「初めて知る気持ち」
「初めて知る気持ち」
日向は夏祭りに、どんな服を着ていくか迷った。
百合とデートだからではない。
自分の体には、彼方に噛まれた傷跡が、生々しく鮮明に残っているからだ。
冬場ならマフラーやタートルネックで隠せるが、今は夏だ。
マフラーやタートルネックなんて、不自然に決まっている。
ストールを巻いても、全ては隠しきれない。
首筋、肩口、胸元。
赤い花のように、彼方の噛み跡が、自分を縛るように残っていた。
噛まれた時は嬉しかったはずなのに、今はただ、心が痛い。
あんなに激しく、熱っぽい瞳を向けて自分を求めてくれたのに、
シャワーから出てきた彼方は、自分を避けていた。
帰ってきた時のことを、「覚えていない」と言い、
彼方を掴む自分の腕を、乱暴に振り払った。
―男同士で…そんなふうにくっつくの、おかしいと思うよ。
その言葉に、息が詰まった。
いつも嬉しそうにくっついてくるのは、彼方の方なのに。
自分が彼方に触れることは、許されないのか。
愛しそうに、切なげな吐息を洩らして、自分の体を噛んだのに、
どうして触れることを許してくれないのか。
どうして自分を見てくれないのか。
彼方は何処で何のバイトをしているのだろう。
記憶がなくなるまで酒を飲んで、
自分の知らないシャンプーの香りをちらつかせて、何をしているのだろう。
何か危ないことを、しているのだろうか。
彼方は変わってしまった。
あれは、自分の知っている彼方ではない。
自分の知っている彼方は、あんなことを言わない。
乱暴に手を振り払わない。自分を見て笑ってくれるはずだ。
あれは、彼方じゃない。
日向は独りになった。
本当は夏祭りなんて行く気分ではないけれど、独りが怖かった。
傍に誰かがいてほしかった。
百合に、縋りつきたかった。
こんなことをするのは、狡いとわかっている。
けれど、独りは怖い。
彼方に見放された日向は、独りが怖かった。
百合に彼方を重ねて、満たされていようと必死だった。
愛されていたいと、必死だった。
独りじゃないと、そう思いたかった。
「日向先輩!」
百合は可愛らしい淡いピンクの浴衣に身を包んでいた。
長い髪は頭の上で上品に結って、浴衣から白いうなじを覗かせている。
日向を見つけて、嬉しそうな顔をして日向のもとへ駆けてくる。
その姿はさながら子犬のようだ。
「似合ってます?」
そう言って、百合は袖口を掴んで、モデルのようにくるりと回って見せる。
歩きづらいのか、少しよろけた後、首を傾げて微笑んだ。
正直、まだ百合のことを好きかどうかは、わからない。
けれど日向は、可愛らしく懐いてくる百合を、突き放すことはできなかった。
自分の寂しさを埋めるためだけに、百合を傍に置く。
きっと、自分も百合のことを、好きになれる。
自分は百合のことが、好きだ。
そう信じることで、孤独を紛らわせた。
「似合ってるよ。」
「それだけですか?」
百合は少し意地悪な笑みで、日向を見上げる。
普段とは少し違う、「祭り」という非日常に、百合も少し興奮しているようだった。
「可愛いとか、言ってくれないんですか?」
首を傾げて、ニッコリと微笑み、日向の顔を覗きこむ。
小悪魔のような、あざとく可愛らしい仕草だ。
「はいはい、可愛いよ。」
「適当じゃないですかー!」
軽い日向の言葉に、百合は頬を膨らませて、拗ねた様な顔をする。
「日向先輩冷たいですー!」
そう言った百合は、ぐらりとよろける。
慣れない草履で、歩きづらいのだろうか。
足元がおぼつかないようだ。
「ほら、手、繋いでてやるから。」
そう言って、少し照れくさそうに左手を差し出す日向。
百合は少し驚いた顔をして、おそるおそるゆっくりと、右手を日向の左手に絡める。
初めて触れた百合の手は、彼方よりもはるかに小さく、暖かかった。
触れた指先から、ビリビリと痺れるような感じがする。
自分の知らない体温に、胸がドキドキする。
こんな気持ち、知らない。
彼方に触れた時とは、全く違う。
これが、「好き」ということなのだろうか。
自分は百合のことを、ちゃんと「好き」になれたのだろうか。
「…日向先輩って、誰にでもこういうことするんですか?」
そう言った百合の手は、少し震えていた。
百合も緊張しているのだろうか。
「そんなわけないだろ。」
触れる指先に、胸がドキドキして、百合の顔が見れない。
彼方と手を繋いだ時とは違う、少し小っ恥ずかしいような気持ちになる。
「それは、私が特別ってことですか?」
窺うような、不安そうな声で百合は問う。
どんな顔をして、百合は言ったのだろうか。
百合と視線を合わせることすら、恥ずかしい。
「…そうだな。」
素っ気なく小さく呟いた日向の言葉に、百合はとびきり嬉しそうな顔をした。
それから、手を繋いで屋台めぐりをした。
浴衣を着て、草履を履いた百合の歩幅は狭く、
ゆっくり、ゆっくりと、百合の体温を噛み締めるように歩いた。
夏の湿気を纏った暑さが、少し気怠い。
日向は噛み跡を隠すために、長袖のシャツとストールを巻いていた。
ストールで隠しきれない部分は絆創膏を貼ったが、百合は何も言わないでいてくれた。
「暑いですねー。」
「浴衣は暑いだろうな。」
「かき氷食べましょ!」
そう言って、百合はかき氷の屋台を指さす。
幼いころ、母親もまだ穏やかで、祖母が生きていたころ、
祖母に彼方と夏祭りに連れてきてもらった記憶がある。
その時も、彼方が「暑いから、かき氷が食べたい」と言い出した。
「いろんな味がありますねー。私はイチゴがいいなあ。」
色とりどりの、いろんな味のシロップが並ぶ。
彼方が好きなのは、メロン味だった。
色が緑色なだけで、実際にメロンの味なんてしなかったけれど、
彼方は嬉しそうに、メロン味のかき氷を食べていた。
自分も彼方と一緒の、甘いだけでメロンの味がしないメロン味を食べた。
「日向先輩は何にします?」
「…レモンかな。」
どんなものでも、たくさん種類があっても、いつも彼方と同じものにした。
いつも彼方が選んで、自分がそれに合わせる。
そのことに何の疑問も抱かなかった。
けれど、メロンを選んだら、また彼方のことを思い出してしまう。
百合と同じイチゴにしても、彼方のことを思い出してしまうような気がした。
だからイチゴでもメロンでもない、たまたま目についたレモン味にした。
初めて食べるレモン味は、少し甘酸っぱかった。
「かき氷って、食べてると舌の色変わりますよね。」
そう言って、百合は小さな舌をベッと出して、日向に見せる。
百合の舌は、赤かった。
舌は元々赤いものだし、そんなに変わらないと思う。
少しだけ、色付いたくらいだ。
「俺は?」
日向も百合を真似て、舌を出して見せる。
「日向先輩、すごい黄色いですよー。」
そう言って、百合は楽しそうに笑う。
自分に向けられる、その柔らかな笑顔が、嬉しかった。
些細だけれど、少し幸せなような気がした。
すっかり日も沈み、祭りもお開きを迎えたころ、
日向と百合は、暗い海沿いの道を歩いていた。
「帰りたくないなー。」
日向と手を繋ぎながら、百合はポツリと寂しそうな声を零す。
百合の家は、日向が住む場所から電車で三駅離れている。
田舎の三駅なんて、結構な距離だ。
それに、終電の時間も早い。
「…そうだな。」
小さく零す日向の声に、百合は少し意外そうな顔をする。
「え、日向先輩もそう思ってくれたんですか!?」
驚いたように、百合は日向の顔を見上げる。
見上げた日向は、少し寂しそうな表情をしていた。
「ああ。…まだ、帰りたくないな。」
駅まで百合を送れば、日向はまた独りになる。
家に帰っても、誰もいない。独りぼっちだ。
「…じゃあ、これからどこか行きましょうよ。」
日向の手を強く握って、百合は立ち止まる。
立ち止まった百合に手を引かれて、日向も立ち止まる。
「駄目だ。親御さんが心配するだろ?」
百合を見据えて、日向は静かに首を振る。
自分よりも年の若い女の子を、夜遅くまで連れ回すわけにはいかない。
「私だって、日向先輩ともっと一緒にいたいです…。」
握った手を離さないまま、拗ねるように、百合は頬を膨らませる。
「百合は待っててくれる人がいるんだから、ちゃんと帰らないと駄目だろ?」
ゆっくりと諭すような優しい口調で、日向は言う。
百合には、ちゃんと待っていてくれる家族がいる。
自分とは違う。
「それは…日向先輩だって、同じじゃないですか。」
その言葉に、日向は少し悲しそうな顔をした。
「俺は…誰も、いないよ。」
そう言った日向は、視線を逸らして、俯いた。
寂しさを噛み締めるように、繋いだ手に、少し力が籠った気がする。
「え…?弟さんとかは…?」
首を傾げて、控えめに、窺うように百合は聞く。
「彼方はバイトで、しばらく家には帰って来ない。」
日向はポツリと、静かな声で答える。
「お母さんとか、お父さんとかは…?」
「父親はいないし、母親はもうずっと…帰ってきてない。」
日向はあまり、自分の話をしようとしない。
一緒にいても、いつも百合が話して、日向が静かに相槌を打つだけ。
初めて知った日向の家庭事情に、百合は驚いた。
「じゃあ…一人、なんですか?」
「…そうだな。…独りだ。」
そう答えた日向の瞳は、少し揺れているように見えた。
自分よりも大きいはずの日向の肩が、何故か儚く、小さく見えて、
百合は胸が締め付けられた。
「なんで…ずっと黙ってたんですか…?」
百合は日向を真っ直ぐに見つめて、震える声で呟く。
繋いだ手を離して、百合は日向の真正面に立って日向を見つめる。
孤独に怯える、伏し目がちな瞳。
変わることを拒む、少し伸びた黒髪。
自分自身を守るように、少し猫背気味な背中。
そうだ。日向は言葉にしなくても、「寂しい」という思いを自分に伝えていた。
百合は、そんな不器用な日向を抱きしめるように、
日向の胸に顔を埋め、そっと腰に手を回した。
「百合…?」
突然のことに、日向は戸惑う。
百合は日向を抱きしめたまま、静かに、けれど芯の強い声で呟いた。
「日向先輩が寂しくないように、おまじないです。」
百合の甘い香りに包まれる。
彼方とは違う、優しい温もり。
百合の体温は、温かかった。
自分の知らないその温もりに、何故か涙が出た。
何故涙が出るのだろう。
悲しいのか、寂しいのか、辛いのか、嬉しいのか、幸せなのか。
どんな気持ちで涙が流れたのかは、日向には、よくわからなかった。
けれど涙は止まることはなく、
日向は百合の肩口に顔を埋めて、息を殺して、静かに泣いた。
百合の背中に手を回して、強く抱きしめた。
離れていかないように、自分の傍にいてくれるように。
その優しい体温に、縋るような気持ちだった。
「明日も、会えますか?」
「…ああ。」
「明日はいつもより、少し早い電車に乗りますね。」
「…ああ。」
「明日も、手を繋いでくれますか?」
「…ああ。」
「日向先輩、ちょっと腕の力、強いですよ。」
「…ごめん。」
日向の胸に顔を埋めたまま、百合は穏やかで優しい声で言う。
日向は震える涙声で、噛み締めるように、ゆっくりと、返事をした。
百合には自分が泣いていることが、きっとわかっているだろう。
けれど百合は何も言わずに、少し背伸びをして、日向の頭を撫でる。
まるで、子供をあやす母親のように、優しく、優しく。
ああ、きっと、自分は百合のことが、好きなのだ。