「百合の瞳に映る世界」
「百合の瞳に映る世界」
前期も今日で終わりの金曜日の放課後。
百合は図書室に向かう足で考えていた。
火曜日に彼方と話をした。
けれど、途中で真紀や将悟に連れ出され、最後まで話を聞けなかった。
彼方は自分に何を伝えたかったのだろう。
―中途半端な気持ちで日向に近付こうとするなら、許さない。
―このままじゃ、日向が壊れてしまう。
―ねえ、日向を助けてあげてよ。
―…僕には、それができないから。
切なそうに、苦しそうに瞳を揺らした彼方は、何が言いたかったのだろう。
何から日向を守れと言うのだろう。
何から助けろと言うのだろう。
考えてもわからない。
けれど、あんな顔をして、恥を忍んで自分に頼み込んできたからには、何かがあるのだろう。
結局、あの日から彼方に会うこともなく、
話の続きを聞けないまま、夏休みを迎えようとしていた。
明日から夏休み。今日で前期が終わる。
日向が図書委員をするのも、今日が最後だ。
もしかしたら、もう学校で日向に会うこともないかもしれない。
夏休みも、日向に会える理由も、会う理由がない。
亮太に夏祭りに誘われたけれど、
日向はきっと、亮太やクラスの人と一緒に行くのだろう。
―二人で行きたいなんて言ったら、困らせちゃうかなー…。
そんなことを考えながら、図書室の扉を開ける。
いつものように、日向がカウンターに座って、本を読んでいた。
百合は適当に日向が見える席に座り、日向を見つめる。
一応、図書委員の仕事中だから、邪魔しないように、静かに。
―少し、元気がないように見える。
日向が俯いて本を読むのはいつものことだが、何かがいつもと違った。
肩を落として、背中を丸めて、どこかいつもより寂しそうに見える。
彼方が言っていたことと、何か関係があるのだろうか。
百合はじーっと観察するように、日向を見つめる。
ふいに、視線を上げた日向と目が合う。
百合がニッコリと笑うと、日向は戸惑うように目を逸らす。
―可愛い。猫みたい。
甘やかされ慣れてない猫のようだと思う。
自分に向けられる優しさに、どうしていいのかわからない、
だから、恥ずかしくなって目を背ける。そんな風に見える。
素っ気ないと思ってこちらが俯いたら、今度は日向から視線を合わせてくる。
そして、また目が合ったら、恥ずかしがって目を逸らす。
こちらが気になって仕方がないようだ。
構ってほしいのに、構ってほしくない。
そんな猫のように、素直じゃないのだ。
そして意外と顔に出る。
そんな日向を見つめるのが、百合は大好きだった。
見つめることで、日向のことがわかる気がした。日向に近付ける気がした。
そして、下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。
周りの生徒たちが帰り始めると、百合は日向の座るカウンターへ向かう。
「日向先輩!」
嬉しそうに百合が声を掛けると、日向は静かに顔を上げる。
「新田…。」
名字で呼ぶ日向に、百合は少しむくれる。
そして、笑顔で日向の顔を覗く。
「百合、です。」
少し威圧的な笑顔を向けられると、日向は困ったような顔をして、
照れくさそうに、視線を逸らして小さく呟く。
「…百合。」
恥ずかしそうに自分の名前を呼んでくれる日向に、百合は嬉しくなる。
この前のように、カウンターの前にしゃがみ込んで、日向を見上げる。
日向の真っ直ぐで素直な黒髪が、風に揺れる。
出会ったころと比べて、日向の髪はすっかり伸びていた。
「髪、伸びましたね。切らないんですか?」
百合はカウンターに肘をつくようにして、頬杖をつき、首を傾げる。
その言葉に、日向は少し考えるように目を伏せた。
「…百合は、髪切ったらさ…人って変わると思うか?」
そう呟いた日向は、何かを悩んでいるようだった。
伏し目がちな瞳は、何を映しているのだろう。
「変わらないと思いますよ?
人間の根本的なところって言うのは、なかなか変わらないですからね。」
顎に手を添えて、少し考えて、再び口を開く。
「んー、でも、変わりたいって気持ちがあるから、髪を切るんでしょうね。
髪の毛を切るって言うことは、一種の変身願望みたいに思います。
今の自分が嫌だから、だから…変わりたい、変わるぞっていう、
ある種の決意表明みたいなものなんじゃないですかね。
だから髪を切って変わったんじゃなくて、
変わろうとするために髪を切る、って言うのが正しいと思います。」
その言葉を聞いて、日向は目を伏せたまま、小さく呟く。
「…そうか。じゃあ俺は、切らない。」
「それは、変わりたくないってことですか?」
「……。」
何かを考えるように無言になる日向。
百合はそんな日向の顔を覗きこむ。
長い睫毛が、切なげに揺れる。
少し猫背気味の丸い背中。
自分を守るように、膝の上で両手を組む癖。
そんな姿が、儚くて、綺麗で、大好きだった。
「変わるとしても、変わらないとしても、私はそのままの日向先輩が好きです。」
そう言いながら百合がニッコリと微笑むと、
日向は少し不安そうな顔で、視線を百合に向ける。
「…なんで、こんな俺なんだ?」
自分が好きな日向は、弱い人。
些細なことで思いつめる。
そんな繊細で脆い日向を、守りたくなる。
なんて、そんなことを言ったら、笑われてしまいそうだけれど。
「そんな日向先輩だからですよ。
好きになるのに、それ以上の理由がいりますか?」
そう言って、百合は首を傾げて微笑む。
言葉だけじゃなくて、態度で、笑顔で、「好き」が伝わればいいと思った。
その瞳に、自分を映してほしいと思った。
そんな百合の笑顔を見た日向は、少し切なげな顔をしたあと、小さく笑った。
「百合は真っ直ぐだな。」
日向が切なそうな顔をした理由は、わからない。
けれど、小さく笑う日向の笑顔が、嬉しかった。
「それだけが取り柄みたいなものですからね。」
その言葉に、日向は小さく首を振る。
「そんなことない。百合はいいところ、いっぱいあると思う。」
「例えばどこです?」
そう言って百合は日向をニッコリと見上げると、
日向は少し困った顔をした。
「…小さいとことか。」
「それっていいところなんですか?」
「明るいところとか。」
「能天気ってことですか?」
「素直なところとか。」
「それって、単純だって意味ですか?」
意地悪そうに百合は笑う。
日向の困った顔が、嬉しい。
自分のことを、困るくらいに考えてくれている証拠だ。
日向は決して嘘を吐かない。
必死で自分のいいところを探してくれる。
不器用に、言葉を紡いでくれる。
「あと…、」
言葉にするのを躊躇うように、日向は頬を掻く。
「…可愛いと、思う。」
そう言いながら、照れくさそうに、顔を背ける。
そんな仕草が、愛しかった。
「日向先輩…。もう一回言ってください!」
百合は日向の言葉に驚いて、カウンターに身を乗り出し、
嬉々とした表情でアンコールを催促する。
「もう言わない。」
「えーっ!なんでですかー!」
百合は少しむくれて、頬を膨らます。
「何度も言うようなことじゃないだろ。」
そう言った日向の頬は、少し赤らんでいた。
「もう一回聞きたいです。」
「今度、な。」
今度、という言葉に、百合は少し切なくなる。
今度とは、いつなのだろうか。
「でも、図書委員って今日で終わりなんですよね…。」
日向がこのカウンターに座るのは、今日が最後だ。
学校での百合と日向の繋がりは、この図書室だけだ。
亮太に夏祭りに誘われたが、きっとクラスの人と行くのだろう。
自分の入り込む余地はない。
しょんぼりと肩を落とす百合を見て、日向は小さな声で呟いた。
「…携帯。」
「え?」
「番号、教えて。」
日向は少し照れくさそうに、目を伏せて、
学ランのポケットの中から、白いスマートフォンを取り出した。
「え?日向先輩、携帯持ってたんですか!?
坂野先輩に聞いたときは、持ってないって…。」
「…最近、買ったんだ。亮太とも番号は交換してる。」
そう言いながら、日向はまだ慣れていないのか、
少したどたどしい手付きで、携帯電話を操作する。
そして、百合の携帯電話に、日向の番号が登録された。
「これでいつでも連絡取れますね。」
嬉しそうに、携帯電話を握りしめて微笑む百合。
そんな百合を見て、日向は窺うように、遠慮がちに口を開く。
「百合…あのさ…。」
「なんですか?」
「えっと…その…。」
日向は言うのを躊躇うように、少し無言になったあと、
目を逸らして、気恥ずかしそうに、少し赤らんだ頬を掻く。
「俺たち…付き合う…か?」
「え…?」
ぎこちない日向の言葉に、
百合は驚いて、自分の携帯電話を、床に落とした。
夏休みが始まる前に、百合と付き合った。
携帯番号を交換して、毎日一緒に過ごした。
何をするわけでもなく、触れるわけでもなく、ただ一緒にいるだけ。
公園や海辺で、他愛のない話をするだけ。
正直、「好き」という感情は、まだわからなかった。
けれど、百合のいる生活は、意外と居心地がよかった。
意外と聡いのか、自分が言いたくないことは聞こうとはしないし、
あまり話さない自分に文句を言うこともなく、ただ隣で微笑んでくれた。
彼方によく似た、柔らかい笑顔。
百合に彼方を重ねていたのは、言うまでもない。
彼方のことを、忘れてしまいたかった。
自分は独りじゃないと、そう思いたかった。
百合は、可愛い。
明るくて、素直で、真っ直ぐで、とてもいい子だ。
きっと自分は、百合のことを「好き」になれる。
百合も、自分の寂しさを埋めてくれる。
そう信じていた。
百合の優しさに、甘えているだけなのかもしれない。
こんな自分が情けないことも、不誠実だということもわかっている。
亮太に言ったことと、正反対のことをしている自覚はある。
それでも、隣に誰かがいてほしかった。
自分は独りじゃない、そう言ってほしかった。
ちゃんと自分も、百合のことを「好き」になろうとしている。
だから、許される気がした。
許されていたいと思った。
結局、金曜日の夜に家に帰れば、彼方の姿はなかった。
夏休みが始まってから、一度も彼方は帰ってきていない。
どんなバイトをしているのかも、知らない。
誰の家に泊まっているのかも、知らない。
きっと、女の家だろう。
携帯電話があるから、連絡を取ろうと思えば、電話でもメールでもできる。
しかし、話すことがない。
何を話したらいいのか、わからない。
彼方もバイトで忙しいだろう。
きっと、自分のことなど、考える暇もないのだろう。
彼方と連絡を取ることもできず、携帯電話の履歴は、百合で埋まっていた。
これでいいんだ。
きっと、これでいい。
彼方を縛ることなんて、できない。
彼方の望んだ普通の未来のためには、これでいいんだ。
彼方のいない隣を埋めるように、百合を傍に置く。
百合も望んで自分の傍にいる。
自分の未来も、これでいいんだ。
独りじゃない。
彼方がいなくても、百合がいる。
百合が傍にいてくれる。
だから、自分は大丈夫だ。
きっと、大丈夫なはずだ。
そう思うはずなのに、彼方のことが、頭から離れなかった。