「暗い部屋」
「暗い部屋」
自分は何をしているのだろう。
日向は部屋の隅で、膝を抱えて俯いていた。
母親には虐待され続け、彼方ももう自分の傍にいない。
百合にも嫌われた。きっともう愛されない。
将悟や誠にだって、迷惑をかけている。
あのまま、死ねたらよかったのに。
誰からも望まれない、誰からも必要とされないのなら、
生きている意味なんて、あるのだろうか。
孤独が怖い。
必要とされていたかった。
望まれていたかった。
愛されていたかった。
否定されるのが怖い。
母親からも、彼方からも、百合からも。
「お前なんていらない」と、そう言われるのが辛かった。
嘘でもいい、誰かに傍にいてほしかった。
母親に殴られた痣。
彼方に噛まれた傷。
百合が繋いでくれない手。
全部全部、痛かった。
心が、張り裂けてしまいそうだった。
母親にされたように、自分で首を、絞めてみた。
けれど、死ねるわけなんかなくて、涙が溢れた。
息苦しさよりも、心が痛かった。
死にたいだなんて思っても、死ねる勇気なんてない。
自分は弱い。
独りでは生きていけない。
苦しさで息が詰まって、言葉にならない。
百合に会いたかった。
あの凛とした声で、「自分のことが必要だ」と「好きだ」と、言ってほしかった。
あの小さな暖かい手で、こんな自分の手を取って、抱きしめてほしかった。
あの柔らかな笑顔を、自分だけに向けていてほしかった。
でもそんなの無理だ。
とっくに嫌われてしまった。
携帯電話も家に置いてきてしまった。
連絡も取れない。何と言ったらいいのかも、わからない。
それに、こんな体で会えるわけがない。
きっと、次に会う時には、別れ話をされるだろう。
いや、もしかしたら、もう会ってすらくれないのだろうか。
百合に会いたい。けれど、百合に会うのが怖かった。
別れたくない。離れたくない。
百合にまで否定されるのが、怖い。
こんな自分が、愛されるわけなんてない。
愛してくれる人なんて、いない。
誰にも会いたくない。
誰とも話したくない。
誰も自分のことを見ないでほしい。
人が、怖い。
「日向くーん!入るよー?」
ふいに、襖の向こうから、誠の声がする。
その声は明るく、まるで自分の気持ちとは正反対で、耳障りだった。
どうしてそんなに明るく振る舞えるのか、そんな声で自分の名前を呼ばないでほしい。
自分のことなんて、目に映さないでほしい。
しかし、日向の返事を待たずに、誠は襖を開けて、にこやかな笑顔で部屋に入ってくる。
その腕には、アンズと呼ばれた白猫を抱いていた。
「ねえ。おにーさんとちょっとお話ししない?」
首を傾げて誠がそう言うと、日向は無言で少しだけ誠に視線を向けた。
けれど、すぐにまた俯いて顔を隠す。
今は誰とも話したくない。話せない。
助けてくれたのは有難いけれど、今はほっといてほしかった。
「見て見て。将君ったら、もうアンズに首輪付けてるんだよ。
あんなこと言いながら、こういう捨て猫とかほっとけないの。」
ニコニコと微笑みながら、腕に抱いたアンズを日向に見せる。
チリンチリンとアンズの首輪に付けられた鈴の音が響く。
けれど、日向は俯いたまま、視線を上げようとはしなかった。
そんな日向を見て、誠は少し困ったように、小さく息を吐く。
「ま、俺の独り言だと思って、聞いててよ。」
そう言って、膝を抱える日向の隣に座り、誠は語りだす。
「将君はねー、おせっかいなんだよ。でも、それが将君の優しさだよ。
反吐が出るほど偽善者で、それが正しいと思って疑わない。
おせっかいで、恥ずかしいくらい熱い子なんだよ。
人が困ってるのをほっとけなくて、助けなんて求められてもいないのに、
自分から厄介ごとに突っ込んでいってさ。」
聞いてもいないのに、勝手に語り始めた誠。
何が面白いのか、クスクスと笑いながら、誠はペラペラと言葉を紡ぐ。
日向は相槌を打つのも億劫で、ただ黙って聞いていた。
「自分には全然関係ないことにまで、口を出そうとしたりしてさ。
よく知りもしない他人なんて、ほっとけばいいのにね。
それで自分にまで面倒事に巻き込まれたらどうすんのって、感じ。
ほーんと、馬鹿だなあ、って思うんだ。」
声は明るいが、誠の言葉は、将悟を馬鹿にしているようにも聞こえた。
どうしてこんな話を自分にするのだろう。
ペラペラ、ペラペラ、よく喋る男だ。
「俺は良い意味でも、悪い意味でも、『大人』だから、
なりふり構わず誰かを助けようなんて、そんな馬鹿な真似はできない。
だから、将君のそんなお馬鹿なところが、ちょっと羨ましいかなあ。」
少し切なげな誠の言葉に、日向はこっそり視線だけを誠に向けると、
誠は遠くを見つめて、自嘲気味に笑っていた。
「将君はね、日向君に頼ってもらえなかったことが、悔しいんだよ。
弱い子なんだよ、将君って。
でも弱いからこそ、誰かを守りたいっていう気持ちは、人一倍強い。
将君が日向君にできることなんて、たいしてないのにね。
知ってれば助けられたなんて、そんなわけないのにね。」
誠は何かを思い出すように、目を瞑り、
大きく息を吐いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…彼女がいたんだ。将君には。」
その言葉に、違和感を覚える。
いた、という過去形が、変に引かかった。
誠は静かに目を開いて、切なそうな表情で、言葉を続ける。
「もう死んじゃったんだ。二年も前に。…自殺だった。
彼女も君と一緒でさ、将君に悩みを打ち明けることはなかった。
自殺しちゃうほど悩んでたのに、将君にも、誰にも言わずに、
ずっと、独りで抱え込んでたんだろうね。
…まあ、抱えきれなくなって、自殺しちゃったんだろうけど。」
将悟が彼女の話をしたがらなかったのは、こういうことだったのか。
彼女の話をするとき、少し辛そうな顔をするのは、彼女がもういないからなのか。
「もう二度と…あんな後悔、したくないんじゃないかな。
将君はね、今でも彼女が好きだったギタリストと同じ金髪にして、
彼女の形見のネックレスも女物なのに、ずっとつけててさ。
平気そうな顔してるけど、今でも彼女に囚われてる。
ホント、馬鹿みたいで、見てて痛々しいよ。」
そう言いながら、誠はアンズの頭をそっと撫でる。
それに合わせて、チリンという鈴の音が、物悲しく響いた。
遠くと見つめながら、昔を思い出して、
切なそうに話す誠の背中は、何故か少し儚く見えた。
「俺は君の事情なんて、よくは知らないけれど、将君は心配してるよ。
君のことで、将君は頭を悩ませて、胸を痛めてる。
将君は…日向君も、彼女みたいになってしまわないか、不安なんだよ。」
彼女みたいに、というのは、自殺してしまうということだろうか。
確かに、死んでしまいたいと思ったり、殺してほしいと乞うたことはあった。
死ねないとわかっていて、自ら首を絞めてみたりもした。
だってこんな現実、あまりにも辛すぎる。
日向はこっそり視線だけを誠に向けて、黙って誠の言葉を聞いていた。
誠はその視線に気付いて、ニッコリと日向に微笑みを向けた。
「日向君さ、本当は誰かに…気づいてほしかったんじゃないの?
言わなきゃわからないことだってあるよ?
言葉にしないと伝わらないよ。黙ってたって、何も変わらないよ。」
そう言った誠の声は、優しかった。
けれど、今はその優しさが辛くて、
日向はまた俯いて、顔を隠してしまう。
「…独りで抱え込んじゃうところは、そっくりだね。」
誰に、似ているというのだろう。
亡くなったという、将悟の彼女だろうか。
自分は死ぬ勇気すらない、臆病者なのに。
どうして自分を、気にかけてくれるのだろう。
こんな自分なんて、ほっといてくれればいいのに。
雨の中置き去りにして、死なせてくれればよかったのに。
日向は抱えた膝を、一層強く抱きしめた。
八月も始まって、受験まであと半年ほど。
亮太と真紀はファミリーレストランで受験勉強をするのが日課になっていた。
同じ大学を目指すため、亮太が真紀に勉強を教えてもらっていたのだ。
「あーもうわかんねえ!真紀ちゃん~、ちょっと休憩しよーぜー。」
そう言って、亮太はペンを投げるようにテーブルに置いて、
大きなため息を吐きながら、豪快にソファーによりかかった。
真紀は正面に座る亮太の解いていた問題集を見て、驚いたように声を上げる。
「は!?アンタこれ高1の範囲じゃない。なんでこんなのもわからないわけ!?」
その問題集は、ほとんど問題は解かれていなくて、
隅の方には、雑な落書きばかり書かれていた。
「もう無理ー。絶対大学受からない~。」
情けない声を出して、亮太は頭を抱える。
そんな亮太を見て、真紀は呆れて、小さく肩を落とす。
「そう思うんなら、ちゃんと勉強しなさいよ。」
勉強を教えてくれと言った本人がこんな状態では、自分はどうしようもない。
そんなことを思いながら、真紀はカフェオレに口を付ける。
「あーあ。おっぱい大きくて、可愛い女の子が応援してくれたら、もっと頑張れるのになー。」
亮太は口を大きく開けて、マヌケな表情でため息を吐く。
スポーツ以外にたいした特技もなく、勉強もできない。
そしてモテるわけでもないのに、無類の巨乳好き。
そんな亮太でも、真紀にとっては、ずっと昔から傍にいた幼馴染だ。
亮太のいいところなんて、なかなか思いつかないけれど、
なんだかんだ言って、真紀は亮太のことが好きなのだ。
だから進学先も亮太と同じ大学を目指すことを決めたし、
その本人が受かってくれないと困る。
「可愛い女の子ならいるじゃない。…ここに。」
ボソッと小さな声で呟く。
亮太はその言葉に、ポカンの口を開けて一層マヌケな顔をした。
「…真紀ちゃん…そんなに胸ないよね。」
じーっと見つめる視線の先は、真紀の胸元だった。
「…もう勉強教えないわよ。」
そんな亮太の視線に、真紀はテーブルの下で亮太の足を思いっきり踏む。
「いたっ!もー、真紀ちゃんひーどーいー!
あーあ、百合ちゃんみたいな可愛い女の子が、励ましてくれないかなあ。」
そう言って、亮太は子供の用に唇を尖らせて、拗ねた様な仕草を見せる。
体はずいぶん大きく育ったけれど、こういう素直なところは昔と変わらない。
けれど、亮太は百合にフラれたと聞いたのに、
いまだに未練がましく「百合ちゃん、百合ちゃん」と、
百合の名前ばかりを口にすることが、真紀は気に入らなかった。
一度会ったことのある百合は、確かに可愛らしかった。
小さくて、大人しそうで、まるでお人形のような華奢な少女。
将悟が言った通り、自分とは全然違うタイプの少女だった。
「…その百合ちゃんって子も、そんなに胸なかったじゃない。」
細身の彼女には、胸の膨らみなんてほとんどなかった気がする。
それに身長も低く、中学生と言われても疑わないくらい、あどけない顔だった。
「あれ?真紀ちゃん、百合ちゃんのこと知ってんの?」
真紀の言葉に、亮太は驚いたような顔を見せる。
「まあ…。ちょっと前に、いろいろあってね。」
以前亮太が、彼方を殴りそうになっていた手前、
あの日のことは、言わない方がいいのではないかと、真紀は言葉を濁す。
受験前の大事な時期に、また亮太に何か問題を起こされたら困る。
将悟に言われるまま、彼方から百合を引き離したけれど、
あの二人の間に何があったかなんて、真紀は知らない。
「なんだよ、それ。」
亮太は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
そして内緒にされるのが不満なのか、少し眉間に皺を寄せる。
亮太はすぐに表情がコロコロと変わって、考えていることがわかりやすい。
真紀は亮太のそんな素直で単純なところも、好きだった。
ふいに、亮太の携帯電話が受信音を鳴らす。
「あれ、百合ちゃんからメールだ。」
亮太はそのメールを確認すると、少し難しそうな顔をして首を傾げた。
優樹がまだ眠っている昼過ぎ、彼方と京子はリビングでテレビを見ていた。
「彼方さん、どうしました?顔色悪いですよ。」
京子は心配そうな顔を向けて、彼方の顔を覗く。
俯いた彼方は、胸を押さえて、少し苦しそうな顔をしていた。
「…平気。ちょっと眩暈がしただけだから、気にしないで。」
そう言って、彼方は少しふらつきながらリビングを出て、自室へと戻っていく。
平静を装って、自室に入り、扉を閉めて、戸棚から薬を取り出す。
銀色のシートに入っている薬は、残り一錠だった。
彼方はそのシートから薬を取り出し、飲み込んで、ベッドに身を沈める。
荒くなる呼吸が、苦しい。
心臓が激しく脈打つ。
くらくらする頭。
発作の前兆だ。
それは突然やってくる。
病院から処方される薬は、増え続けていた。
いつくるかわからない発作に、
彼方は薬がないと不安を抱くようになっていた。