「過去のアルバム」

 「過去のアルバム」



家に着くと、日向は真っ直ぐ自分の部屋に入り、服を脱ぎもせずにベッドに飛び込んだ。
濡れた制服が重い。雨に体温を奪われて、体が冷たい。
けれど、そんなことを気にする余裕もないくらい、日向の頭は混乱していた。

母親の言葉が、頭の中で反芻する。
それと同時に、白崎の言葉も耳に残っていた。

母親は、足を滑らせて溺れたんじゃない。
故意に、誰かに突き落とされたんだ。その誰かは、きっと、自分がよく知っている人間だ。
そして、母親のあの口ぶりは、記憶が戻ったことを意味しているのではないか。

どうしよう。嘘で塗り固めた平和な日常が、壊れてしまう。
せっかく全てが上手くいっていたのに。
どうして、こんなことに―。

白崎から聞いた話も、日向を戸惑わせた。
彼方が精神科に通っていたなんて、全然知らなかった。
しかも、パニック障害や鬱病なんて病気になっているなんて。

どうして彼方は、何も言ってくれなかったのだろう。
自分に病気のことを隠して、急にいなくなって、彼方は何がしたいのだろう。
昔は、当たり前のように彼方のことを理解していたはずなのに、今の自分には、彼方が何を考えているのか全く分からなかった。
どうして彼方は、実の母親を殺そうとするなんて、恐ろしいことを―。

とにかく、一度彼方に会って話をしないと。
もう逃げていちゃダメだ。離れていた方が幸せなんて、言ってる場合じゃない。
彼方を探し出して、ちゃんと話をしないと。

明日、将悟に言って、誠に会わせてもらおう。
そして、彼方の居場所を聞き出すんだ。
一刻も早く、彼方に会わないと。

そこまで考えたところで、日向は寒気を感じ、くしゃみをした。
体はすっかり冷え切っている。暖房くらい、つければよかった。
早く着替えないと、風邪をひいてしまう。
日向は体をさすりながら、風呂場へと向かった。

シャワーを済ませてリビングに入ると、机の上に見慣れない本が乗っていることに気付いた。
古ぼけた分厚い本。母親が置きっぱなしにしたのか。
興味本位でページを捲ってみると、赤子の写真が目に入った。
二人の赤子が、母親に抱かれて笑っている。
これは、自分たちが小さかった頃の写真だ。

こんなものが残っていたのか。
アルバムなんて、存在しないと思っていた。
母親はこれを見たのか。これを見て、何を思ったのだろう。
やっぱり、もう一人の息子のことを考えたのだろうか。
これを見て、母親は記憶を取り戻したのだろうか。

しかし、病室での母親を思い返すと、どうにも合点がいかない。
自分に微笑みかけてくれる優しい母親のままだったと思う。
記憶が戻ったのなら、以前の暴力的な母親に戻るはずだが、それもない。

記憶が戻ったわけじゃないのだろうか。
彼方に会って、そこで以前の行いや、恨まれていることを知ったのだろうか。
自分に怯えの目を向けたのは、自分を彼方と見間違えたから。
もしくは、自分も彼方と同じように、母親を恨んでいると思ったからか。

自分は、母親のことを恨んでいるのだろうか。
もちろん、虐待を繰り返したことは許していないし、あの日々は忘れられない悪夢だ。
けれど、殺したいほど恨んでいるのかと聞かれたら、答えられない。
だって、ここ数カ月一緒に過ごした母親は、確かに優しかったんだ。

ちょっと優しくされたくらいでコロッと靡く自分は、馬鹿だと思う。
それでも、自分は普通の親子関係になれたことに、心の隅で喜びを感じていたんだ。

日向はアルバムを一枚一枚捲っていく。
泣いたり笑ったりと赤子の表情はコロコロと変わるが、一緒に映っている母親の顔は、いつも笑っていた。
この頃は、きっとみんなが幸せだったんだ。

一枚一枚写真を見つめるたび、なぜか涙が溢れた。






「で、お前が戻ってきたことと、彼方と連絡が取れなくなったことは関係あるのか?」

誠はテーブルを拭く手を止め、ふてくされたように唇を尖らせた。

「はあ?あるわけないじゃん。優樹君に言われた通り、彼方君にはちょっかい出してないよ。」

「じゃあなんでアイツ、電話出ねえんだよ。『しばらく休む』ってメール送ってきたきり、電源切ってるみたいだし。」

「だから知らないって。仕事が嫌にでもなったんじゃないの?
 夜の仕事続く奴なんて稀じゃん。別に珍しいことでもないでしょ。」

今は店の開店前。
優樹は誠と二人きりでオープン準備をしていた。
と、言っても、全部誠にやらせて、自分はソファに座って煙草を吸っているだけだが。

今日の夕方、優樹が目を覚ますと携帯に彼方からのメールが入っていた。
内容は簡潔で、「今日からしばらく休ませてください」というものだった。
メールが届いたのは昼過ぎで、優樹はすぐに電話を掛けたのだが、繋がらなかった。電源が切られていたのだ。
優樹には思い当たる節はないし、おかしいと思って誠に電話を掛けたところ、彼方がいないなら戻ると言って、入れ替わりに誠が戻ってきたのだった。

「それに、急に休みたいなんて、今に始まったことじゃないでしょ?
 みんな適当だから、当日欠勤なんてしょっちゅうあるじゃん。アイツだってそうだろ?」

誠は呆れたように溜息を吐く。
そうは言われても、優樹は納得できなかった。

「そうだけどよー…。なんつーか…。」

「優樹君は考えすぎ。つーか、アイツに執着しすぎ。
 他にもいっぱい従業員入るんだから、アイツばっかりエコヒーキするわけにもいかないだろ。
 俺みたいに不満に思う奴だっていると思うけど?」

「エコヒイキって…。俺、そんなにあからさまかよ。」

「あからさまだね。もーちょー露骨。みんなのおとーさんじゃなかったわけ?
 今の優樹君は、アイツのお世話係みたいなもんじゃん。
 家も、仕事も、携帯も、服なんかも与えて、贔屓してないなんてよく言えるね。」

優樹は唇を尖らせた。
誠の言うことは、事実だ。
けれど、彼方のことを贔屓しているわけじゃなくて、気にかけているだけだ。
少なくとも、自分はそう思っている。

「だって、アイツ行くところねえって言うし。」

「行くところなんてどこにでもあるでしょ。
 アイツには実家もあるし、女の家だって逃げ込めるじゃん。
 仕事だって、選ばなきゃいくらでもあるし、何もこの店に執着する必要なんてない。
 大体アイツは高校生だ。大人しく実家から学校通って、普通の高校生してればいいのに。」

そう言って、誠は大げさに肩を竦めた。

「だから、帰れる家があっても帰りたくねえってことじゃん。…お前と同じだろ、篠田製薬のお坊ちゃん。」

優樹の言葉に、誠はあからさまに不機嫌な顔になった。

「あぁ?…今なんつった?」

眉間に皺を寄せ、誠は睨みつけるような視線を自分に向ける。
うっかり口が滑った。こいつに家の話は禁句だったか。

「スマンスマン、今のはナシだ。」

優樹は両手を挙げて、降参のポーズを取る。
誠は不機嫌そうにしながらも、溜息を吐く。
そして、少し乱暴な仕草でテーブルを拭く手を動かした。

数年の付き合いでも、こうして調子に乗って誠を怒らせてしまうことは多々ある。
特に、家のことは触れられたくない話らしく、不機嫌を隠そうともしない。
元々悪い目つきを更に険しくして睨んでくるものだから困りものだ。正直ちょっと怖い。

優樹は煙草に火を点け、紫煙を吐く。
久しぶりに会ったとはいえ、こいつは何も変わらない。
文句を言いながらも、やっぱり自分についてきてくれる。

「つーか、お前今までどこ行ってたんだよ。家にもいなかっただろ。」

誠は再びテーブルを拭く手を止め、顔を上げた。
同時に二つのことをできないのは相変わらずらしい。

「あ、やっぱりうち来たのかよ。優樹君なら絶対来ると思って、よそに避難してたんだよ。」

「避難ってどこに?」

「糞田舎。」

「はあ?糞田舎?」

思わず口から紫煙が洩れた。

「そー。糞田舎でT●KIOみたいな生活してたんだよ。」

「TOKI●って…。あれか、『楽器よりもクワ持ってる方が落ち着く』とか言ってる農家アイドルか。」

「そうそう、それ。もー毎日大変だったんだから。」

そう言って、誠は大げさに肩を落とした。

「畑耕したり、ジャガイモ収穫したり、重たい物持ったり、…意外と体力使うんだからね。
 家庭菜園って言うから手伝ったんだけど、もうそういうレベルじゃないの。畑だよ畑。ホント、農家レベルだよ!田舎だから無駄に土地広いの!
 あんなのを年取ったおばーちゃんが毎日やってると思うと恐ろしい!
 ぎっくり腰にでもなられたら困るから全部任せてもらったけど、もー毎日筋肉痛!」

「お前ホントに何やってたんだよ…。」

「だからTOKI●だって。いや、T●KIOよりも過酷だったかもしれない!
 俺、人生で初めて野生の狸見たからね!でも全然可愛くねーの!
 ラスカルみたいな可愛いの想像してたのに、すっげーふてぶてしい顔してんの!」

「ラスカルはアライグマだろ…。」

「似たようなもんじゃん。
 で、野生なのに人慣れしてんのか、すっげー近付いてくんの!
 もう俺ビクビクよ!?狸近付いてくるとかどーすりゃいいの!?
 威嚇しても全然逃げなくて、収穫したばっかりのサツマイモ取られたからね!それでさ、」

誠の話が熱を帯びてきた。
優樹は、話半分に適当に相槌を打って聞き流すことにした。
経験上、こうなると話が長くなるのだ。


「優樹君。ねえ、優樹君、聞いてる?」

「おー。」

「おー。じゃなくてさ!」

コツコツと苛立たしそうにテーブルを指で叩く音に、優樹は顔を上げた。
携帯ゲームに集中しすぎていたようだ。全く話を聞いていなかった。
いつの間にか誠は、不満そうな顔で自分の向かいのソファに腰掛けていた。

「何?まだあのゲームやってんの?」

「おう。けっこー進んだぞ。」

「ちょっと見せて。」

そう言って、誠は優樹の手から携帯を奪い取る。

「おー、ちゃんとパーティー組めてんじゃん。前はあんなにひどかったのに。しかも、結構レベル上がってるね。」

誠は、興味深そうに自分の携帯電話の画面を見つめる。
そういえば、こいつもこういうゲームは好きだったか。

「お前も彼方も構ってくれねーから、暇だったんだよ。京子もとっくに向こう帰ったし。」

「何?あの広い家でボッチだったわけ?」

「わりぃかよ。」

そう言って、優樹は誠の手から携帯電話を取り返した。

「で、何の話してたんだっけ?」

「ああ、そうそう。京子ちゃんのことだよ。」

「京子のこと?」

「悪い男と付き合ってんじゃないかって話。」

誠は、意味ありげにニヤリと口元を歪める。
優樹はフン、と鼻で笑った。

「ないな。それは絶対ない。アイツは、ああみえてしっかりしてるんだよ。
 簡単に悪い男に騙されるような奴じゃない。それに、アイツは完全に男を尻に敷くタイプだろ。」

そう言って、優樹は自信満々に断言した。
自分が手を掛けて育てた京子が、悪い男と付き合うなんてありえない。
飴と鞭を使い分けて、厳しく、そして優しく、甘やかしつつも、きちんと育てたつもりだ。
いや、飴の方が遥かに多かったかもしれない。けれど、京子なら大丈夫だろう。

「あーやだやだ。これだからシスコンは。」

誠はげんなりとした表情を作ってみせた。

「わかんないじゃん。親馬鹿な優樹君の知らないところで唆されてるかもしれないでしょ。」

「なんでお前はそんなふうに思うんだよ。」

「京子ちゃんの学校の学園祭で見たんだよ。変な男と歩いてるとこ。」

「学園祭?そんなのいつあったんだよ。」

誠は視線を斜め上に泳がせて、思い出すような仕草をする。

「へ?ああ…えっと、確か先月の…三十一日だ。ハロウィンの日。」

「俺それ知らねえよ。京子も俺にそんなこと言ってくれないし…。
 アイツ昔からそうなんだよなあ。小学校の頃から授業参観も、運動会も、文化祭とかも俺に教えてくれないんだぜ!?
 ちゃんと言ってくれたら、ウキウキしながら京子の成長を写真に収めに行くのによお。」

両親が死んでから、京子は一度も学校行事に自分を呼んだことはない。
夜仕事をして昼間寝ている自分に遠慮しているのだろうが、兄としては少し悲しい。
高校に行くために一人暮らしを始めたのも、兄離れして独り立ちをしたかったのかもしれない。
そう思うと、なんだか寂しいものがある。

「はいはい、『おにーちゃん寂しい~』なんて感傷に浸ってないで。」

呆れた顔をしながら、誠はパンパンと手を叩く。

「優樹君が別れろって言ってやったら?きっと、碌な男じゃないよ。お面で顔隠してたし。」

「その根拠はどこからくるんだ。」

「顔隠してる時点で、絶対なんかあるでしょ、ソイツ。指名手配犯だったりして。」

誠は肩を竦めて、おどけたようにぺろりと舌を出して見せた。

「お前なあ…。どーせハロウィンの中途半端な仮装だろ。
 大体、一緒に歩いてただけでどうして付き合ってることになるんだ?
 同じクラスの男子とか、先輩とか、後輩とか、いろいろあるだろ。
 つーか、お前意外とゴシップ好きだよな。あー聞いて損した。」

そう言って、優樹は何本目かわからない煙草に手を伸ばした。

「ほら、オープン準備に戻れよ。もうすぐ開店だぞ。」

そういうと、誠はしぶしぶ立ち上がり、カウンターの方へと向かって行った。
カウンター越しに見る誠は、どこか納得できないような不満そうな顔をしていた。

それにしても、どうしてここで京子の話が出るのだろう。
誠にも京子と仲良くしてもらっているが、どうして京子の色恋沙汰なんかに興味を示したのだろう。
彼方がいなくなったことと、何か関係があるのだろうか―。

麻丸。
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麻丸。

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