「優しい世界」

 「優しい世界」



営業終了後、彼方は店内の後片付けをしていた。
テーブルを片付け、床を軽く掃いて、グラスを洗う。
他の従業員は、彼方と酔い潰れた優樹を残して帰ってしまった。
今日はアフターをするような客もいなかったし、
誠がしばらく休みを取っているため、店の片付けと、
酔い潰れた優樹の介抱は、彼方の役目だった。

優樹は、それほど酒に強いわけではない。
けれど相当の酒好きで、いつも人が止めるのも聞かずに、楽しそうに酒を飲んで、
気がついたら、いつの間にか眠ってしまっている。
他の従業員も慣れたもので、優樹が酔い潰れれば、
適当なソファーに寝かせて、何事もなかったかのように仕事を続ける。

安心して酔い潰れることができるほど、
自分たちのことを、信頼しているのだろうか。
彼方は特別酒が強いわけではないが、
慣れもあるのか、酷く酔い潰れることはなくなっていた。

彼方は一通りグラスを洗い終えると、手を拭いて、
奥のソファーで眠っている優樹に、声を掛ける。

「優樹さーん!もう片付け終わりましたよー!帰りましょー?」

少し大きめの声で話しかけても、返事はない。
優樹はただ静かに、寝息をたてているだけだった。
肩を揺すってみても、「うーん」と唸るだけで、起きようとはしない。
彼方はどうしたものか、と考える。

さすがに酔っぱらいの優樹を、店に一人で寝かせておくわけにもいかない。
何より優樹を置いて帰ったら、京子の機嫌が悪くなる。

彼方は仕方なく、店の内側から鍵を閉めて、優樹の眠る隣のソファーに、身を沈める。
無理矢理起こすのは悪い気がするし、彼方一人では優樹を運べない。
優樹が起きるまで、自分も休んでいよう。

狭いソファーが、落ち着く。
優樹が用意してくれた部屋のベッドは、一般的なシングルサイズだけれど、
いつも日向と二人でシングルベッドを使っていた自分には、とても広く感じた。
自分の家のベッドと大きさは変わらないはずなのに、日向がいないだけで、全然違う。

一人で眠っても、隣に日向の体温がないことに、不安になる。
毎晩アフターを繰り返すのも、本当は誰かの体温が欲しいだけなのかもしれない。
毎回違う誰かに日向を重ねて、安っぽい愛を囁いて、体を重ねる。
それで何かが満たされるわけではないが、ほんの一時だけ孤独を紛らわせることはできた。

自分が弱くて、狡くて、汚くて、最低な人間だってことは、自覚している。
誰にも望まれないし、誰からも必要とされない。
きっと自分の想いは誰にも認められないし、理解もされない。
このままこんな世界に沈んで、身も心もボロボロになって、壊れてしまえばいい。

そう思いながら、彼方は目を閉じた。




夢を見た。

夢の中で日向は、自分以外の女性と手を繋いで、幸せそうに笑っていた。
そして自分のことを一瞬見た後、日向はすぐに目を逸らして、

「お前なんて、もういらない。」

そう言って、自分に背を向けた。
日向の瞳は、もう自分を映さない。

髪の長い女性と、楽しそうに笑う日向。
その笑顔が、彼方にとってはとても残酷で、
望んでいたことのはずなのに、心がぎゅっと締め付けられる。

いや、本心で望んでたわけではない。
利口なふりをして、自分を騙していただけだ。

本当は、日向を誰にも渡したくない。
自分だけに、笑いかけてほしい。
隣にいることを、許してほしかった。
けれど、それを壊したのは、自分だ。
もう戻れるわけなんてない。





「彼方ー?かーなーたー!」

優樹が自分を呼ぶ声が聞こえる。
それと同時に、頬を指で突く感触に、彼方は目を覚ました。

「優樹さん…。」

優樹はニッコリと笑って、手にはビールが注がれたグラスを持っていた。
仕事以外の時でも、優樹はいつも何かしらの酒を飲んでいる気がする。

「珍しいな。彼方が酔い潰れるの。」

優樹は彼方が目を覚ましたことを確認すると、隣のソファーに座る。

「違いますよ。優樹さんが起こしても、なかなか起きないから、
 起きるまで待ってようと思ったら、寝ちゃったんですよ。」

そう言って、彼方は目をこすりながら、ソファーから身を起こす。
彼方の言葉に、優樹は少し意外そうな顔をした。

「俺が起きるの待っててくれたわけ?もー、彼方は可愛いなあ!」

優樹は嬉しそうな顔をして、わしゃわしゃと彼方の髪を少し乱暴に撫でる。
まだ少し酔っているのか、今飲んでいるビールのせいか、
優樹は頬を少し赤くして、体も少しふらついていた。
酒が入ると、優樹はいつも以上に彼方を可愛がる。
それはもう、犬でも愛でるように、一方的に。

「もう、優樹さん、飲みすぎですよ。」

彼方は頭を撫でる優樹の手をそっとどけて、ため息を吐く。
優樹は悪びれる様子もなく、ボサボサになった彼方の髪を見て、ケラケラと笑う。

歳の割に、優樹は無邪気で素直だ。
目を細めて、口を大きく開けて、よく笑う。
その笑顔は、自分の作り笑いとは違う、自然で純粋な笑顔。

優樹は一通り笑い終えると、気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと息を吐く。

「まあでも、ホント、お前がいてくれて良かったよ。」

そう言いながら、ビールに口を付ける。
ふと視線を上げれば、彼方はポカンと口を開けて、驚いたような顔をしていた。

「…どうした?」

そう首を傾げて優樹が聞くと、彼方は取り繕って、笑う。

「…あ、いや…。そんなこと、初めて言われたから…。」

自分がいてくれて良かった。
そんなこと、言われたことがない。
『彼方がいないと生きていけない』そう日向に言わせたことはあっても、
他人から望まれることなんて、なかった。
いつも自分の周りには、同級生の女子や、大人の女性が溢れているが、
何も知らない他人ですら、そんなことを言ってはくれなかった。
誰かに望まれるなんて、認められるなんて、今まで一度もなかった。

その言葉は、なんだかくすぐったいような気がして、彼方は俯く。

「なんだそれ。」

優樹は不思議そうに首を傾げる。
取り繕う彼方の笑顔は、ぎこちない笑顔だった。
困ったように笑う。それは何か隠している証。

「…まあ、夜の世界に来る奴なんて、訳アリばっかりだからなー。」

そう言って、優樹は目を伏せて、スーツのポケットから煙草とライターを取り出した。
そして慣れた手つきで煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出す。

「別に、何があったかなんて、聞かねえよ。言いたくないことだってあるだろ?
 でも一人で抱えきれなくなったら、弱音吐いてもいいんだぞー。
 俺には何もしてやれないかもしれねえけど、話すことで楽になることもあるしな。
 ま、無理には聞かねえし、言いたくなったらでいいぞ。」

ゆっくりと力強い優樹の声。
顔を上げれば、優樹はニッコリと微笑んでいた。

「優樹さん…。」

思えば、信頼できる人間なんて日向以外に、誰もいなかった。
母親はからは罵声と暴力を浴びせられ、自分たちを否定され続けた。
同級生たちとは、愛想よく話していても、どこか距離を取っていた。
どうせ認められない、望まれないと、諦めていた。

だから他人に本心を話すことはなかったし、心を許すこともなかった。
誰も自分のことなんて気にも留めない、そう思っていた。

しかし優樹は、こんな自分を認めてくれる。
ここにいることを、許してくれる。
自分を気にかけて、心配してくれる。

「あー、でも彼方がいなくなったら、寂しくなるなあ。
 こっちにマンション借りてやるからさー、ずっと俺の店で働いてくれよー。」

優樹は少し寂しそうに、彼方に言う。
この店で働くのは、夏休みの間だけという約束だった。
七月半ばから八月末まで。
もちろん、年齢詐称をしている彼方は、高校生であることは黙っていたし、
二十歳のフリーターという嘘を吐いていた。

「そういうわけにもいかないですよ。
 …大事な人を置いてきちゃったから。」

そう言って、彼方は困ったように小さく笑う。

「…女?」

煙草を咥えながら、優樹はニヤリと笑う。
そんな優樹の問いに、彼方は意味深な笑みで返す。

「優樹さんは、そういう人いないんですか?」

その問いに、優樹はゆっくりと煙草を吸って、紫煙を吐き出す。

「んー、俺には、京子がいるからなあ。」

紫煙を揺らしながら、優樹は天井を見上げる。
ゆらゆらと、煙が広がっては消えていく。

「え?京子ちゃんのこと、好きなんですか?」

首を傾げて彼方が聞くと、優樹は呆れたように笑った。

「ばーか。そんなんじゃねえよ。」

そう言って、テーブルの上の灰皿に、煙草を押し付ける。
火が消えたことを確認すると、再びポケットから煙草を取り出す。

「俺らにはさ、もう両親がいないから、俺が京子の親代わりだ。
 アイツがちゃんと大人になるまで、恋愛とか結婚とかは考えられねえよ。」

優樹はそう話しながら、煙草に火をつける。

優樹の両親は、もうずいぶん前に、事故で他界しているらしい。
だからだろうか、優樹と京子の間には、
兄妹以上の信頼関係があるような気がする。
けれど、京子の恋は報われない。
そんな京子の想いが、なんとなく、自分に重なる。

「ホントは一緒に暮らしてやりたいんだけどなー。
 アイツの学校遠いし、俺も家遠くなると酔っぱらったら帰れないし…。」

そう言って、優樹は溜息と共に、紫煙を吐き出す。

「京子ちゃんのこと、大事なんですね。」

優樹の言葉の一つ一つが、京子への優しさに溢れているようで、
彼方は少しだけ、京子が羨ましくなった。
自分も日向に想われていたかった。
どんな形であれ、日向の世界の中にいたかった。
それを望んではいけないことを、わかっていはいるけれど。

「そりゃ、たった二人の兄妹だからな。お前のとこも弟いるんだろ?」

本当は双子だなんて、言えるはずもない。
自分が兄で、高校三年生の弟がいる設定。
嘘を吐くことには、もう慣れた。
痛む心なんて、なかった。

けれど、真っ直ぐ自分を見つめる優樹の視線が、何故か辛い。

「…ええ、まあ。」

少し気まずそうに目を逸らせば、優樹は優しく微笑んだ。

「ちゃーんと大事にしてやれよ。
 人間なんて脆いもんで、いつ死ぬかもわかんねえしな。
 死んだ後に、もっと優しくしてやればよかったーとか、
 もっと大事にしてやればよかったーとか、考えても遅いしな。」

優樹の憂いを含んだその表情は、どこか悲しげに見えた。

「…本当はさ、三兄弟だったんだよ。弟もいたんだ。
 でも、両親と一緒に事故で死んじまった。
 そん時俺はまだ大学生でさー、京都で一人暮らししてたんだけど、
 反抗期のまま実家を出たから、親にも恩返しなんてできなかった。」

両親を事故で失っている、ということは聞いたことはあるけれど、詳しいことは知らなかった。
彼方がそれを聞くこともなかったし、優樹や京子も話すことはなかったからだ。
他人の自分が聞いてどうこうなるものではない。
けれど、こういう話を自分に話してくれるということは、
自分は優樹に信頼されているのだろうか。
それとも、ただの気まぐれか。

紫煙を燻らせながら遠くを見つめる優樹は、なんだか少しだけ儚く見える。
彼方はただ黙って、優樹が紡ぐ言葉を聞いた。

「だから、親の代わりに、京子を一人前の大人に育て上げるのが、俺の役目さ。
 そうすれば、少しは親に恩返ししたことになるかなーって思ってさ。」

そう言いながら、優樹は再び灰皿に煙草を押し付けて、火を消す。
そして一息ついた後、優樹は冗談めかして笑った。

「でもなー。京子が嫁に行くことを考えたら、ちょっと辛いなー。
 ぶっちゃけ京子、めちゃくちゃ可愛いじゃん?」

先程までの真剣な雰囲気とは打って変わって、
茶目っ気たっぷりに、優樹はわざとらしく頭を抱える。
それは京子と違って、恋ではないようだけれど、
優樹は京子のことを、とても大事にしている。

「可愛いって言うよりは…綺麗ですね。」

彼方は少し考えるように、顎に手を添えて首を傾げる。

「お前…まさか京子に惚れてんじゃねーだろーな?」

訝しげに彼方を見つめる優樹。
どうやら京子だけではなく、優樹もシスコンの気がありそうだ。

「いや、そんなんじゃないですよ。」

彼方は苦笑しながら、手を横に振って否定する。
さすがに京子と一度だけ寝たことがあるだなんて、実の兄を前にして言えるわけがない。
それに、京子に惚れているわけでもない。

「ホントかー?」

そう言って、優樹はじーっと彼方の顔を覗きこむ。
そして数秒見つめた後、ため息を吐きながら、視線を逸らす。

「ま、でも彼方ならいいかな。
 ちゃんと京子のこと、大事にしてくれそうだ。」

小さく優樹は呟く。
そう言ってもらえるのは有難いが、彼方にはそんな気など、さらさらない。
きっと自分は、日向以外の人間を愛するなんて、できないだろう。

「ちょっと優樹さん、僕にも選ぶ権利が…」

「なんだとー?彼方のくせに生意気だぞー!?」

彼方の言葉を遮って、優樹は不敵に笑って、乱暴に彼方の頭を撫でる。

「わわっ!やめてよ優樹さんー!」

自分の髪を撫でる温かい大きな手は、優しかった。
なんだかんだ言って、優樹は自分を可愛がってくれる。
意地悪なことを言いながらも、気にかけてくれる。
彼方はこんな日常も、悪くはないと思い始めていた。






「日向君の様子、どうだったー?」

リビングに戻ると、将悟は誠に声を掛けられる。
誠は相変わらず、黒猫のサクラと、
白と黒のまだら模様のスミレと遊んでいた。
アンズと名付けた白猫は、まだこの環境に慣れる様子もなく、
机の下でじっと様子を窺っている。

「…相変わらずですよ。熱は下がったみたいですけど、
 ずーっと部屋の隅にうずくまって、膝抱えて俯いてます。
 話そうともしないし、飯も食おうとしない。」

そう言って、将悟は大きなため息を吐く。

日向は元々口数が多いほうではないが、
話しかけても頷くか首を振るだけで、話そうとはしないし、
食事を用意しても、一口も口にしようとしない。

何よりも、一番不可解なのは、彼方のことを話そうとはしないのだ。
いつもなら彼方の名前を呼び、彼方ことを一番に心配するはずなのに、
何も言わずに、彼方のことに触れようともしない。

彼方はあの家にいるのだろうか。
バス停に倒れてたのは日向一人だった。
普通に考えて、日向が彼方を置いて、一人で逃げ出すはずがない。
もしかしたら、彼方は家に帰っていないのかもしれない。

自分が、二人の関係を壊してしまった。
異常なくらい仲が良かった二人だったのに、
自分が良かれと思って言った言葉で、その関係を壊してしまった。
将悟には、そんな後ろめたさがあった。

「相当参ってるみたいだねえ。」

誠は黒猫を撫でながら、呟く。
サクラは気持ちよさそうに目を細めた。

「アイツ、もう三日も飯食ってないんですよ。」

いくら熱が出ていたとはいえ、三日も食事を摂らないとさすがに心配になる。
それに、あの塞ぎこみようは異常だ。

「将君じゃ、日向君の心の傷は癒せないねえ。」

白と黒のまだら模様の猫、スミレも撫でながら、誠は言う。
冷たいようで、その言葉は正論だ。
確かにこんな自分にできることなんて、
日向を家に帰さずに泊めることくらいしか、ないのかもしれない。

けれど将悟は、責任を感じつつ、日向をなんとかしてやりたかった。

麻丸。
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麻丸。

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