「掬いようのない気持ち」

 「掬いようのない気持ち。」

彼方の幸せとはなんだろう。
自分の幸せとはなんだろう。
いつだって望むのは、二人一緒にいられること。ただ、それだけだった。

諦めなければ夢は叶う、だとか、
夢は逃げない、逃げるのは自分だ、とか。
そんなのは成功者の結果論でしかない。
その言葉を信じて馬鹿を見た人間が、星の数ほどいるのだろう。

そもそも、将来の夢なんて、全然考えてなかった。
すっかり大人に近づいた自分たちは、
選べる自由がそれほどないことも知っていたし、
何をするにも必要なのは、お金だとわかっていた。

母子家庭で、母親も夜の仕事をしてなんとか生活してきたし、
金銭的な余裕がないのも知っていた。
それでも、散々暴力を振り続けてきた母親が、
二人一緒に高校に行かせてくれたことを、感謝するべきなのだろう。

一番現実的なのは、
高校を卒業したら、そのまま適当な会社に就職してしまうか、
フリーターにでもなることだ。

つまらない人生だな、と日向は思う。

このご時世に就職できる保証も、二人一緒にいれる保証も、何もない。
そう思えば、卒業後に二人一緒なんてことは、非現実的だと思う。

将悟の言うことは正しい。
痛いくらいの正論の矢が、日向に突き刺さる。

きっと働きだして、一緒にいる時間が少なくなったら、
寂しがりの彼方は、自分以外に、ちゃんとした彼女を作るだろう。
そうして結婚して、家庭を作っていく。
自分の傍を離れて。

それでいいのだろう。
それが正しいのだろう。
普通の家庭に憧れていた彼方は、これが幸せだと思うだろう。

だったら、今すべきことは一つだった。
彼方の手を、離すこと。
普通の人生を歩ませてやること。
そして自分も、必要以上に彼方に干渉しないこと。

日向は、切ないような、寂しいような、気持ちになる。
自分たちが必死に、暴力耐え続けながら守ってきた、この関係が、
将来という、形がない漠然としたものに、奪われるなんて。

―それでも、彼方が幸せなら、それでいい。

自分の気持ちを閉じ込めて、日向は大きく深呼吸をした。

―ちゃんと逃げないで話そう。それが彼方と…、自分のためだ。

不安な足取りを隠して、日向は家に向かう。




家に帰れば、カーテンは閉め切られ、明かり一つ、ついていなかった。
まだ夕方だというのに、薄暗い家の中。
日向は彼方を探す。

リビングにはいない。
台所にも、風呂場にも、トイレにも。
となれば、二人の部屋にいるのだろう。

日向は薄暗い家の中が、なんだかとても不気味に感じた。
二人の部屋の前で日向は立ち止まる。
物音がしていない。

「彼方?…寝てるのか?」

トントンとノックをしても、返事はない。
日向は躊躇いがちに部屋の扉を開けた。

「日向…?」

彼方はベッドの上で、頭から布団を被り、
何かにおびえるように、座り込んでいた。

「…どうしたんだ?灯りもつけないで。」

日向は部屋の灯りをつけ、彼方の傍に寄る。
彼方は布団をギュッと握りしめ、呟く。

「日向…なんか、僕…おかしいんだ…。」

「おかしいって…どうした?」

消え入りそうな、弱弱しい彼方の声。
日向は彼方の隣に座り、その顔を覗き込む。
少し青ざめたような表情は、何かを怖がっているようにも見えた。

「わかんない…わかんないんだけど…なんか…怖いんだ…。」

「怖い?…何が?」

傍に寄ると、彼方は少し、震えているような気がした。

「わかんない…。…なんか…やだ。…怖い…。」

「わかんないって…。」

日向は彼方の頭にそっと手を置き、そのまま優しく撫でる。
少し伸びた黒髪が、指先に甘えるように絡みついてくる。

「ねえ…日向は…僕を一人に…しないよね…?
 ずっと…一緒に…いてくれる…よね…?」

途切れ途切れに呟くその声は、少し震えていた。
その言葉に、日向はいつも何度でも繰り返した
魔法のような、呪いのような言葉は、言えなかった。

「…ずっと一緒には、いれない。
 ちゃんと、別々の将来のこと…考えないと…。」

彼方の顔が、絶望に染まっていくのが、わかった。

「どう…して…?」

「今までは二人一緒でもよかったけど、俺たちはもうすぐ大人になるんだ。
 高校卒業して、就職とかして、普通に彼女作って、結婚して、子供とか生まれて…。
 彼方もずっと普通の家庭に憧れてただろ?
 俺たちは双子だけど、別の人間だ。別々の人生がある。だから…」

日向が話しながら彼方の方に目をやると、
彼方の様子がおかしいことに気付いた。

「…っはあっ…っはっ…。」

「彼方…?おい!どうした!?」

彼方は胸を押さえ、荒く浅い呼吸を繰り返していた。
力なく、頭を垂れ、ただ、荒い呼吸をしていた。
その姿はとても苦しそうで、何かの病気ではないかと疑う。

「…ひっ…なたっ…。」

彼方は縋りつくように、力ない手で日向に触れようとする。
しかしその手は小刻みに震え、空を掴む。

「彼方…。彼方!大丈夫か!?」

彼方は弱弱しく首を振り、荒い呼吸を繰り返す。
その瞳には、ポロポロと涙が溢れていた。

―どうしよう…。

不安と戸惑いと焦りで、冷静な判断ができない。
彼方が苦しそうにしているのに、冷静になんて、なれるわけがない。

―そうだ。救急車!

「待ってろ!今救急車呼ぶから!」

そう言った日向の腕は、彼方に掴まれる。
震える、弱弱しい手。

「だっ…めぇっ…。あざが…っ。一緒に…いられなく…なる…からっ…。」

苦しそうな呼吸をしながら、声を絞り出す。

「そんなの今は関係ないだろ!」

こんな時でさえ、体中に残る痣や傷がバレてしまったら、
一緒にいることができなくなるかもしれないと、心配する彼方。
しかし、母親が最後に帰ってきたのは、もう二ヶ月以上も前だ。
うっすらと部分的に痣が残っているが、今は彼方の方が心配だ。

日向は家の固定電話の方へ駆け出した。

「やだっ…一緒じゃなきゃ…や…だっ…。」

日向は、彼方の悲痛な声を、聞かないフリをして、電話機のボタンを押した。

麻丸。
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麻丸。

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