「広がる傷口」

 「広がる傷口。」



「どうしよう…。」

彼方は玄関に脱ぎ散らかっているハイヒールを見て、息を飲んだ。
この家でハイヒールを履く人間は一人しかいない。

間違いない。
母親が、帰ってきている。

「…夜までどこかで時間を潰そう。」

日向はそう言い、静かに玄関の扉を閉めようとする。

「でも…」
口ごもる彼方の服は海水で濡れ、砂がたくさんついていた。
こんな姿で、どこにも行けない。

玄関で立ち往生していると、ふいに、リビングの扉が開いた。
ゆっくりと顔を見せたのは、やはり、母親だった。

「…ああ、帰ってきたの。」

憎しみのこもった鋭い目と、冷たい声。
母親と目が合い、彼方は日向の手をギュッと握る。
日向の手も、少し、震えている気がした。

「話があるわ。来なさい。」

母親はそういうと、二人にリビングに来るように促す。

すっかり忘れていた、この恐怖。
しばらくは、二人だけの空間だったのに、母親が帰ってきた途端に、
ピリピリとした嫌な空気を感じた。

逆らったところで、自分たちにはいく場所なんて、ない。
二人は顔を見合わせて、恐る恐るリビングへと向かう。
日向の手を握ったままの彼方は、俯き、恐怖を隠しているようにも見えた。

リビングに入ると、嗅ぎ慣れた香水と、煙草と、アルコールの臭い。
机の上に散らかっているのは、いくつもの酒の空き缶。
昼間から酒を煽り、二人に暴力を振るう。
これが、日常茶飯事。

「話って…何…?」

日向が恐る恐る小さな声で問う。
聞いているのかいないのか、母親は煙草をふかしながら、
彼方の姿を、上から下までじっくりと舐めまわすように、見ていた。

「汚い子。まるでドブネズミね。」

吐き捨てるように、言う母親。
同時に吐き出される煙草の煙が、宙をクルクルと舞う。
びしょ濡れで、砂まみれの彼方は、肩を竦め、縮こまる。

「これは…ちょっと海で…。」

その声は、小さく消え入る。
俯く視線は泳ぎ、彼方は恐怖に、緊張しているようだった。

「まあいいわ。彼方はどっち?」

母親は、二人の見分けがつかない。
昔から、二人のお互いを呼ぶ様子を見て、なんとなく
どっちが日向か、どっちが彼方かを、判断しているようだった。
見分けがつかないというよりは、二人に興味なんてないのだろう。

「…僕。」

聞こえるか聞こえないか、ギリギリの小さな声で彼方が言う。
母親は彼方を睨み、近づく。

「昨日救急車を呼んだんですって?病院から連絡があったわ。
 何を考えているの。こんな田舎で救急車なんて呼んだら、ご近所さんに変な噂でもたてられるじゃない。
 私のところにまで連絡きたのよ?本当に迷惑だわ!」

イライラした様子で、母親は捲し立てる。
母親が近づいてきて、彼方は小さく震えていた。

「ご、ごめんな…さいっ…。」

「あれは…彼方が本当に苦しそうだったから…仕方なかったんだ!」

日向は、母親と彼方の間に割って入り、彼方を背で隠す。
自分の震える足を隠して、彼方を庇う。

「なにが仕方ないよ。ただの過呼吸でしょ。
 そんなの、ほっとけばいいのよ。死ぬわけじゃないんだし。
 まあ死んでくれた方が保険金も下りるし、私は助かるけどね。」

冷たい母親の言葉に、二人は口を噤む。
抵抗してはいけない。余計に拗れるだけだから。
ただ、黙って母親の暴言を聞いていれば、この地獄は、すぐに終わる。

「ホント、産まなきゃよかったわ。死んでくれたらいいのに。」

「…ごめんなさい…。」

母親の不機嫌な声と、彼方の消え入りそうな声。
日向は、早く母親が目の前からいなくなってしまないかと、願った。

「あの人と同じ顔が二つも揃って…、気色悪いわ!」

母親は日向を突き飛ばす。
机に背中をぶつけ、鈍い痛みが走る。
構わず母親は、何度も何度も二人に暴行を与える。

いつも通りだ。
腕に、足に、腰に、背中に、胸に、また痣が増えていく。
ただ黙って耐えていれば、母親はすぐに飽きてまた何処かへ行く。
その時までの辛抱だ。

ふいに、母親は暴行で日向の乱れた制服の首筋を、ジッと見つめる。
その首筋の絆創膏を乱暴に剥がし、傷跡をなぞる。

「なによこれ!一丁前に彼女でもいるわけ!?
 生意気なのよ!あなた達ばっかりっ…!!」

傷跡に母親の長い爪が食い込み、血が滲む。
鋭い痛みに、日向は顔をしかめた。

「…っ!」

「違うよ!それは僕がっ…!」

二人を見て、彼方が叫ぶ。
その言葉に、母親は、一瞬何を言われたのかわからないというような、表情を見せた。

「…あなた達…男同士で…?…っ気持ち悪い!
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!普通じゃないわ!何を考えているの!?」

母親は発狂した様子で、物を壊し、日向を殴り、彼方を殴った。
日向も彼方も、否定はせずに、ただ黙って、その暴力を受け入れた。

「気持ち悪い…っ!」

「信じられない…っ!」

「産まなきゃよかった…っ!」

「死んでしまえばいいのに…っ!」





そんな言葉を繰り返し、虐待は、いつもより長く続いた気がする。


体中が、痛い。
二人は、久しぶりの暴力に、身も心もボロボロになった。
母親が出ていた部屋は、荒れ果てて、壊れた家具や物が散乱していた。

「…彼方、大丈夫か?」

隣で泣きじゃくる彼方は、幼い子供のように、身を小さく縮こまっていた。
大丈夫かと聞いても、大丈夫なわけはないのだけれど、
それ以外に、かける言葉がみつからない。

「日向…っ。…ごめんっ。…僕があんなこと…言わなかったらっ…。」

まだ止まらない涙は、悲しいのか、痛いのか、辛いのか、苦しいのか。
日向はもう、そんなことを思う感情なんて、なくなっていた。

「大丈夫だから。…お前は早くシャワー浴びて来いよ。」

「ん…。」

日向は、顔を伏せてしゃがみ込む彼方の頭に軽く手を添え、優しく撫でる。
湿ったままの髪は、いつものように絡みついてはこなかった。
しばらく黙って彼方の頭を撫でていても、
彼方はしゃがみ込んだままだった。

「おい…本当に大丈夫か?」

「…ん、…ちょっと…苦しいっ…。」

よく見れば、彼方は胸に手を当て、荒く息を吸おうと、肩が上下していた。

―…発作?

どんどん息が荒くなる彼方に、日向はどうしたらいいかわからず、戸惑う。
彼方は苦しそうに、ただ荒い呼吸を繰り返している。
過呼吸だ。

「救急車、呼ぶか?」

冷静を装って、震える声で日向が聞く。
彼方は苦しそうにしながらも、弱弱しく首を左右に振った。

「…だ、ダメ…だよ…。また…怒られ、…ちゃう…から…っ。
 それに…ほっとけばっ、…いいって…母さんが…っ。」

「あんな奴の言うことなんて、信じるなよ!」

こんなに苦しそうにしながらも、母親のことを気にする彼方に、
日向はつい、声を荒げてしまう。

「だ…、だいじょ…ぶ、…だから…っ。
 この前のも…っ初めてじゃ…ない…から…。」

片手で胸を押さえ、片手で苦しそうに口元を覆う彼方。
苦しそうな呼吸で途切れ途切れの言葉を紡ぐ。

「え…?」

「さん…っかいめ…だから…っ。だい、じょ…ぶ…だからっ…。」

日向は、自分の知らないところで、彼方が過呼吸を起こしていたことに、驚きを隠せなかった。
その時も、たった一人で耐えたのだろうか。
自分より少し大きな背中が、何故かとても小さく感じる。

「…どうしたらいい?どうしたら楽になる?」

大丈夫だと繰り返す彼方に、自分にも何かできることはないのかと、日向は問う。
しゃがみ込み、彼方の顔を覗くと、苦しさで涙が溢れていた。

「…だ…きし…っめて…。おねが…い…。」

その言葉に、日向は正面から彼方の体を、両手ですっぽりと包み込む。
そして優しく背中を撫でる。
ほんの少し、彼方が安心したような顔をした気がした。
荒い呼吸を繰り返しているせいか、彼方の体温は、とても熱い。

日向が彼方を抱きしめても、彼方は変わらず苦しそうな呼吸を続ける。
日向は不安に思いながらも、
何度も何度も、彼方の背中を撫で続けた。
震える声で、何度も何度も彼方の名を呼んだ。



しばらしくて、彼方の呼吸が、ゆっくり、ゆっくりと、落ち着いてくる。
また少し荒っぽい呼吸の彼方は、脱力して完全に日向に身を預けるような形になった。

「彼方…?大丈夫…か?」

「日向がいてくれるなら…、僕は…大丈夫だよ…。」

その言葉で、

ほら、

また、

こうして、

離れられなくなる。

麻丸。
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麻丸。

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