「裏切りの決意」

 「裏切りの決意」


二日目のテストも終わり、HRの終わりを告げるチャイムが鳴る。
廊下の外からは、帰路に着く生徒たちの、少し騒がしい声が聞こえ始めていた。
彼方は相変わらず、保健室のベッドに身を沈め、窓の外を眺めていた。

窓を開けていても、夏の日差しが余計に暑さを感じさせる。
日向くらいしか、自分に会いに来る人間はいないだろう。
そう思った彼方は、上着を脱いで、長袖のシャツの袖を肘まで捲っていた。
袖から覗く自分の腕には、醜い痣がたくさん残っている。
紫色に変色した、まだら模様の腕。

―今日も、お母さんが家にいるのかな。

家に帰るのが憂鬱になる。
けれど、学校にもいたくない。
どこか遠くへ、行きたい気分だ。
いっそ、消えてしまおうか。



そんな馬鹿なことを考えていると、保健室の扉を開ける音がした。
保健室の先生だろうか。それとも日向か。
申し訳程度のカーテンの仕切りで、こちらからはその人物が見えない。
彼方は捲っていた袖を戻して、起き上がる。

その人物は静かに、真っ直ぐにこちらに歩いてきた。

「高橋。」

迷いなくカーテンを開けて、顔を出した人物は将悟だった。
その金の髪が太陽に反射して、キラキラと輝いていた。

「…中村君?」

意外な来客に、彼方は少し身を強張らせ、シャツの袖のボタンを留める。

「…何の用?」

警戒しているように、彼方は自分の袖をギュッと握りしめる。
将悟は構わず、彼方が座るベッドに腰掛ける。

「お前さ、何がしたいわけ?」

顔だけを彼方に向けて、真っ直ぐ見つめる将悟。
その声は、少し苛立っているようだった。

「…何って…何が?」

なんとなく、察しはついていた。
けれど彼方は、問うことしかできなかった。

「アイツにべったりくっついてると思ったら、
 アイツに好意を寄せる女に乱暴したり、
 やっと学校来たかと思ったら、テスト受けずに保健室でサボり。
 お前は何がしたいわけ?アイツをどうしたいわけ?」

将悟は、捲し立てるように言う。
アイツとは日向のことだろう。
刺さるように、真っ直ぐ見つめる将悟の視線が、痛かった。

「そんなの…中村君には関係ないじゃん。」

「関係なくはないだろ。あの日から、俺も巻き込まれてんだよ。」

将悟の鋭い瞳が、彼方を映して離さない。

「…中村君が、勝手にそう思ってるだけでしょ。」

吐き捨てるように言う。
彼方は将悟の目を見ていられずに、顔を背ける。

「お前はアイツのなんなの?恋人ごっこのつもりか?
 ご丁寧に、あんな見えやすいところに噛み跡まで付けて。」

「…っなんで知って…」

「独占欲で自分のモノってアピールか?お前、アイツをどうしたいんだよ。」

戸惑う彼方を、将悟は鼻で笑う。
どうしたい、だなんて、明確に答えられるわけがない。

「なんだっていいでしょ…。日向は…僕のだよ…。」

消え入りそうな彼方の声を掻き消すように、将悟は強く言う。
ブレることのない真っ直ぐな瞳が、苦しい。

「そんなわけねえだろ。アイツは誰のものでもない。」

「違う…。日向は、僕とずっと一緒にいるんだ。今までも、これからもっ…!」

呼吸が、苦しいような気がした。
否定されるのが、辛い。

彼方は自分を落ち着けるように、胸元に手を当てる。

「アホか。ずっと一緒にいられるわけねえだろ。
 人は変わる。変わっていかないといけないんだよ。
 お前だって、アイツだって変わっていくんだよ。
 お前の言ってるのは、ただのガキの夢物語だ。
 ずっと一緒になんて、いられないんだよ。
 お前は、…アイツと離れるべきだ。」

嫌な感じだ。思考がぐるぐると回る。
自分に向けられている言葉が、確かに聞こえているはずなのに、
理解が、できない。

「そんなんで、お前これからどうするつもりなんだよ。
 いつかは、…一人で生きていかないといけないんだぞ?」

「…っ!」

呼吸が、浅くなる。

ふいに、保健室の扉が開いた音がした。
誰か来たのだろうか。

視界が、霞みがかって見えているような感じがする。
また、この感覚だ。

「彼方…と中村?…何やってるんだ?」

カーテンを捲って現れたのは日向だった。
自分を迎えに来てくれたのだろう。
日向は、彼方の横に座る将悟に、意外そうな顔をした。

「…ちょっと話してただけだ。」

将悟が日向の方を向き、小さく言う。
日向が彼方の方を見ると、彼方は少し苦しそうに、胸に手を当てていた。

―まさか、過呼吸…?

「日向…っ、帰ろう…。」

彼方は少し苦しそうに口元に手を当てて、立ち上がる。
呼吸が少し荒い。額からは、汗が少し流れていた。

「彼方…大丈夫か?」

その様子に気付いた日向は、彼方に駆け寄る。
発作を必死で押さえているようだった。

「大丈…夫…だから…っ。」

そう言いながら、彼方は足元がふらつき、ベットに手をついてうずくまる。

「彼方…っ!」

「おい、どうしたんだ…?」

過呼吸だ。
彼方は、肩を上下させて、苦しそうに荒い息を繰り返す。
日向も将悟も、心配そうに彼方に声をかける。

「はあっ…はぁっ…。」

「彼方…っ!大丈夫か…っ!?」

彼方はただ、荒い呼吸を繰り返すだけだ。
日向は、彼方の背中をさすることしかできない。

「…過呼吸か。」

将悟はそんな彼方の様子を見て、少し考えた後、冷静に日向に言う。

「おい、ハンカチとかタオルとか、持ってるか?」

「なんで…そんなもの…?」

「いいから、早く。」

日向は戸惑いながら、自分の鞄からハンカチを一枚将悟に差し出す。
将悟はハンカチを受け取り、迷わず彼方の口元をハンカチで覆う。

「いいか?息を吸うんじゃなくて、吐くことに集中しろ。ゆっくりでいいから。」

「えっ…?…はぁっ…、はぁっ…。」

冷静に言う将悟に、彼方も戸惑いつつ、
将悟の言うとおりに、呼吸を吐き出そうとする。
しかし、なかなか上手くいかないのか、荒い呼吸は続く。

「ゆっくりでいいから。大丈夫だから。」

将悟は、彼方を落ち着けようと、声をかけ続ける。
その声は、心なしか、優しい気がした。

しかし、日向はただ、黙って見ていることしか、できない。
何もできない自分が悔しいというより、ただただ、戸惑うだけだった。

「そうだ。腹に力入れて、ゆっくり息を吐け。」

少しずつだが、徐々に彼方の呼吸が安定してくる。
いつもよりも、発作が治まるのが早い気がした。
将悟の適切な処置のおかげだろうか。

しばらくして、彼方の呼吸は完全に落ち着いた。

「…なんで…こんなこと…。」

自分を助けるような素振りを見せた将悟に、戸惑いを隠せない彼方。

「…そういうつもりじゃなかったんだ。…悪かったな。」

将悟は素っ気なくも、申し訳なさそうに、彼方に謝る。

冷静な判断、適切な処置。
日向には、将悟が過呼吸の処置に慣れているように見えた。
何もできない、日向と違って。

「中村…なんでこんな方法知ってるんだ…?」

「…別に。…慣れてるから。」

将悟は言いたくなさそうに、顔を背けて立ち上がる。

「まだ少しふらつくだろうから、ちょっと休んでから帰れよ。…じゃあな。」

そのまま振り返りもせずに、保健室を出ていく将悟。
二人はその背中を無言で見送る。


「…中村と、何話してたんだ?」

「別に…なんでもないよ。」


そう言って口を噤んだ彼方は、俯いて何かを考えているようだった。







将悟がトイレに行き、日向が帰った後、
亮太は一人残された教室で、百合からの手紙を握りしめていた。
中身を見るのが、怖いような気がして、
開封せずに、ただ見つめることしかできなかった。

開けてしまえば、何かが変わってしまうような気がしていたから。

百合はきっと、今でも日向のことが好きなのだろう。
彼女は真っ直ぐで、強い人間だ。
ブレることがない、素直な人間だ。

百合の気持ちは知っている。
だからこそ、自分は黙って見守ろうと決めたのだ。
彼女が幸せになるならば、この気持ちに蓋をできると、思っていた。

この手紙には、何が書かれているのだろう。
見たいような、怖いような気持ちになる。
知りたい。けれど、知りたくない。
矛盾した感情が渦巻く。

―このまま、何も変わらなければいいのに。

しかし、将悟に渡したということは急ぎの用事ではないだろうか。
亮太は手紙を見つめ続けて、長い時間が経っているような気がした。

いつまでもこうしてはいられない。
亮太は震える指で手紙を、丁寧に開ける。

そこには便箋が一枚、几帳面に折られて入っていた。
可愛らしい星を模った便箋。

その便箋には、短い一言だけが、綺麗な字で書かれていた。





―「明日の朝、図書室で待っています。」







麻丸。
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麻丸。

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