「嵐の夜」

 「嵐の夜」



今日はやけに、外が騒がしい。
珍しくパトカーとすれ違ったり、青ざめた顔をしている主婦たちがスーパーの軒下で井戸端会議をしていた。
心なしか、町全体がざわざわとしている気がする。
こんな田舎で、何か事件でもあったのだろうか。
それとも、どこかで雷でも落ちたのだろうか。

京子は学校を終えて、家に帰る途中だった。
台風でも来ているのかと思うほどの、激しい雨と吹き荒れる風。昨日の晴天が嘘みたいだ。
手に持った傘は、役に立ちそうもない。風に煽られて、壊れるのが時間の問題だ。
京子は傘を差さずに、びしょ濡れで家路を急いだ。

家に着いて玄関の扉を開けると、彼方の靴が脱ぎ捨ててあった。
彼方の濡れたのだろう。靴の周りに水溜りがでいている。
しかし、何かがおかしい。
いつもなら、自分が帰ってきたらすぐわかるように、部屋の扉が少し空いているはずなのに。
今は、その扉がピッタリと閉められていた。
耳を澄ませてみても、テレビの音や物音は聞こえない。また眠っているのだろうか。

不審に思いながらも、京子は靴を脱いで家に上がった。
キッチンを通り過ぎ、いったん脱衣所に寄ってタオルを取る。
とりあえず体を拭きながら、部屋の扉を開けた。

部屋の中は、真っ暗だった。
電気もつけず、カーテンも閉め切られている。
テレビも暖房もつけられていない、ただ静かな空間だった。

「…京子ちゃん?」

その弱弱しい声に視線を向けると、彼方が頭から布団を被り、膝を抱えてベッドの上に蹲っていた。

「どうしたんですか?部屋、真っ暗じゃないですか。」

そう言いながら、京子は部屋の電気を付けた。
明るくなると、彼方は背をビクッと震わせ、一層布団を深く被り、顔さえを隠してしまった。
明らかに普通の様子ではない。異様な雰囲気だ。

「彼方さん?」

京子がベッドに近付くと、彼方は縋るように自分を抱きしめてきた。
その体はひんやりとしていた。まだ体が濡れている。
寒さからか、小刻みに震えていた。

「ちょっと、濡れてるじゃないですか。体拭かないと、風邪ひきますよ。」

彼方は何も答えない。
代わりに、嗚咽を洩らして泣きだしてしまった。
痛いくらいに自分を抱きしめて、子供のように泣きじゃくる姿に、京子は困惑した。

一体どうしたんだ。何かあったのか。
しかし、彼方は何も言わず、肩を震わせて嗚咽を洩らし続ける。
京子はそんな彼方を抱きしめて、背を撫でてやった。

落ち着かせようと、ゆっくりと優しく背中を撫でる。
けれど、彼方の嗚咽が止まることはなかった。
そして徐々に、彼方の呼吸が浅く、早く、苦しそうなものへと変わっていった。
また、過呼吸だ。

彼方は、喘ぐように浅い呼吸を繰り返す。

「彼方さん、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから。」

京子にできることなどほとんどなく、ただ抱きしめて声を掛けることしかできなかった。
彼方は、力なく自分に凭れかかっている。
それでも自分を離すまいと、震える手でギュッと制服を掴んでいた。

寒い。まるで、体の芯まで冷えたようだ。
それは、雨で濡れたのと、部屋の暖房がついていないから。
そして、彼方の涙が自分を濡らし続けるからだろう。

「ほら、ゆっくり息吐いて。大丈夫、私はここにいますから。」

彼方は肩を上下に揺らして、必死に呼吸を試みる。
しかし、なかなか上手くいかないようだ。
空気を求めて開きっぱなしの口からは、だらしなく唾液が垂れていた。


過呼吸が治まったのは、それからしばらくしてのことだった。
いつもより落ち着くのが遅かったせいか、疲労したのだろう。
彼方はぐったりとベッドに横たわっている。
それでも自分の袖をしっかりと掴み、離す素振りはない。

「何かあったんですか?」

返事はない。
ただ静かに自分を見つめて、黙ったまま彼方は目を逸らした。

「着替えてくれないと、ベッドびしょびしょになるんですけど。」

そう言ってみても、彼方は黙っている。
京子は溜息を吐き、せめて自分だけでも着替えようと、ベッドから降りようとした。

「待って。…行かないで。」

彼方の冷たい手が腕を掴む。

「着替えてくるだけですよ。私もびしょ濡れで寒いんです。シャワーも浴びたいし。」

掴んだ腕に、力が籠る。
彼方は痛いくらいに自分の腕を掴んで、泣きそうな顔をした。

「…だめ。ここにいて。一緒にいて。お願い。」

「そんなこと言っても、このままじゃ二人とも風邪ひきます。すぐ戻ってくるから、離してください。」

「やだ。絶対離さない。」

彼方は、子供が駄々をこねるように首を振る。
京子はもう一度溜息を吐いた。

結局、彼方を諭して着替えるのに、一時間以上もかかった。
シャワーを浴びてくると言っても、脱衣所の前までついてきたり、シャワーを終えて脱衣所を出ると、廊下でしゃがみ込んで待っていたり、まるで自分を見張っているかのようだった。
半ば無理矢理に彼方にもシャワーを勧めて、やっと京子は解放された気分だ。
その解放も、ほんの一時だろうけど。

一体何があったのだろう。
ソファに座り、タオルで濡れた髪を拭きながら、京子は考える。
彼方は塞ぎこんでいる理由も、泣いた理由も、何も言わない。
口を開けば、「どこにもいかないで。傍にいて。」ただそれだけ。

昨日の彼方は、いつも通りに見えた。
何かあったとしたら。今日だ。
いや、昨日の彼方はいつも通りだったか?

スーパーで日向を見てから、ずっと物憂げそうにしていたじゃないか。
彼方の好物の肉じゃがを作っても、彼方のリクエストのサバの塩焼きを作っても、彼方は笑ってはくれなかった。仮面の笑顔を作るだけだった。
そして珍しく、自分を抱いた。「大事にしたいから抱かない」と言っていた彼方が、自分を抱いたのだ。
今思えば、あれが彼方からのサインだったのではないか。

何なんだ。一体何があったんだ。
昨日よりも今日の方が、ずっと落ち込んでいるように見える。
いや、落ち込んでいるなんてものじゃない。彼方は、塞ぎこみ、何かに怯えているのだ。
一体何に怯えているんだ。自分が学校に行っている間に、何があったんだ。

考えてみても、京子にはわからなかった。
彼方から話を聞くしかない。
今はまだ口が利けない状態でも、落ち着いたらちゃんと話してくれるだろうか。

考えても仕方がないと思い、京子はテレビのリモコンの電源ボタンを押した。
しかし、テレビはつかない。
もう一度ボタンを押してみた。
ダメだ。反応しない。

ふと、机の上に視線を落とすと、単三電池が二つ転がっていた。

「もしかして…。」

京子はリモコン裏返し、電池ケースを開いた。
やっぱり、中は空だった。

「なんなのよ、もう。」

そう言いながら、京子はリモコンに電池を入れようとした。
その時、自分の手からリモコンが消えた。

「…いいじゃない、テレビなんて見なくても。」

振り返ると、まだ髪が濡れたままの彼方が立っていた。
彼方は奪ったリモコンをベッドに投げ捨て、京子の手の平に乗ったままの電池も素早く回収する。

「ちょっと、何するんですか。」

彼方は何も答えずに窓際に向かい、カーテンを閉めた。
そして京子の元に戻ってくると、縋りつくように自分を抱きしめた。
まるで、母親から離れたくないと駄々をこねる子供のようだ。

「…髪、まだ濡れてるじゃないですか。」

やっぱり彼方は何も答えない。
京子の肩に顔を埋めているので、表情も見えない。
濡れた髪から滴る雫で、せっかく着替えた京子の服が濡れ始めていた。

「…もう。」京子は溜息を吐いて、自分が使っていたタオルで彼方の髪を拭いた。
少しタオルは湿っているが、まあいいだろう。
彼方はされるがまま、ただ黙って、大人しく京子に身を任せていた。

やがて髪を拭き終えても、彼方は口を噤んだままだった。

「…テレビ見みたいんですけど。」

彼方は何も答えない。自分を抱きしめる腕も、離すつもりはないらしい。

「今日の夕飯、何がいいですか?」

また彼方は答えない。代わりに、小さく首を振った。
食事はいらない、という意味だろうか。

「今日、仕事は?」

今度は何の反応もない。
京子は段々と苛々してきた。

「いい加減にしてください。いつまでそんな子供みたいなことしてるんですか。ちゃんと話してくれないと、私もわからないし、何もできませんよ。」

苛立ちのまま、京子は静かに言い放った。
けれど、やっぱり彼方から返事はない。
代わりに、すすり泣く声が聞こえてきた。

「ちょ…ちょっと、泣かないでくださいよ。」

すすり泣く声に、嗚咽が混じる。さっきと全く同じだ。

どうして彼方は泣くのだろう。
何が彼方を悲しませているのだろう。
何故彼方は、いつも以上に自分に執着しているのだろう。

「…怖い。」

聞き取れないほど小さな声で、彼方はポツリと呟いた。

「怖い?何がですか?」

そう聞いても、彼方は嗚咽を洩らすだけ。

京子の肩が、涙で濡れていく。
細く頼りない肩が、怯えているように震える。
自分を抱きしめる腕は力強く、まるで彼方に囚われたみたいだ。

子供のように泣きじゃくる彼方の体を、京子はそっと抱きしめた。
それだけしかできない。ただ、それだけしかできない。
彼方の不安も、怯えも、悲しみも、京子には何もわからないのだ。

いっそ、全てを話してくれたらいいのに。
そうすれば、少しはわかってあげられるのに。
その傷を、分け合うことも出来るはずなのに。
しかし、彼方は大事なことを、何一つ語ってくれない。
いつもそうだ。この人は、一人で抱え込むんだ。

「…独りにしないで…。」

嗚咽交じりに洩らした声が、震えていた。
それはまるで、祈るように、願うように、切実な声だった。

「何処にも行かないで…。僕の傍にいて…。約束…してくれたよね…?」

朝から降り続いた雨は勢いを増し、窓ガラスに叩きつける。
それはまるで、嵐が来たみたいだった。

麻丸。
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麻丸。

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