「暗闇の檻」

 「暗闇の檻」



何度かインターフォンが鳴った後、足音が遠ざかっていった。
扉の向こうの人物は、諦めてくれたのだろう。

「…行ったみたいですよ。」

そう言うと、彼方は京子の腕を掴む手を離して、安堵の息を吐いた。
手に持った煙草はほとんど灰になっている。今にも落ちてしまいそうだ。

「もう。せめて、換気扇回してくださいよ。」

そう言いながら、京子はキッチンの換気扇をつけた。

彼方は先程まで、いつものようにベランダで煙草を吸っていたのだが、外で人の話し声が聞こえたからと、慌てて煙草を持ったまま部屋に入ってきたのだ。
その直後、インターフォンが鳴った。
京子は玄関に出ようとしたが、途中で彼方に腕を掴まれて拒まれた。
暗い顔をした彼方は、無言で首を振った。「出ないで」という意味だろう。
仕方なしに、その来訪者がいなくなるのをキッチンで息を殺して待ったのだ。

せめてドアスコープを覗いて誰が来たのか確認したかったのだが、彼方は腕を離そうとしなかった。
話し声は二人だったと思う。一人は、虎丸だ。声が大きいからすぐわかる。
もう一人の声は微かにしか聞こえなかったけれど、誰だろう。
虎丸と一緒に来る人物といえば…まさか日向か。

京子はドアポストの中身を確認する。
先程の人物が、何かを入れていったような音がしたからだ。
思った通り、ルーズリーフが一枚入っていた。

『みんな心配してます。連絡ください。  虎丸。』

それだけの短い手紙だった。

京子は、先週末から軟禁状態だった。
カーテンを閉めきった暗い部屋。灯りをつけることも、滅多にない。
外に出ることも許されないし、携帯電話を使って誰かと連絡を取り合うことも許されない。
挙句の果てには、テレビさえ見せてくれないのだ。もちろん、パソコンを使うこともできない。

自分の携帯電話も、テレビのリモコンも、この狭い部屋のどこかに隠されてしまった。
そして彼方は、ほとんど口もきかずに、ただ黙って自分を抱きしめているだけだった。
常に沈んだ顔で自分を抱きしめて泣くのだ。時々、何度も過呼吸も起こす。
そして、京子の目を気にすることなく、まるでラムネ菓子でも食べるかのように大量の薬を飲み、ほとんどをベッドの中で過ごしていた。

学校も、バイトも、どこにも行くことを許されない。
彼方の目の届くところにしかいられないのだ。
挙句の果てには、風呂やトイレに行く時だって、付いて来ようとする。
さすがに中にまでは入って来ないが、扉の前に蹲ってずっと自分を待っているのだ。
せめてトイレの時は離れていて、と言うのだが、彼方は表情一つ変えず、「だって、僕が目を離したら、京子ちゃん逃げちゃうでしょ。」と言うのだ。

ハッキリ言って異常だ。
それでも、京子は彼方を振り払えないでいた。

そんな軟禁のような拘束の日々。
やっと眠ったと思っても、彼方は悪夢に魘され、すぐに目を覚ます。
まともに眠れていないせいもあるのか、日に日に彼方は疲弊していった。
食事もほとんど取らず、まるで魂でも抜けてしまったかのように、ぼーっとしていることが多くなった。

「彼方さん、私の携帯返してください。」

彼方は、無言で首を振る。
この頃は、ほとんど声を出すことも無くなった。

京子は、ドアポストに入っていたルーズリーフを彼方に差し出す。

「せめて、学校とバイト先に連絡入れないと。このままじゃ、お兄ちゃんに学校行ってないことバレちゃうでしょ。
 お兄ちゃんはここの合鍵も持ってるから、面倒なことになりますよ。押し掛けてくるかもしれないし。」

まるで脅し文句のようだ。
けれど、こうでも言わないと、彼方は携帯電話を返してくれないだろう。

「この人、誰…。」

彼方はルーズリーフを握りしめ、消え入りそうな小さな声で言った。

「バイト先の人ですよ。同じ学校の。」

「男…?なんで京子ちゃんの家に来るの…?」

「連絡取れなくて心配してるんでしょう。バイトもずっと無断欠勤だし。」

だから携帯返して。そう続けようとしたら、彼方は手に持っていたルーズリーフを破いた。
そのまま、ビリビリと何度も細かく引き裂く。

「ちょっと、何するんですか!」

ルーズリーフが紙吹雪のように宙を舞う。

「だめ…。僕だけのものでいて…。お願いだから…。」

そう言って、彼方は自分を抱きしめてきた。
いや、縋りつくと言った方が正しいのかもしれない。
ずっとこんな調子だ。また嗚咽が聞こえてきた。

どうして彼方がこうなっているのかはわからないが、自分に見捨てられること、自分を奪われることを極端に恐れているようだ。
京子は何もできず、ただ彼方が満足するまで抱きしめることしかできなかった。

「携帯、どうしても返してくれませんか?」

その嗚咽も落ち着いたころ、京子は再度彼方に言った。

「さっきも言いましたけど、お兄ちゃんがくるかもしれないし、警察に捜索届なんて出されたら面倒ですよ。」

「メールじゃダメなの…?」

「ダメに決まってるでしょう。」

彼方は諦めたように溜息を吐いた。
そして、布団の中をまさぐる。その中から、京子の携帯電話が出てきた。
そんなところに隠していたのか。
道理で、何処を探しても見つからないわけだ。

「ここで電話して。用件だけ言って、すぐ切って。」

携帯電話を差し出しながら、彼方は不安そうな瞳で自分を見つめる。
本当に軟禁されているみたいだ。全て彼方の監視下の中にある。

結局、彼方の目の前で、学校とバイト先に電話を掛けた。
いつまでこの状態が続くかわからないから、インフルエンザだと嘘を吐いた。
とりあえずは、これで大丈夫だろう。


「少しくらい、ご飯食べたらどうですか。」

彼方は首を振る。いらない、と言いたいのだろう。
食事を作ってみても、彼方はほとんど口にしない。
以前なら、無理にでも一口は食べてくれたのに。

「ダメです。ちゃんと食べないと、体に毒ですよ。」

また彼方は無言で首を振る。
京子は溜息を吐いた。

「ほら、口開けてください。」

野菜スープをスプーンで掬って、彼方に差し出した。

「…いらないってば。」

「一口だけでもいいですから、ほら。」

彼方は露骨に嫌そうな顔をする。

「ご飯食べないと、一緒にいてあげませんよ。」

そう言うと、彼方の瞳に迷いの色が浮かんだ。
そして、少し悩んだ後、小さく口を開けた。

狡い言い方だと思う。
でも、彼方はこの一週間、ほとんど食事を摂っていないのだ。
頬は痩け、顔色も悪い。せめて少しだけでも栄養を摂ってほしい。

京子は、その口にスプーンを押し込む。
彼方は眉間に皺を寄せ、時間をかけてて咀嚼し、少し苦しそうに飲み込んだ。

「食べられたじゃないですか。」

そう言って、京子は彼方を褒めるように微笑んでみせる。
しかし、彼方は口元を手で覆ったまま、俯いた。
しばらくして、ふらつく足取りでトイレの方へと駆けて行った。

―また吐き戻しているのか。

彼方の顔色が悪い理由は、食事を摂らないだけじゃない。
こうして何も食べていないのに、一日に何度も吐き戻すのだ。
少しでも消化にいいものを選んで作っているのだが、それでもダメなようだ。
今の彼方は、以前にも増して、食べ物を一切受け付けない。

具合が悪いなら一緒に病院に行こうと言っても、彼方は首を縦に振らない。
全部精神的なものだろうが、塞ぎこんでいる理由を、彼方は自分には言わない。
本当に、自分はどうしたらいいのだろう。
どうしてやったらいいのだろう。
どうすれば、彼方の心を癒せるのだろう。

結局、彼方は野菜スープを一口食べるだけで食事を終えた。
その一口も、彼方の体の中には入ってないのだろうけど。

キッチンで洗い物をしていても、痛いほど背中に視線が刺さる。
部屋のドアを少し開け、彼方がじっと見張っていのだ。
そんなに不安そうな顔をしなくても、こんな状態で何処かへ行くほど自分は薄情じゃないのに。

洗い物を終えて、京子はコップに水を入れて暗い部屋に戻った。
彼方は扉のすぐ横で、頭から布団を被り、膝を抱えて待っていた。

「薬、まだ飲んでないんでしょう?」

そう言って、京子はコップを彼方に差し出す。
彼方はコップを受け取ると、テーブルの下から処方箋袋を取り出した。
その中には大量の薬が入っていて、赤や黄色、紫、丸い物や楕円形など、様々な色形のものがあった。
彼方は慣れた手つきでシートから一つ一つ薬を取り出す。
そして、片手いっぱいになった薬を口に放り込んだ。

まるで薬が食事の代わりみたいだ。栄養なんて、ないのだろうけど。
何の薬かは知らない。精神安定剤とか、そういうものだろう。
けれど、そんなに大量に飲んでも大丈夫なものなのだろうか。
一度で空になったシートは、五枚もあった。

薬を飲み終えると、彼方はベッドに戻った。
そして、自分を呼び寄せて、抱きしめて離さない。

何をすることもなく、夜は更けていく。
気付けば、彼方の寝息が聞こえてきた。
飲んだ薬の中に、睡眠薬も含まれているのか、寝付きはいい。
しかし、問題はその後だ。

うーんと、唸るような声が聞こえた。
また魘されているようだ。悪夢でも、見ているのだろうか。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。」

呪文のように、彼方は何度も呟く。
一体誰に謝っているのだろう。
彼方は一体何をしたのだろう。

「ごめんなさい…。許して…。」

眉間に皺を寄せ、怯えるように体を震わせる。
閉じた瞳からは、涙が一粒零れ落ちた。
京子は彼方を落ち着けようと、そっと背中を撫でてやった。

彼方の体は、わずかに汗ばんでいた。呼吸も少し早い。
何かに耐えるようにギュッとシーツを握りしめ、時々呻き声のようなものを洩らす。
酷い魘され方だ。起こしてあげた方がいいのだろうか。
そう京子が悩んでいるうちに、彼方はハッと目を見開いた。

「はあっ…はあっ…。京子ちゃん…。」

呼吸を荒くし、取り乱した様子で、彼方は自分に縋りついてくる。

「また嫌な夢見たんですか。」

京子は、よしよしと、子供でもあやすかのように彼方の背を撫でる。
自分がこうして冷静でいられるのは、こんな様子が毎晩繰り返されているからだ。

「怖い…。」

まるで小さな子供のように、彼方は体を震わせる。
荒い呼吸が、どんどん乱れていく。
しばらくして、彼方は過呼吸を起こした。


疲れ切った様子で、彼方は自分に凭れかかる。
過呼吸を起こした後は、いつもそうだ。体の力が抜けて、まともに座ることすらできないらしい。
ここ数日で、京子は何度過呼吸を起こしている彼方を見ただろう。
おかげて、すっかり慣れてしまった。
最初は焦りと不安で取り乱していたが、今では落ち着いて冷静に対処できるようになった。

「…もう疲れた。」

そう言って、彼方は焦点の合わない濁った眼を自分に向ける。
そして自分の手を取り、首元へと宛がった。

「ねえ、京子ちゃん。…僕を殺して。」

「何…言ってるんですか。」

「お願い。もう生きてたくないんだ。ねえ、殺してよ。」

彼方は自分の手を両手で覆い、力を籠めた。
指が喉に食い込む。彼方は苦しそうに顔を歪め、目を閉じた。
酸素を求めているのか、喘ぐように口がパクパクと開閉する。

「ちょっと、やめてください…!」

そう言っても、彼方は力を緩めなかった。
京子は怖くなり、手を離そうとしたが、できない。
むしろ、さっきよりも力が増している。
どんどん彼方の顔色が悪くなっていく。
京子はとっさに彼方を突き飛ばした。

京子に押され、彼方はベッドに倒れ込む。
そして、ゲホゲホと咳き込んだ。

「何やってるんですか!馬鹿なことしないでください!」

彼方は咳き込みながらも京子を見上げる。
その顔は、なんだか悲しそうな表情をしていた。

「京子ちゃんだって…僕のこと、めんどくさいと思ってるんでしょ。
 だったら、殺してくれた方がいい。もういいんだ、全部。もういいんだ…。」

「何がもういいんですか。私は貴方のことを独りにしないって言ったはずです。
 そんな貴方が、私を人殺しにした上、独りにする気ですか。」

彼方は目を見開いて、そしてすぐに伏せた。

「もう嫌なんだ。死んじゃいたい。」

「貴方は、私のために生きてくれるって約束してくれたでしょう?約束破る気ですか。」

「もう嫌なんだってば。辛い…苦しい…。」

「だから、何が辛いんですか、苦しいんですか。言ってくれないと、わかりません。」

京子は彼方の肩に手を置き、彼方を見つめる。
彼方は視線から逃げるように顔を背け、たじろいだように少し後ずさった。
そして、唇を舐めた後、躊躇うように口を開いた。


「…僕ね…人を、殺したんだ。」


静かな部屋で、その言葉がやけに大きく響いた。

麻丸。
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麻丸。

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