「不安定な心」
「不安定な心」
放課後になって、一人で帰路に着く日向。
一人の通学路は、もう慣れたものだった。
今日だって追試なんてもうないのに、彼方は放課後になるとすぐ、
いつの間にか教室から姿を消していた。
どこで何をしているのかも知らない。
きっと、夜遅くまで帰って来ない。
日向は柄にもなくイラついていた。
昼休みに亮太に言われたことを考える。
将悟にも、似たようなことをお好み焼き屋で言われた。
どうしてあの二人は、人の恋路に関わろうとするのだろう。
誰に何を言われたところで、自分の気持ちは簡単には変わらないのに。
確かに百合は真っ直ぐで、素直で、いい子だと思う。
明るくて、可愛らしくて、魅力的だとは思う。
自分にない、いいところをたくさん持っていて、羨ましいとも思う。
好意を向けられて、恥ずかしい反面、嬉しいとも思った。
けれど、好きだと言われて自分も好きになるほど、
日向は単純な人間にはなれない。
正直、誰かを好きになるという気持ちが、わからなかった。
自分が彼方に向けている気持ちが、
百合が自分に言うような『好き』という気持ちだとしたら、
自分は百合に向けて『好き』という感情を、持ってはいない。
日向は、自分が彼方に向けている気持ちは、きっと恋だと思っていた。
だからこそ彼方が別人のように変わってしまって、
自分のことを見ないことが、こんなに苦しいのだと思っていた。
今まで必死で守り抜いてきた箱庭が壊れてしまって、
二人一緒にいる未来を望めなくなって、
だから苦しくて、寂しくて、辛いのだと、そう思っていた。
百合のことを傷付けたくはないけれど、
その感情がないのに不実に付き合えるほど、
日向は器用な人間にはなれない。
それに、誰かの『特別』になってしまえば、
きっと、彼方はもう戻って来ない気がしていた。
いや、もう彼方が自分のもとに戻ってくる保障なんて、ないのだけれど。
彼方以外の、誰かの手を取ることが、怖かった。
手を取ったとしても、彼方のように離れて行ってしまう、遠くへ行ってしまう、
そんな日が来るのが、怖かった。
そもそも『好き』って、何なのだろう。
ずっと一緒にいたい、触れたいと思うのは彼方だ。
百合にそんな感情はない。
むしろ、気まずさから顔を合わせづらい。
でも、日向は気付いていた。
彼方に対して、キスしたいだとか、
男女関係と同じようなそれ以上の、深い関係を望んでいないことを。
むしろ、キスされた時は驚きと、恐怖と後悔があった。
もしかしたら、自分は勘違いしているのではないか。
彼方にキスをされた時から、彼方のことが好きだと、勘違いしているのではないのか。
そう思うと、不安になった。
確かに彼方のことは大事で、一緒にいたいと思うのに、
それ以上のことを、自分は望んでいない。
じゃあ彼方のことが好きじゃないのかと聞かれれば、
間違いなく『好き』だと答えるだろう。
日向が彼方に対する『好き』は、
百合たちが口にする『好き』とは違うのだろうか。
いや、自分は間違いなく彼方のことが好きだ。
それはきっと、間違いない。
学ランの襟で隠した傷が、痛い。
彼方に貼ってもらった絆創膏は一日も持たずに、
シャワーを浴びているときに剥がれてしまったし、
彼方につけられた傷は、もうほとんど消えかけている。
残るのは、母親の爪跡と、自分の爪跡。
こんなものを残したいわけじゃないのに。
彼方の傷跡が欲しかった。
自分は彼方のモノだと、そう疑わせない傷跡が、欲しかった。
迷わないように、間違えないように、繋ぎとめていてほしかった。
イライラする。
どうして自分はこんなにイライラしているのだろう。
また亮太に八つ当たりしてしまった。
亮太が悪いわけじゃないのに、いつも自分は亮太にだけ、八つ当たりしてしまう。
そんなつもりなんて、全然なかったのに。
全てが、上手くいかない。
今はもう使われていない、倉庫と化した空き教室。
強引に手首を掴まれ、連れていかれた先は、
あの事件が起きた教室と、同じ部屋だった。
逃げ出そうと思えば、逃げ出せた。
まだ校内には生徒もたくさん残っていたし、
声を上げて抵抗すれば、きっと誰かが助けてくれた。
けれど、逃げ出さなかったのは、何故だろう。
目の前にいるのは、日向じゃないことはわかる。
茶髪に染め、髪を切り、日向と風貌も違うが、
明らかに仕草や言動が、日向のものとは別人だ。
自分のことを冷たい目で見降ろすこの人物は、日向じゃない。
日向の双子の弟、彼方だ。
もう、間違えない。
「話ってなんですか?彼方先輩。」
静かな声で問うと、彼方は冷たい目のまま、ニッコリと笑った。
その表情が、なんだか異常に見えて、百合は少し後退る。
「そんなに警戒しないでよ。今日は、少し話をしたいだけなんだ。」
ヘラヘラと口元を歪めて、日向と似た顔で笑う。
そんな張り付いたような笑顔に、百合は顔をしかめる。
「私は…あなたのこと、嫌いなんですけど。」
百合の怯むことのない強気な発言に、
彼方は口元に手を当てて、クスクスと笑う。
「ひどいなー。まあ、僕も君のことなんて、大嫌いだけどね。」
そして彼方は小さく息を吐いて、一度目を伏せた後、その笑顔を消した。
百合に真っ直ぐ向き合い、ゆっくりと距離を詰める。
彼方の冷たい眼差しが、百合の瞳を射抜く。
「ねえ、日向のこと好きなの?」
そう言いながら、彼方は百合にゆっくりと近付く。
「貴方には、関係ないじゃないですか。」
百合はそう小さく呟いて、顔を背ける。
それでも、彼方は足を止めずに、百合に近付いてくる。
ゆっくりと近付く彼方に後退れば、背中が壁に当たった。
「日向のこと好きなの?って、聞いてるんだけど。」
先程より強い口調で、触れそうな距離まで彼方が近付いてくる。
壁の方まで追い詰めれて、逃げ場がない。
冷たい目が、自分を見下ろす。
そうだ、この人は何をするかわからない。
以前自分にしたことや、もっと酷いことをされるかもしれない。
百合は、携帯電話が入っているスカートのポケットに右手を突っ込んだ。
「…好きですよ。悪いですか。」
その言葉に、彼方は面白くなさそうな顔をして、眉を寄せる。
そして、彼方は静かに百合が背をつく壁に右手をつき、
百合を覆うように、逃げ場をなくす。
「…ホント、嫌な子。」
彼方の冷淡な表情に、百合の体が強張る。
―誰か、呼んだほうがいいかもしれない。
そう思って、百合はポケットの中で携帯電話を握りしめる。
けれど、その右手は、彼方に掴まれた。
「駄目だよ。まだ話の途中なんだから。」
握っていた携帯電話が、手からするりと離れて、
スカートのポケットから床にすべり落ちる。
「あ…っ。」
右手で壁をつき、左手で百合の右手を掴む彼方。
自分の右手を掴む彼方の左手は、力が強くて、とても振り払えない。
携帯電話も、遠くの方へ滑り落ちてしまった。
逃げ場がない、助けを呼べない。
そんな状況に百合が絶望していると、彼方は静かに口を開く。
「…君に、日向のことを幸せにできるの?」
「…え?」
「日向を、ちゃんと笑わせられるの?」
呟くように小さく言った彼方を見上げると、先程までの冷たい表情をしていなかった。
切なそうに、眉を寄せて百合のことを見つめていた。
その顔が、今まで見てきた彼方の表情と全く違っていて、百合は戸惑った。
「こんな細い腕で、日向を守れるの?」
そんな顔で、そんなことを言って、
自分を不安にさせて、動揺させて、諦めさせようというのか。
それでも、百合は自分の気持ちを変えるわけにはいかない。
何を言われようと、日向への想いを大事にしたい。
百合は少し震える足を隠して、唇をきゅっと噛んで、
彼方を真っ直ぐ見つめて、話し出す。
「…なんなんですか、いきなり。
そんなこと言って、また日向先輩のことを諦めさせようとしているんですか?
あなたに何を言われようと、何をされようと、
私は…、日向先輩のことを諦めるつもりは、ありませんから。」
真剣な百合の瞳に、彼方は壁から右手を離して、ため息を吐く。
「日向はね、ああ見えて繊細なんだ。すごく、傷付きやすい。弱いんだ。
でも優しいから、人の好意を無下にはできないんだよ。
…だから、中途半端な気持ちで日向に近付こうとするなら、許さない。」
許さない、そう強く言い切った彼方の瞳は、
切なそうに、熱を持っているように揺れていた。
それはまるで、日向に恋焦がれているような、苦しそうな瞳。
―この人も、日向先輩のことが大事なんだ。
けれど、彼方の行動は、何かがおかしい。
自分が日向に近付くことを嫌ったり、牽制したり、
自分のことを試すようなことを言ったり。
「…あなたいったい…何がしたいんですか?」
その言葉に、彼方は目を伏せて静かに言った。
「日向に…幸せになってほしい。」
百合の手を掴む左手を離して、俯く。
「普通の…本当に普通の幸せでいいから、笑っていてほしい。」
その言葉は、消えてしまいそうなほど弱弱しく、
本心ではないような、嘘を吐いているような、
まるで、無理をして自分を偽っているようで、儚く見えた。
「日向の邪魔する奴や、日向を傷つける奴は、みんな僕が日向に近付けさせない。
日向はずっと、僕のモノだったんだ。
…でも、もう僕じゃ、日向の傍には…いられないから。」
―ああ、なんて不器用で寂しい人だろう。
肩を震わせ、今にも泣き出してしまいそうなほど、
切ない顔をした彼方に、何故か、百合は同情していた。
彼方が、弱くて可哀想な人間に見えた。
「だから…こんなこと、君に言いたくないけれど、
本当に日向のことが好きなら、絶対に日向を裏切らないで。
何があっても、日向の味方でいてあげて。日向を、支えてあげて。」
放課後、もう部活のない亮太は、授業が終わったらすぐ帰ってしまった。
昼休みに、日向と言い合ったことを気にしているのか、少し落ち込んでいて、
何も言わずに、いつの間にか教室から姿を消していた。
亮太のことだから、二、三日悩んで、
それでもまだ悩むようなら自分に相談してくるだろう、と思いながら、
将悟は花壇の花に水やりをしていた。
「アンタ…本当に美化委員だったのね…。」
花壇にジョウロで水をまいていると、真紀は驚いたような顔をした。
真紀も部活がなく、亮太も帰ったのでヒマなのだろう。
色とりどりの花が咲く花壇を、しゃがみ込んでじっと見つめていた。
月曜日の放課後は、美化委員仕事がある。
将悟の、花の水やりの当番の日だ。
「嘘ついてどうするんだよ。」
呆れながらため息を吐く将悟に、
真紀は笑いをこらえるように、口元を手で覆って話す。
「いや…なんていうか…似合わなさ過ぎて…。」
「別にいいだろ。」
「花、好きなの?」
その質問に、将悟は少し考える。
咲く季節も様々で、色とりどりの花は見ていて飽きることもないし、
世話が大変な花も多いけれど、手を掛けた分、綺麗に咲くと嬉しい。
それに、自分には花に思い入れがたくさんある。
「まあ…嫌いじゃない。」
「ぷっ、似合わないー!」
噴き出したように笑う真紀。
似合わないのは、自分でもわかっている。
「うるせえ。」
一通り笑い終えた真紀は、花壇をじっとみつめて、口を開く。
将悟が一番大事にしている花を指さした。
「この棘いっぱいあるの何?バラ…じゃないよね?」
「あー…それはアザミだよ。」
ハリネズミのような細かい紫の花。
茎には棘がたくさんある。
この花を見るたび、忘れられないことを思い出して、少し切なくなる。
真紀はそんな将悟に気付かず、他の花を指さす。
「これは?菊?」
「アスター。」
確かに菊に似ているが、それとは少し違う赤い花。
同じキク科ではあるけれど。
「これは?まだ蕾?」
「キンギョソウ。もうすぐ咲くだろ。」
まだ蕾のままの黄色い花。
真紀は次々に色々な花を指さして、将悟に説明させた。
将悟が説明しても、真紀は説明を聞いているのか、いないのか、
花壇をじっと見つめて、頷くだけだった。
「詳しいじゃん。」
「まあ、美化委員だからな。」
そんな他愛のない会話をしながら、
将悟は水やりを終えて、ジョウロを倉庫へ片付ける。
真紀は花壇を見つめたまま、口を開く。
「ねえ、この後どっかいこーよ。」
「また亮太の愚痴か?」
「別に愚痴る気はないけどさー。」
そう言いながら立ち上がった真紀は、一点を見つめて口をポカンと開けた。
驚いたような表情をしたあと、怪訝そうな顔になる。
「うわあ、よく学校であんなことできるなあ…。」
そう呟いた真紀の見つめる校舎の一番隅を見ると、
一階の空き教室の窓際に彼方と、
彼方に抑え込まれている百合が見えた。