「雲を掴むように」

 
 「雲を掴むように」



百合と別れて、図書室の施錠をして飼育小屋に向かう。
今日一日ほとんど彼方と会話を交わしていない。
彼方からは声をかけてこないし、自分が話しかけようとしても、
いつの間にか何処かへ行ってしまってたからだ。

明らかに避けられている。
髪を切って茶髪にしてから、彼方は変わってしまった気がした。
自分の知らない彼方になってしまった。
彼方が、何を思って、何がしたいのか、日向には全然わからなかった。

校舎を出て、角を曲がる。
その先の隅に、飼育小屋がある。
いつもは、そこで兎を抱きながら、彼方が待っている。
自分が迎えに来るのを、嬉しそうに待っているはずだ。

しかし、角を曲がると、彼方は女子生徒に楽しそうに笑いかけていた。
その少女はニコりとも笑わずに、クールな表情のまま、彼方の話に素っ気なく相槌を打つ。
髪の短い、少し大人びた細身の少女。

「あ、日向。遅かったね。」

また告白でもされているのか。
いつもは彼方がそれを断るため、女子生徒は悲しそうな顔をする。
しかし、二人で楽しそうに話す姿は、告白には見えなかった。
ただ普通に話しているだけだろうか。

「でも、ごめん。もうちょっとかかるから、先帰ってて。」

「…ああ。」

そう頷き、日向は飼育小屋から離れる。

いつも一緒に帰るのに。
彼方が「先帰ってて」なんて言ったことなんて、なかったのに。
楽しそうに誰かと話していても、自分が迎えにくれば、自分の方にくるはずなのに。
彼方が、自分よりも他の誰かを優先することなんて、なかったのに。

彼方が女子生徒と楽しそうに話している姿は、よく見ているはずなのに。
何かが、いつもと違う気がした。


自分の想いだけ、空回りしているように感じた。


一人で歩く帰り道は、今日はなんだかとても寂しくて、
夕日で伸びた影が、自分のことを嘲笑っているように見えた。

百合も、こんな気持ちだったのだろうか。
想いが叶わない苦しみは、こんなにも辛く、苦しいものなのか。

彼方の考えていることが、わからない。
同じ世界で、同じ夢を見て、同じ未来を想っていたあの頃とは違う。

世界が歪んでいく。
そんな気がした。



家に帰って洗濯機を回し、夕食の下ごしらえをする。
彼方がいない家は、ずいぶんと静かだ。

母親も一昨日帰ってきて以来、姿を見せていない。
母親が帰ってこないことは嬉しいが、静まり返ったこの部屋は、一段と孤独を加速させる。

ちゃんと彼方と話をしなければ。
彼方何を感じ、何を思い、何を考えているのか。
何も言わなくても分かり合えていた、あの頃とは違う。
ちゃんと言葉に出して話をしないと。
彼方を分かりたい。理解したい。受け入れたい。

いつも感情を出すことを諦めて、彼方に守られていた。
何も言わなくてもわかってくれる、彼方の優しさに、甘えていた。
でも、それでは駄目だ。ちゃんと自分から、歩み寄らなければ。
想いを口にしなければ、きっと伝わらない。


軽快なリズムで玉ねぎを刻む。

―今日はハンバーグにしよう。

彼方は子供のような味覚だ。
朝は和食が好きだけれど、夜はカレーやオムライスやエビフライが好き。
ハンバーグもデミグラスソースでたっぷり煮込んだものが好き。
お弁当には唐揚げや卵焼きやポテトサラダを入れると喜ぶ。

彼方の好物を作って、ゆっくり話をしよう。



食事が出来上がり、夜になっても彼方は帰って来なかった。
日向は食卓に食事を並べ、彼方が帰ってくるのを、ただ黙って待っていた。






目を覚ます。
どうやら、あのままリビングで寝てしまったようだ。
肩にはブランケットがかけられていた。
机の上の食事は、彼方の分はなく、台所を見ると、綺麗に皿が洗われていた。

―彼方…帰ってるのか…?

まだ寝ぼけた頭を働かせ、自分の分の食事にラップをかけて冷蔵庫にしまう。
今は食欲がない。

部屋に行けば、彼方が壁の方を向いて眠っていた。
最後に時計を見たのは、日付が変わる前くらいだっただろう。
そんな時間まで、彼方はどこで何をしていたのか。

自分に、会いたくなかったのだろうか。
自分と、話したくなかったのだろうか。
そんなに、避けられているのだろうか。
すやすやと寝息をたてる彼方は、何を思っているのか。

壁の方を向いて寝るのは、いつも「寝言」を言う時だけだ。
いつもは向かい合って、寄り添って眠るのに。

ベッドに腰掛け、短くなった彼方の髪を指で梳く。
少し痛んだその髪は、自分の指に絡まることはなかった。
いつものように、甘えるように絡みついてはこなかった。

自分の首筋には、彼方に噛まれた傷が、まだ痛々しく残っているのに。
傷をつけた張本人は、まるでそれを忘れたかのように、振る舞う。

その傷口に触れてみる。
痛みは、もうない。
カサブタのザラザラとした感触だけが指に残った。

まるでその傷は熱を帯びているようで、
ズキズキと胸が痛んだ。

寄り添うだとか、甘えるだとか、
恥ずかしくて、情けなくて、自分からはできない。
彼方のように、恥ずかしげもなく、
そんなことをするなんて、自分にはできない。

しかし、今日だけは、静かに眠る彼方に抱き付くように、その体に両手を回す。
触れる体温は心地いいほど暖かく、けれど、とても遠くに感じた。

そのまま彼方を離さないように、両手に力を込めて目を瞑る。
朝起きたら、一番に「おはよう」と言えるように。








朝日が昇るより先に目を覚ます。
起き上がろうとすると、体に妙な違和感を感じる。
日向が、自分を抱きしめて眠っていた。
昨日の夜はリビングで自分の帰りを待ちながら、
座ったまま眠ってしまっていたのに。

抱きしめる腕は強く、まるで縋りついているようだった。

日向から自分にくっついてくるなんて、珍しい。
いつもは自分が甘えて、日向にくっついているのに。
それを嫌な顔一つせずに、受け入れてくれていた。

静かに眠る日向の髪に触れてみる。
伸びきった黒髪が、指に絡んだ。
自分の傷んだ髪とは違い、素直な真っ直ぐな髪。

半開きの唇が、妙になめまかしく見える。

―ああ、キスしたい。

そう思ったが、首を横に振り、理性を留める。
そのまま、そっと起こさないように、日向の腕を解き、
ゆっくりとベッドから降りて、静かに部屋を出る。

胸が裂けるように痛い。

それでも、

もう、日向の優しさに甘えるわけには、いかない。








朝になって目覚めたら、隣に彼方はいなかった。
彼方が眠っていた場所は、とうに冷たくなっている。
この腕で、しっかりと抱きしめていたはずなのに。
空を掴む自分の手が、むなしく感じる。

起き上がって耳を澄ませてみても、物音一つしなかった。
彼方は、この家にはいない。

「…なんで…っ。」

あれほど好きだと言ったのに。
あれほど縋りついてきたのに。
あれほど繋ぎとめてきたのに。

心が、カラカラに乾いてしまう気がした。
錆びついた想いは、もう二度と、紡げない気がした。

―失いたくない。

祈るように手を組み、顔を覆う。

涙が、溢れてしまいそうだった。
こんなに弱い人間じゃない。
こんなに脆い人間じゃない。
そう思っていたのに、今の自分は、
びっくりするほどに、今すぐにでも、崩れてしまいそうだった。



リビングに降りてみても、彼方の姿はない。
トイレにも、風呂場にも、キッチンにも。
どこにも彼方の姿は見当たらない。

静まり返ったリビングには、彼方の脱いだ服が、綺麗に畳まれていた。
いつもは遠慮もなしに脱ぎ散らかすのに。
それを畳むのが、自分の仕事なのに。

知らないうちに、彼方が独り立ちをしていってしまう気がした。
自分の手を掴むことなく、離れていってしまう。
―そんな気がした。

彼方は凄い。
誰にでも、優しくできる。
誰とでも、仲良くなれる。
誰にでも、すぐ好かれる。
自分にないものを、たくさん持っている。

こんな自分と違い、彼方の周りには人がたくさん溢れている。
彼方の周りには、笑顔が溢れている。

きっと、彼方は自分がいなくても、生きていけるだろう。

自分の手を離したとしても、
彼方にはいろんな人の手が差し伸べられている。
その手を選ぶ日も来るだろう。
そして疑いもなく、その”誰か”と寄り添って、生きていけるだろう。

きっと、それが正しいのだ。
それが、彼方の望んでいた、普通の生活なのだ。
何一つ間違いがない、普通の人生なのだ。
そんなことは、わかってはいるんだ。
わかってはいるのに。

「…好きだ、って…言ってたじゃないか…。」

頭では理解しても、感情がついていかない。

じゃあ、どうして「好き」だと言ったのか。
どうしてキスなんて、してきたのか。
自分がいないと生きていけないと、泣きついてきたのは彼方だ。

こんなの、あまりにも身勝手すぎる。

なんて、まるでフラれた女のようなことを、考える。

女々しい。
情けない。
みっともない。
わかってる。

わかってる。

わかってる。



けれど、


今の自分には、


彼方の考えていることが、まったくわからなかった。

麻丸。
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麻丸。

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