「本当の思いと本当の気持ち」
「本当の思いと本当の気持ち」
早朝の図書室には、相変わらず誰もいなかった。
亮太は、眠い瞼をこすり、机に伏せっていた。
結局二日ともテストは全滅。
最終日の今日も、勉強なんて集中できなくて、教科書は手つかずのまま、
無心でゲームを操作して一夜を明かしていた。
あれほど開くのを躊躇った手紙は、たった一行しか書かれていなくて、
そのシンプルすぎる一言からは、百合の気持ちなんて全然伝わって来なくて、
ただただ、不安に駆り立てられた。
早朝の静かな図書室には、音などなくて、空虚な何もない空間に思える。
自分は、百合の恋路を応援していたはずだ。
けれど、真っ直ぐに日向を見つめる百合に、どうしようもなく惹かれてしまった。
百合が日向とくっつけば良かったと思えたはずなのに、
今は自分の気持ちが、それを邪魔しようとする。
亮太は、百合も日向も大事だ。
大事だからこそ、この感情に蓋をしなければならない。
そう思うけれど、自分はそんなにできた人間ではない。
でも、二人とも失いたくはない―。
そんなどうしようもない気持ちが、ぐるぐると渦巻く。
将悟には強がって見せたが、一人になってこんなことを考えていると、
自分の決意なんて、ちんけなものだと思った。
軽率に告白したところで、百合との関係、日向との関係が壊れるのも怖い。
それに、きっと百合には振り向いてもらえない。そんなことも、わかっている。
亮太は、今朝から何度目かわからないため息を吐く。
窓から見える夏の空は高く、まるでどこまでも続いているように見えた。
手を伸ばしたところで、届くはずもない―。
そんな感傷に浸っていると、ふいに図書室の扉が開く。
「あ、おはようございます。早かったですね坂野先輩。」
いつもと変わらない、百合の明るい笑顔。
夏の暑さのせいか、長い髪は後ろで一つに纏めていた。
亮太は髪を結んだ百合を見て、新鮮で、可愛らしいと思い、見とれてしまう。
「どうしたんですか?口、開いてますよ。」
口を開けて黙ったままの亮太を見て、
百合は可笑しそうに口元を上品に手で覆って笑う。
その言葉に我に返った亮太は、恥ずかしそうに両手を横に振り、
わざとらしく取り繕って見せる。
「いや、なんでもないっ!ホント、なんでもないからっ!」
「相変わらず、坂野先輩って変ですよねえ。」
そんな亮太を見て、百合は笑ったまま、
机に鞄を置き、亮太の向かいの席に腰かける。
「っていうか…その、もう…大丈夫なのか?」
亮太は少し言い辛そうに、百合から目を逸らして問う。
百合の目は、真っ直ぐ亮太を見据えていた。
「…大丈夫か、大丈夫じゃないかって聞かれたら、大丈夫ですよ。
私、結構図太いんです。だから、平気です。」
百合の凛とした声が静かな図書室に響く。
その声は、芯が通っていて、真っ直ぐだった。
「…無理してない?」
亮太の、百合の身を案じる言葉に、百合は顔色一つ変えずに、語る。
「ええ。あんなことがあって、傷ついたというよりも…、
私、腹が立ったんです。」
「腹が立った?」
「日向先輩じゃないって見抜けなかった、自分自身に。」
吸い込まれてしまいそうな、真剣な百合の瞳。
「あの時は、勝手に舞い上がって、日向先輩じゃないって気付けなかった。
ただ遠くから見つめて、同じ本を読んで、
勝手に日向先輩のことを、わかったつもりでいた自分に、腹が立ったんです。
そんなの…あまりにも日向先輩に失礼じゃないですか。」
「百合ちゃん…。悪いのは、彼方だろ?」
亮太は、彼方ではなく、自分を責める百合に、戸惑う。
「…あの人に悪意があったとしても、好きな人を間違えた私が悪いんですよ。
だから今日、ちゃんと日向先輩に告白しようと思うんです。」
その言葉に、亮太の心が揺れる。
応援してきたはずなのに、胸が締め付けられるようだった。
「あんなことがあった後なのに…?」
「誰に何をされようと、何を言われようと、私が好きなのは日向先輩です。
それは今でも変わりません。」
凛とした声は、揺らぐことがなく、真っ直ぐに亮太の耳に入ってくる。
「私は、自分の気持ちにだけは、嘘を吐きたくないんです。」
真っ直ぐな目。
百合には迷いなど、ないのだろう。
「…そっか。応援、してるよ。」
心にもない言葉を口にする。
本当は百合の恋愛成就を願っていたはずなのに、
その言葉を発するのは、少し気が引けた。
「まあでも、きっとフラれちゃいますけどね。」
そう言いながら百合は困ったように笑う。
「そんなの、わかんないだろ?」
先程までの自信に満ち溢れた百合とは違い、
少し弱弱しく目を伏せる。
「…わかりますよ。日向先輩は優しい人だから。
あんなことがあった後だからこそ、引け目を感じて、
私の気持ちには答えてくれないと思うんです。」
悲しそうに笑う百合が、とても儚く見えた。
束ねた長い黒髪も、寂しそうに揺れる。
「百合ちゃんは、それでいいわけ?」
「はい。…フラれるのはわかっていますけど、でも、
ちゃんと自分の口で伝えないと、私が前に進めないんです。」
亮太は、そんな悲しみを堪えて健気に笑う百合が、強い少女だと思った。
その小さな体を、気高い心を、守ってあげたい、とさえ思った。
けれど、そんなことを思っても、自分に百合を守る資格なんてない。
「…百合ちゃんは強いな。
俺は、フラれるのをわかってて、告白なんかできないや。」
「それは…坂野先輩も、好きな人いるんですか?」
聡い百合は、亮太の言葉の裏を汲み取り、
興味深々といった様子で亮太を見つめる。
「…うん、まあな。でも絶対叶わないって…わかってるから。」
目を逸らす亮太に、百合は身を乗り出すようにして、諭そうとする。
「そんなの…わからないじゃないですか。
ちゃんと自分の気持ちを相手に伝えないと、わからないじゃないですか!
勝手に相手の気持ちを決めて、諦めるなんて、どうかしてますよ。」
百合の真っ直ぐな瞳に飲み込まれそうになる。
「自分の気持ちに嘘ついて隠し通しても、きっと一生後悔します。
そんなの…坂野先輩の気持ちが可哀想です。」
「百合ちゃん…。」
―…後悔すんなよ。
真っ直ぐな百合の言葉。
ふいに、将悟の言葉を思い出す。
―きっと、今伝えないと、後悔する。
亮太は深呼吸をするように、ゆっくりと大きく息を吐く。
そして、百合に向き合う。
「俺の好きな人はさ、小っちゃくて可愛くて、意外と強気なんだけど、
ちょっとマヌケなところもあって、そこがまた可愛くてさ、
真面目で、真っ直ぐなくらい素直な子なんだ。」
情けなくも、声が震えそうになる。
緊張で手の平にじんわりと汗をかく。
そんな自分を奮い立たせるように、真っ直ぐに百合を見つめる。
「百合ちゃん、俺…百合ちゃんのことがっ、…好きだっ…。」
好きだと口に出した瞬間、急に恥ずかしくなり、目を伏せてしまう。
膝の上で握った拳が、わずかに震える。顔が熱い。
緊張と恥ずかしさで、きっと今の自分の顔は、真っ赤になっているのだろう。
情けないほどの不安で、恥ずかしい顔をしているのであろう。
そんな顔を、百合には見られたくない。
亮太は、俯き、静かに、百合の言葉を待つ。
「え…?嘘…。」
百合は口をポカンと開け、言葉もろくに出ないくらいに驚いているようだった。
しばらくの沈黙の後、亮太が口を開く。
「百合ちゃんは日向のことが好きだって、ちゃんとわかってる。
だから、返事はいらないし、二人の邪魔をする気もないから。
でも、…でも、もし、できたら…今まで通り接してほしい。
…なんて、無理だよな?」
勝手なことを言っているのは、わかっている。
笑われても仕方ないくらい、情けないこともわかっている。
この想いが叶わないことも、ちゃんとわかっている。
それでも、百合の口から否定の言葉が発せられるのが、怖かった。
亮太の切なそうな表情を見て、百合は平静を取り戻すように、静かに口を開く。
「…私、これでも坂野先輩には感謝しているんですよ。
きっと坂野先輩がいなかったら、
私は日向先輩に、告白しようとなんて思わなかったと、思うんです。
日向先輩が私を選んでくれるなんて、思えなかったから。
何も言わずに、ただ見つめるだけで、自分の気持ちに蓋をしようと思っていました。」
百合はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、坂野先輩がいたから、私は前へ踏み出せたんです。
坂野先輩が私の背中を押して、相談に乗ってくれて、私を…助けてくれて。
それが、すごく、嬉しかった。私は坂野先輩に、救われたんです。
だから、これからも…私の相談のってくださいね。」
そう言った百合は、清々しいほどの笑顔で、
紡ぎだされた言葉は想像よりも遥かに優しいもので、
亮太はその笑顔に見蕩れた。
―ああ、そんなこと言われたら、もうどうしようもないな。
将悟が教室に入り、自分の席に向かうと、昨日と同じように亮太が机に伏せていた。
―まーた徹夜でゲームかよ。
そう思いながら、亮太に声をかける。
「おはよ。また徹夜か?」
その声に、亮太は静かに顔を上げる。
「亮太?」
いつもと少し様子が違う亮太に、将悟は心配そうに顔を覗き込む。
その顔は、徹夜で疲れているというよりも、どこか落ち込んでいるように見えた。
「…フラれてきた。」
「は?」
「百合ちゃんに。」
目を背けたまま、亮太が切なそうに呟く。
「告ったのか?」
「…おう。」
「困らせたくないとか、言ってたくせに。」
「お前だってこのままでいいのかよ、とか言ってただろ。」
「まあ、な。…とりあえず、お疲れ。」
短い言葉を交わしながら、将悟は席に着く。
ため息を吐きながら遠くを見つめる亮太。
いつもの底なしの元気な姿は、なかった。
亮太が落ち込んでいると、なんだか自分も落ち着かない。
強がっていても、百合に向けた気持ちは本物だったのだろう。
将悟は小さく呟く。
「そんなすぐに忘れられるものでもないし、今はそのままでいいんじゃね?」