「無意識の衝動」
「無意識の衝動。」
夕日が差し込み、外はすっかりオレンジに染まっていた。
日向が現れ、すっかり落ち着いた彼方に、
白崎は真っ直ぐ目を見て話しかける。
「今日はその点滴が終わったら、帰っても大丈夫よ。
でも、来週にでも二人でまた病院に来てね。」
「俺も…ですか?」
意外そうな顔をする日向に、白崎は優しく微笑みかける。
「ええ。だって…彼方君、一人で病院来れる?」
彼方は少し気まずそうに、白石から目をそらす。
そのまま日向の手をギュッと握り、小さな声で呟いた。
「…日向と一緒じゃなきゃ、やだ。」
「ほらね。日向君も彼方君についてきてあげてね。」
「…わかりました。」
そう言って微笑む白崎に、日向は何故か違和感を感じる。
顔は笑っているのに、目が笑っていない。
まるで自分たち二人を観察するような目つきだった。
―気味が悪い。
日向はそう思った。
病院からの帰り道、彼方はただずっと黙って、
遠慮がちに、日向の制服の袖口を掴んで歩いた。
こんな田舎町に、歩いている人間などほとんどいない。
誰かに見られたところで、もう今更どうでもいい。
日向もただ黙って、袖口から伝わる彼方の存在を感じながら、
家までの、いつもより少し遠い距離を歩く。
海が見渡せる海岸沿いの静かな道路。
沈みゆく夕日が海に反射して、キラキラと輝いていた。
それはまるで、この世界に二人だけしか存在していないような錯覚をさせた。
「ねえ、僕…死んじゃうのかな。」
ポツリと小さく呟く彼方。
おそらく、白崎から何も聞いていないのだろう。
「そんなことない。
死んだりするようなことはないって、あの先生が言ってた。」
振り向くことなく、淡々と日向が言う。
彼方は日向の袖口を掴んだまま、立ち止まる。
「…そっか。残念だね。」
消え入りそうな、小さな声。
「え?」
袖が掴まれているため、日向も自然と立ち止まる。
振り向いた日向の目には、悲しそうな彼方の笑顔が映った。
「僕が死んだら…日向は、自由になれるのにね。」
その笑顔が、とても儚く、まるで消えてしまいそうだ、とさえ思った。
肌に纏わりつく生暖かい潮風に、攫われて消えてしまうのではないか、
と思うほどに、彼方の笑顔が、痛々しかった。
「…馬鹿なことを言うな。」
日向は震える声を誤魔化すように、彼方の手を、強く握る。
その手に、彼方は少し困ったような顔をして、俯いた。
「だって、僕は狡いから…、ずっとこうやって日向にしがみつくよ。
たとえ…日向が突き放したとしても…きっと狡いやり方で…、日向に縋りつくよ。
だから…一番簡単なのは、僕が…死んじゃうことなんだよ。」
俯き、涙を堪える彼方。
日向は、自分よりほんの少しだけ身長が高いはずの彼方が、
何故かとても小さく感じた。
「…そんなことを言うな。
彼方がいないと生きていけないのは、…本当だから。」
「日向…。」
握った手から、彼方の暖かい温もりが伝わってくる。
顔を上げた彼方は、驚いたような、嬉しいのか、
感極まってポロポロと涙をこぼし、泣き出してしまった。
「今日は泣き虫だな。」
「だって…もう…そんなこと、言ってくれないと…思って…っ。」
日向は、呆れたような、でもどこか愛おしそうな表情で、
指で彼方の瞳に溢れる涙を掬ってやる。
もう片方の手を、彼方の頭の添え、優しく撫でる。
その優しく繊細な指先が、彼方は大好きだった。
「髪、伸びたな。家帰ったら切ってやるよ。」
幼いころから、彼方の髪を切るのは日向の役目だった。
器用で優しいその指先で、彼方の不安をほどいていく。
「僕、日向の指好きだな。」
涙を拭うその指先に、自分の指先を絡める。
少し冷たい日向の体温は、涙のせいか湿っていた。
床に新聞紙を敷いて、真ん中に椅子を置き、そこに彼方を座らせる。
服に切った髪がつかないよう、申し訳程度に首元にタオルを巻く。
「いつも通りの長さでいいか?」
「うん。」
日向は、嬉しそうに座る彼方の細い髪の毛に触れる。
指に纏わりつく、猫のようにしなやかな黒髪を、櫛で梳かす。
前髪を、横の方を、襟足を、ゆっくりゆっくり梳かしていく。
ふいに目に入った彼方の白い首筋が、
折れてしまいそうなほどに、細いことに気付く。
手に触れて、少し力を入れただけで、
その呼吸が止まるのではないかと、思ってしまう。
彼方は安心しきった様子で、目を伏せていた。
―ずっと二人きりでいれないのなら、いっそのこと―。
少しの好奇心と、抑えきれない衝動に、
そっと、その首筋に、手を添えてみる。
「…どうしたの?」
彼方の不思議そうな声に、我に返る。
―俺は今、何をしようとしていた…?
ドクドクと心臓がうるさい。
嫌な汗がじんわりと手の平に滲む。
「い、いや。…なんでもない。」
動揺を隠し、手を除けようとする。
しかし、彼方の首筋の添えた日向の手は、彼方に上から覆われる。
「いいよ。…僕、日向になら、何されてもいいよ。」
凛とした、迷いのない声。
彼方は、日向が何をしようとしたのか、わかっていたのだろうか。
「な…何言って…。」
「このまま、力を入れて。」
日向の手を覆う彼方の手に、少しの力が籠る。
俯きがちで、表情の見えない彼方に、日向は恐怖を感じた。
「…っやめろ!こんなことするつもりじゃ…」
彼方の手から逃げるように、日向は両手を引く。
勢いで後退りする日向。
ゆっくりと振り向いた彼方は、少し悲しそうな顔でニッコリと笑った。
「…僕が要らなくなったら、日向の手で…殺してね?」
日向の手には、彼方の首の少し暖かい体温が、残っていた。