってもらうためには、ご家族の協力が必要不可欠なの。
 心の病気って言うのは厄介なものでね、ただ薬を飲み続ければ治るわけじゃない。
 彼方君が感じている不安やストレスを軽減してあげることが大切なの。」

「…俺は、どうすればいいんですか。」

「さっきも言ったように、薬の管理をしてあげて。
 本来薬は病気を治すものだけれど、飲みすぎたら副作用が出るわ。
 それが治療の邪魔をする場合もあるし、彼方君の体の負担にもなるのよ。
 薬は身の毒、って言葉があるように、飲みすぎては、かえって毒になるわ。
 そして何よりも、何を不安に思っているのか、何にストレスを感じるのか、彼方君の話をよく聞いてあげてほしいの。
 少しでも、彼方君のことを理解してあげて。それが彼方君にとって、一番必要なことよ。」

彼方のことを理解する。
今の自分に、そんなことができるのだろうか。
今更彼方を理解するなんて、できるのか。

窓の外から、雨音が聞こえる。
それは、激しく心を掻き乱されるような音だった。

麻丸。
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麻丸。

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