「お姫様には、なれないから」

 「お姫様には、なれないから」


朝方の海は静かだ。
波が、押しては引いて、ゆらゆらと揺れる。
ゆっくりと太陽が昇る水平線を眺めながら、
彼方は靴を脱いで、静かに波に足をつけてみる。
冷たい海水に流される砂が、足を掠めてくすぐったい。

―いつかの雨の日は、日向が助けてくれたっけ。

入水をしようとしたことを思い出す。

あの時は何も言わなかった。
どこへいくのか、何をするのか、何も言わなかった。

それでも、日向は必死になって、息を切らして、自分を探し出してくれた。
冷たい自分の体を抱きしめて、繋ぎとめてくれた。

こんな情けない、どうしようもない自分でも、
生きていてもいいのだと、言ってくれているような気がした。
日向だけが、自分を認めてくれていた。

だから、自分も日向のことを、大事にしようと思った。
誰に嫌われてもいい。日向に嫌われたっていい。
それでも、日向を大事にしようと思った。


目の前に広がる海は、広くて深い。
仄暗いその底には、まるでこの世界じゃない、何か別の世界が広がっているように思える。

海の底に沈んでしまえば、自分なんて、なかったことになるような気がした。
消えるとか、死ぬとか、そういうことじゃない。
きっとこの世界は、自分が見ている夢で、その海に沈めば、目が覚める。
その夢の世界に、自分が最初から存在しなかったことになる。

そんな世界だったらいいのに。

確かに今を生きている自分が、もどかしく、憎らしくさえ感じた。

自分がいなければ、日向が戸惑うこともなかった。
自分がいなければ、日向が苦しむことはなかった。
自分がいなければ、日向が悲しむことはなかった。

自分がいるから、日向が苦しむ。
だったら、自分なんていないほうがいい。
いないほうがいいのに。

―消えたくない。離れたくない。

どうしようもない気持ちが渦巻く。

自分はそんなに利口な人間じゃない。
駄目だと言われても、好きなものは好きだし、欲しいものは欲しい。
頭より先に、感情が動くタイプだ。
それが駄目だともわかってはいる。
けれど、人は、そんなにすぐには、変われない。

波が寄せては返す。
このまま自分を、攫ってしまってくれたらいいのに。
そのまま自分を、なかったことにしてくれたらいいのに。

辛い。苦しい。消えたい。死にたい。
けれど、日向と離れたくは、ない。

太陽が高い位置に昇ってくる。
この田舎町の海は静かで、きっとここには誰も来ない。
日向もきっと、自分を探してはくれないだろう。

学校では、話さないようにしていた。
必要以上に、近付かないようにしていた。
いつものように、甘えないようにしていた。
日向の世界には、自分はいない方がいいから。

話したい、触れたい、甘えたい気持ちを押し込めて、
日向から離れようとしていた。

一緒にいたら、いつまでも自分は日向に甘えてしまう。
離れられないまま、日向を苦しめる。
だから今は、一緒にいない方がいい。


「ワンッ!ワンッ!!」

遠くから、犬の鳴き声が聞こえる。
振り返ってみれば、大きな金色の毛の色の犬が、こちらに向かって駆けてきた。
その後ろから、大人の女性がその犬に引きずられるように、走ってくる。
リッキーと、その飼い主の女性だ。

「あーもう、こらー!リッキー!」

引き摺られるまま、女性も彼方の近くへと来る。
リッキーは嬉しそうに彼方にじゃれつく。

「リッキー。久しぶりだね。」

彼方は、リッキーのなめらかな毛並みの背を撫でてやる。
リッキーはその大きな体を擦り付けるように、彼方に甘える。

「あれ、この前の…。」

女性は彼方に気付き、驚いたように目をパチパチと大きく瞬きさせる。

「こんにちは。お久しぶりです。」

彼方はリッキーを撫でたまま、女性と目線を合わす。
女性はじっと、彼方の髪型を見つめる。

「びっくりしたー!イメチェンしたの?」

「はい。似合ってます?」

「ええ。かっこよくなったんじゃない?」

「えへへ。よかった。」

はにかんで笑う彼方に、女性は優しく笑いかける。
リッキーは尻尾を振って、嬉しそうに舌を出して、彼方を見上げていた。

「すっかりリッキーも君に懐いてるわね。
 今日は一人でどうしたの?また、悩み事?」

「悩み事は…もうないです。全部、もう…決めちゃいましたから。」

そう言い、少し悲しそうに笑う彼方に、女性は不思議そうな顔をする。

「…フラれちゃったの?」

女性の小さく窺うような、その言葉に、彼方は、少し口を瞑んで沈黙した後、
心配そうに見つめるリッキーの目線に合わせてしゃがみ込み、呟く。

「僕、昔…人魚姫の絵本が好きだったんです。」

「人魚姫?」

唐突な話に、女性は戸惑うように首をかしげる。

「人魚姫って、アンデルセンの?
 あの話って、確か泡になって消えるっていう…バッドエンドよね?」

「でも、好きな人のために自分を犠牲にできるって、凄いことだとおもいません?」

「それって…。」

「見守るだけでいいんです。見守るだけ。それで、僕はいいんです。」

悲しげな笑顔をする彼方に、女性は小さく呟く。

「それで…君は救われるの?」

「僕には…そうするしかできないから。
 その人のためには、そうするしかないから…。」

何もできない自分には、そうすることしかできない。
日向のために、自分がしてあげられることなんて、何もない。
自分が離れることでしか、日向を救えない。

自分がいれば、日向を悩ませるだけだ。
好きだからこそ、日向には笑っていてほしい。
その笑顔を守るために、自分くらい、犠牲にできる。

確かな決意と、それを認めたくない感情で、泣いてしまいそうになる。
そんな苦しそうな彼方の表情を見て、
リッキーは、まるで慰めるに彼方の手をペロペロと舐める。

「いつか…今よりももっと、好きになれる人ができるわよ。
 君のことを本当に愛してくれ人だって、現れるわ。」

そう言いながら、女性は彼方の頭を撫でる。
まるで子供をあやすように、優しく、優しく。
その優しい手が、なんだか日向に似ている気がした。

「…なんか、お母さんって感じですね。」

「そう?…私ね、冬にはママになるのよ。」

よく見ると、少し腹部が膨らんでいるように見える。
そうだ。この人も「普通」の人生を歩んでいる。

普通に結婚して、普通に子供が生まれて、普通の家庭を作る。
自分たちが望んだ「普通」は、案外近くにあるものだ。

「いいですね。幸せそうで。」

羨ましそうな彼方の言葉に、
笑顔が絶えない彼女は、少し困ったように笑った。

「でもね、私だって不安よ。
 ちゃんと元気な子産めるかなーとか、
 ちゃんといいママになれるかなーとか。
 結婚する前だって、本当にこの人でいいのかなーとか、
 好きなだけで結婚してもいいのかなーとか、
 ていうか私でいいのかなーとか、いろいろ考えたわよ。」

あれもこれも、というように、指折り数えながら女性は語る。

「そんなものですか。」

「そうそう結局、何かをするたびに悩み事って尽きないのよ。
 でも通り超えたら、案外杞憂だったなー、って思うものよ。
 悩んでる時は本当に苦しいけどね。案外、なんとかなるものよ。」

拳を握り、強気に笑う。

「…大丈夫よ。だから君も、きっと大丈夫なのよ。」

大丈夫、大丈夫と、まるで彼方を安心させるように、繰り返す。
その笑顔は眩しすぎるほどで、余計に心が締め付けられるような気がした。

「…ありがとうございます。」

その笑顔は、今の自分には苦しい。
目を合わせられず、俯き、リッキーの体を撫でる。

「ところで、進路はどうするか、決めたの?」

女性は、俯いたままの彼方を見つめ、空気を換えようと、
わざとらしいほどに明るく、違う話題を振る。

「それは…まだ、です。僕には何も…得意なこととかは、ないから。」

「そんなことはないでしょ?」

女性は困ったような笑顔で、首を傾げる。

「勉強も苦手だし、スポーツとかもできないし、不器用だし、
 …ホント、何もできないんです。」

「そうかなー?君は動物も好きそうだし、
 トリマーとか、ブリーダーとか、似合いそうだけどね。」

「そうですか?」

彼方が女性を見上げると、女性は唇に指を添えて、考えるような仕草を見せる。

「あ、でもこの前のお兄ちゃんは、
 君は不器用だからトリマーは難しいかもって言っててね、
 でもブリーダーは似合うんじゃない?
 リッキーもこんなに懐いているし。ね?」

同意を求めるように、首を傾げて笑う。

正直、自分に未来なんてない。
けれど、適当な言い訳としては、ちょうどよかった。

「じゃあ、ブリーダー目指してみようかな。」








月曜日の朝。
いつも通りの、二人きりで机を囲んで、静かな朝食。

土曜も日曜も、彼方は朝早くから家を空け、夜遅くに帰ってくる。
まるで自分を避けているように。

どこにいたのか、何をしていたのか、
それを聞いても、はぐらかされるばかりだった。
そのせいか、いつもより家にいても会話が少ない。

日向は、彼方が自分を避けていることも、
金曜日の少女のことも、聞けずにいた。

「あ、そういえば、追試って今日からだよね。
 僕、休んでた分の追試あるから、学校終わったら先帰っていいよ。」

卵焼きをつつきながら、彼方が口を開く。

彼方は三日間のうち、一日しかテストを受けていない。
つまりは、ほぼ追試ということだろう。

日向は頭は良くはないが、可もなく不可もなく。
追試はすべての教科で免れていた。

「…待ってるよ。」

「いいよ。今週たぶん全部、放課後追試だから。」

彼方は突き放すように、静かに言う。
こういう時は、「これ以上詮索するな」という合図だ。
その言葉に、日向は何も言えなくなる。

「あ、それと、…夏休み始まったら、僕、バイトするから。」

「…は?なんで…?」

戸惑う日向を気にもせず、
彼方は視線も合わさずに、淡々と語る。

「僕ね、ブリーダーになろうと思って。
 専門学校行くのにお金もかかるし、夏休みだったら都合もいいし。」

「え…?」

「日向は進路どうするか、決めた?」

彼方は、自分の都合の悪いことに、日向が口出しできないように、話題を変えようとする。

最近、彼方は視線を合わすことすらしなくなった。
自分の方を、見ることもなくなった。
どこか大きな壁があるように感じる。
近くにいるからこそ、それが余計に辛い。

「なんで…急にそんなこと…。」

聞きづらいのと、その答えを聞きたいないのとで、
日向は最後まで言葉を紡げない。
口ごもった日向に、彼方は冷たく言い放つ。

「…先に、将来の話をしたのは、日向じゃん。」

怒ってるわけでも、拗ねているわけでもない。
ただその言葉は、静かで、冷たい。

いつもと違う、まるで他人のような彼方の言葉に、
日向は何も言えなくなった。



「僕、お皿洗っておくね。日向は早くシャワー浴びて準備しなよ?」

食事を終え、彼方は食器をまとめながら言う。
いつも日向が朝食を作っている間に、彼方はシャワーを浴びて支度をする。
そして、彼方が食べ終わった食器を洗っている間に、日向はシャワーを浴びて支度をする。
いつもより、その声が、冷たい気がした。

日向は、何も言えないまま、食器を台所へ持っていく彼方の背中を見送る。
仕方なく、日向は黙って風呂場へ向かう。




シャワーを終えて、風呂場からでると、彼方はもう家にはいなかった。

麻丸。
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麻丸。

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