「可哀想な人」

 「可哀想な人」



日向に彼女ができて、幸せそうに笑うことを望んでいた。
日向の幸せを、確かに望んでいた。
望んでいたはずなのに。

いつもの二倍も三倍も薬を飲んで、無理矢理発作を押し込める。
それでも少し、胸が苦しくて、頭がぼーっとする。

百合が日向と付き合っている。
日向に彼女ができた。
その事実に、心がモヤモヤする。

「…ただいま。」

彼方は病院で診察を終えて、優樹のマンションの帰り、リビングの扉を開ける。
リビングには、京子が一人でソファーに座っていた。

「おかえりなさい。」

京子は携帯電話を操作しながら、小さく挨拶を呟く。
リビングを見渡してみても、優樹の姿はない。

「優樹さんは?」

彼方がそう聞くと、京子は携帯電話の画面から目を逸らさずに答える。

「お兄ちゃんなら出掛けてますよ。」

素っ気ない返事は、優樹がいないからか。
優樹がいないときの京子は、機嫌が悪い。

「…そう。」

そう彼方が小さく呟くと、京子は彼方の表情が少し暗いことに気付く。
京子は落ち込んだ様子の彼方の顔を覗きこんで、口を開く。

「どうしたんですか?元気ないみたいですけど。」

長い睫毛に、短い黒髪。
日向に似た、澄ました顔で、京子は彼方の顔を窺う。
今はその顔を見るのが、何故か辛い。

「…日向に、彼女ができた。」

彼方は京子から目を逸らして、言う。
その言葉に、京子は「心配して損をした」と、
少し呆れた様な表情で、携帯電話の画面に視線を戻す。
日向に彼女ができたなんて、京子には関係のない話だ。

「会ってきたんですか。」

素っ気ない京子の声。
彼方は肩を落として、暗い表情のまま言う。

「いや、日向の彼女に…偶然ね。」

目を逸らしたまま、小さく呟く彼方。
京子はそんな彼方を見据えて、鼻で笑う。

「それはそれは。残念ですね。おめでとうございます。」

彼方の落ち込みように、京子は厭味ったらしく言う。

その言葉が、やけに耳障りだった。
京子は機嫌が悪い時、厭味ったらしく皮肉を言う。
そんなの、いつものことなのに、今日は無性に苛立つ。
京子の言葉を、これ以上聞きたくなかった。

彼方は京子をソファーに押し倒す。
抵抗ができないように、両手首を掴む。
そしてあの日と同じ、京子の耳元で低い声で言った。

「ねえ、慰めてよ。」

組み敷かれた京子は、動じることなく、呆れたようにため息を吐く。

「…そうやって、好きでもない女を抱いて、楽しいですか?」

その言葉に、彼方は少し眉を寄せ、小さく呟く。

「…黙って。」

構うことなく、京子は続ける。

「それで何か満たされましたか?救われましたか?」

静かで冷たくて、強い声。
京子の冷たい目が、刺さるように痛い。

「黙ってよ…っ!」

叫ぶように、悲痛な声を洩らして、彼方は京子の口を唇で塞ぐ。
優しさなんて微塵もない、乱暴なキス。

満たされるわけない。
救われるわけない。
そんなの痛いほどわかっている。

京子は抵抗することもなく、それを受け入れた。
それは、縋るようなキスだった。

唇が離れると、京子は軽蔑の目で彼方を見上げる。

「結局、あなたは、逃げてるだけじゃないですか。」

軽蔑の瞳と、吐き捨てるように静かに響く声が、心に刺さる。

自分が臆病で、卑怯で、狡いことは、よくわかっている。
こんなことをしても、何にもならないことも、わかっている。
けれど、寂しい心を、辛い心を、埋める何かが、欲しかった。
気休めでも、嘘でもいいから、誰かに満たされていたかった。
じゃないと苦しくて死んでしまいそうだった。

日向のためだと自分に言い聞かせて、日向から離れた。
心を押し殺して、日向を傷つけてでも、離れなければならなかった。

だって、こんな自分には、何もできない。
日向から離れて、ただ日向の幸せを願うことしかできない。
日向の隣を望むことなんて、できやしないのに。

逃げているだなんて、自分が一番よくわかっている。
でもそうする以外に、自分にできることなんて、ないのに。

「じゃあ…じゃあ僕はどうすればいいの…!?どうすればよかったの…っ!?
 どうすれば…日向の傍にいられたの…っ。」

悲痛な叫びにも似た言葉。
ポロポロと、彼方の瞳から涙が溢れる。
その涙が、組み敷かれた京子の頬に落ちて、するりと流れていった。

彼方は京子の手を離して、涙を手で拭う。
けれど止まることはなく、生暖かい涙が彼方の頬を濡らした。

辛そうな、苦しそうな顔をして、涙を流す彼方。
京子は彼方の頬に手を添えて、憐れむように小さく呟いた。

「…可哀想な人。」






泣きつかれたのか、落ち着いたのか、
日向は百合の肩に凭れかかり、眠ってしまった。
百合を抱きしめたまま、静かな寝息をたてる日向。
その寝顔は安心したように、穏やかだった。

日向の伸びきった髪を撫でてみる。
しなやかな黒髪が、甘えるように指に絡みついては、すり抜けた。
ぎゅっと日向を抱きしめて、背中を撫でると、
穏やかで優しい日向の体温が伝わる。
細くなった日向の体は、温かかった。

触れた指先から、抱きしめた腕から、愛しさが溢れる。
ああ、自分は、優しくて温かいこの人が好きだ。
弱くて脆いこの人を、守りたい。
そう、改めて実感した。

このまま寝かせるのもどうかと思い、百合は日向の体を支えて、
部屋の隅に敷かれた布団を引き寄せ、日向をそっと寝かせる。

抱きしめていた体が離れると、日向は不安そうに眉間に皺を寄せて、
低い声を洩らして、眠ったまま、力ない手で百合を探す。
そんな布団の上をさまよう日向の手を百合が取ると、
日向は安心したような表情をして、指を絡ませた。
もう片方の手で、縋るように百合の手首を掴んで、
離さないようにギュッと、自分の頬に寄せる。

無意識に、自分を求めてくれる。
それが堪らなく嬉しかった。

静かに眠る日向の寝顔を眺めてみる。
整った顔立ち、長い睫毛、半開きになった口。
繋いだ手は、離れないようにギュッと、強く握られていた。
自分の隣で安心しきった無防備なその姿が、愛おしかった。

―可愛い。

そう思った百合は、日向の少し腫れた頬に、キスを落とす。
これは、おまじないだ。
腫れも傷も、早く綺麗に治るように。
もう二度と、この手を離すことがないように。

本当はもっと、日向に触れたい。
言葉で、指先で、キスで、日向が好きだと伝えたい。
日向が不安にならないように。
もう悲しみで涙を流さないように。

視線を落とせば、日向のシャツの襟元から覗く、赤い噛み跡。
全て話してくれたとはいえ、やはり少しだけ、嫉妬する。
彼方は何を思って、日向に噛み跡を残したのだろう。
独占欲か、執着か、それとも別の何かか。

彼方が異常なくらい、日向のことを想っていたことは、知っていた。
けれど、日向の傍に、もう彼方はいない。
夏休み前に空き教室で見せた表情、電車の降りた時に見えた表情。
彼方は何を思って、日向の傍を離れたのだろう。

「日向は寂しがり」だと、「脆い」と言ったのは、彼方だったのに。
日向の体に噛み跡だけを残して、何がしたかったのだろう。
どうして自分に、「日向を助けてあげて」と言ったのだろう。
「僕にはできないから」それは、どういう意味だったのだろう。

もしかしたら彼方も、日向と同じなのかもしれない。
不器用で、弱くて、脆い人。
自分の気持ちを、上手く伝えられないだけなのかもしれない。
そして怖がりで、臆病で、寂しがり。
独りが怖いくせに、傷付くのが怖くて、独りになりたがる。

日向と彼方は、「顔はそっくりだが、性格は全然違う」と、
思っていたけれど、実は根本的なところは、一緒なのかもしれない。



日向の寝顔を見つめて、どれくらい経っただろうか。
好きな人の寝顔は、何時間見ていても飽きない。
このままずっと、この寝顔を眺めていてもいい。

ふと、襖の向こうから足音が近づいてくる。
その足音は、この部屋の前で止まった。

「日向、百合ちゃん。入っていいか?」

襖越しに声を掛けたのは、将悟だった。

「あ、中村先輩…。どうぞ。」

百合がそう答えると、将悟が静かに襖を開ける。
襖が少し開くと、将悟より先に白い子猫が部屋に入ってきた。

「あ、にゃんこ。」

その白猫は、鈴の音を響かせて、迷うことなく日向の傍に駆け寄る。
そして眠っている日向の顔を窺うように、首を傾げた。
遅れて部屋に入ってきた将悟は、百合と手を繋ぎながら、
布団に身を沈める日向を見て、少し驚いた顔をした。

「日向先輩、寝ちゃって…。」

百合が少し声を潜めてそう言うと、
将悟は日向が眠っていることに気付き、小さな声で呟いた。

「そっか。最近あんまり眠れてなかったみたいだしな。」

将悟は眠っている日向を邪魔しないように、白い猫を抱き上げる。
白猫は将悟に抱かれてもなお、日向を見つめていた。

「いきなり呼んでごめんな。
 …亮太から聞いたんだけど、喧嘩してたんだってな。仲直りできた?」

そう言いながら、将悟は腕の中で「にゃー」と小さな声で鳴く
白猫をあやすように撫でる。

「はい。おかげさまで。」

百合は微笑んで答える。
将悟に呼んでもらわなければ、仲直りはおろか、
日向に会うことすら、できなかったかもしれない。

「コイツさ、ずーっと飯も食わねえで、膝抱えて落ち込んでたんだ。
 …日向から、なんか聞いた?」

将悟は少し言い辛そうに、百合に問う。

眠っている日向の姿を見れば、隠しようがない腫れた頬と傷、首筋の痣。
襟元からは、赤い噛み跡が痛々しく覗いている。
両手で百合の手を強く握る姿は、まるで縋るようだった。
日向が隠したがっていた、異常すぎるくらい残酷な真実。

「…はい。…全部、聞きました。」

百合は、日向の髪を撫でながら答える。
髪を撫でる百合の手に、気持ちよさそうに日向の表情が綻んだ。

「そっか。…でも、もう大丈夫そうだな。」

日向の穏やかな寝顔を見て、将悟は優しく微笑んだ。
あれだけ落ち込んでいた日向は、もうすっかり落ち着きを取り戻していた。

自分には、匿う意外に何もできないけれど、
百合に会わせることで、少しは日向も救われたのだろうと将悟は思う。

「今日はもう遅いけど、百合ちゃんも泊まってく?
 アイツらも泊まるって言い出したし。」

百合たちが将悟の家に訪れた夕方ごろから、ずいぶんと時間が経っていた。
外はすっかり暗闇に包まれていて、
百合が暮らす街までの最終列車の時刻は、もうまもなくだった。

「え?いいんですか?」

百合は意外そうに、首を傾げる。
日向と一緒にいられるのは嬉しいが、自分まで泊まってもいいのだろうか。
日向も亮太も真紀も自分もだなんて、迷惑じゃないだろうか。

遠慮がちに、百合が将悟を見上げると、
百合の手を離そうとしない日向を見て、将悟は少し困ったように笑った。

「ああ。それに…もう少し、コイツの傍にいてやってよ。」

その言葉に、百合は嬉しそうに微笑んだ。

「はいっ!喜んで!」


できるだけ日向の傍に、いようと思った。
寂しがりなこの人を、独りにしないように。


百合は、日向の手をギュッと握り返した。

麻丸。
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麻丸。

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