「終わりの足音」
「終わりの足音」
白い天井。
病院で見た景色とはまた少し違う、狭くて圧迫感のある空間。
彼方は保健室の奥のベッドに横たわっていた。
本当は学校になんて行きたいないし、
学校に来たら、誰かが日向を奪おうとするのを見てしまいそうで、
日向を手放さないために、また誰かを傷つけてしまいそうで、怖かった。
そして、先週の事件が噂になっているんじゃないかと、不安だった。
もし百合が喋ったら、
もし亮太が喋ったら、
もし将悟が喋ったら、
自分は疎外されてしまう。
間違ったことをしてしまったのは、自分だ。
それはわかっている。
自分には日向だけがいればいいけれど、
大勢の人の、悪意のある好奇の目に晒されるのは、嫌だった。
そんな日向も最近、自分から離れようとしている。
必死で繋ぎとめようとしても、戸惑う日向の顔が浮かぶ。
日向はきっと、一人でも生きていける。
料理もできるし、洗濯も、掃除だって得意だ。
少し口下手だけれど、手先も器用だし、優しい。
そんな完璧な日向は、自分がいなくても、生きていける。
自分は、日向がいないと生きていけない。
不器用で、ワガママで、嫉妬深くて、弱くて狡い。
何もない自分が、日向にしてあげられることなんて、何一つないのだ。
ただ、泣いて縋ることしか、できないのだ。
―ちゃんとお互いの幸せを考えろって‐。
日向に言われたことを思い出す。
自分の幸せは、ただ、日向とずっと一緒にいることだ。
それ以外に、考えられない。
それ以外が、幸せだとは、思えない。
じゃあ日向の幸せは?
日向の幸せは何だろう。
自分と、ずっと一緒にいる道を、選んではくれないのだろうか。
日向は、自分のことを捨てて、一人で歩いていくのだろうか。
思い返せば、ずっと「普通」に憧れていた。
自分たちが置かれている環境が「異常」だとわかっていたからこそ、
同級生の前では「普通」の生活を送っているように、
嘘を吐き続けていたのは自分だ。
きっと日向も、そんな普通の生活に憧れているんだ。
だから、自分と離れようとしているんだ。
日向の口から、大学、就職、結婚、子供なんて言葉を聞くたびに、
胸が締め付けられるように、苦しくなる。
それは発作の前兆に、よく似ていた。
ああ、それとも自分が、こんな発作を起こすようになってしまったから、
面倒だと思われたのだろうか。
最近の日向は、あんまり笑わなくなった。
困った顔をすることが多くなった。
悲しそうな顔をすることが多くなった。
困らせたくないのに、悲しませたくないのに。
二人一緒にいれば幸せだと信じていたのに。
彼方はもう、日向を繋ぎとめておくことが、できないような気がした。
しかし自分は日向がいないと生きていけない。
日向がいない、自分の世界なんて、考えられない。
むしろ、そんな世界は存在しないのだろう。
きっと、自分は日向が離れていけば、死んでしまうしかないのだから。
そんなことを考えながら、
少し蒸し暑い、無音の保健室で、風に揺れるカーテンを見つめながら、
彼方は瞳を閉じた。
テスト中の静かな教室の中。
解答用紙を全て埋めた将悟は、開いている席を見つめ、考えていた。
どうやら高橋彼方は学校には来ているらしい。
しかし、テストが始まっても教室に姿を見せなかった。
高校三年の期末テストなんて、それはとても大事なテストなのに、
それも受けずに保健室にいるらしい。
テストが受けられないくらい体調が悪いなら、昨日のように休めばいいのに。
学校に来れるくらいに体調が良くなったのなら、多少無理をしてでもテストを受ければいいのに。
テストも受けないのに、学校に来ている。
―アイツ、何しに学校来たんだ…?
あの事件があって気まずいのは、わかる。
けれど、進学に関わる大事なテストを受けないのは、おかしい。
テストを受ける気もないのに、学校に来たのだろうか。
だとしたら、何故だ。
何か理由があるのだろうか。
学校に来てテストを受けない理由。
いや、家にいられない理由だろうか。
親は心配するだろうし、学校に行かせたがるだろう。
だからとりあえず、学校に来るだけ来たのだろうか。
だが、それだけだろうか。
―何かが、噛み合わない気がする。
そう思いながら、日向の背中を見つめてみる。
少し猫背の丸い背中が、いつもより、さらに丸まっている気がした。
日向は、ペンを走らせる手を止めて、静かに窓の外を見ていた。
伸びた髪が風に揺れて、なんだか寂しそうな背中に見えた。
そういえば、二人は将来のことを決めたのだろうか。
日向には、キツイ言い方になってしまったが、ちゃんと忠告はした。
彼方は、それをどう思っているのだろう。
二人はどんな会話をしたのだろう。
どんな未来を描いたのだろう。
考えても、答えは出ない。
ふと、隣を見ると、亮太は幸せそうな顔で、涎を垂らして寝ていた。
将悟は小さくため息を吐いて、見なかったことにした。
そしてテストが終わる。
HRの終了と同時に、将悟は立ち上がり、教室を出ようとする。
「あれ?将悟どこ行くんだ?」
いつもはHRが終わっても亮太とダラダラと喋っているため、
廊下へと向かう自分を珍しそうに見ていた。
「あー…便所。」
少し考えた後、顔を逸らして下手な嘘を吐く。
「すぐ戻るから、付いてくんなよ。」
「うんこ?うんこ?なあ、うんこか?」
「ちげーよ、アホ。」
小学生男子のように、嬉しそうに下品な言葉を連呼する亮太。
将悟はそんな亮太を気にせず、教室を出た。
「なあなあ、日向って彼女作らねえの?」
将悟を見送った亮太は、目の前の席の日向に話しかける。
日向は鞄に荷物を詰め込み、帰ろうとしていたところだった。
「…どうだろうな。…今は、あんまり考えられない。」
その少し素っ気ない返事に、亮太は驚いた。
前までは「彼方がいるから」と呪文のように繰り返していたのに、
今の日向は、彼方の名前は出さなかった。
日向は、変わろうとしているのだろうか。
「じゃあさ、どんな子が好み?」
日向は、白く長い指を顎に添え、首をかしげる。
少し考えるような素振りを見せた。
「…俺はあんまり喋らないから…、
明るくて、よく喋る子。よく笑う子…とか?」
それはまるで―、
―百合ちゃんだ。
「…な、なんか…彼方みたいだな。」
亮太の頭によぎったのは、明るくて、よく喋り、よく笑う、百合のことだった。
しかし、日向は、百合が日向のことが好きなのを、知らない。
自分が百合のことを好きなのも、日向は知らない。
ここで百合の名前を出せず、彼方の名前を言ってしまう。
彼方だって、日向の前では明るく、よく喋り、よく笑う。
彼方と百合は、少し似ている気がした。
しかし、彼方の名前を出したとき、
日向の表情が少し、驚いたように口を開けたのを、亮太は見逃さなかった。
「…そんなことない。」
無意識だったのか。
日向は、少し戸惑って、視線を逸らす。
「じゃあさ、もし…明るくて、よく喋って、よく笑う子で、
日向のことが…好きだって子がいたら、どうする?」
聞いたところで、どうにかなるわけではないけれど、
亮太は日向の気持ちが、知りたかった。
百合の気持ちに、自分の入る隙間はないとわかっていても、
わかっているからこそ、日向の答えを、聞きたかった。
「…そんな子、いるわけないだろ。」
日向は、困ったように小さく笑った。