「閉じた睡蓮」
「閉じた睡蓮」
-この口は誰かを酷く傷付けるから-
-何も言わない。誰とも関わらない。-
-でも独りぼっちは辛いから-
-隣に彼方がいればそれでいい-
-他に何もいらない。誰もいらない。-
-そうして感情に蓋をすることを覚えて生きてきた。-
夕日が差し込む頃、日向は目を覚ました。
彼方を掴んでいたはずの右手は布団を握りしめていた。
「彼方…?」
じんわりと汗が滲む額には、すっかりぬるくなった熱さまシートが張られていた。
部屋の中を見渡しても、彼方はいない。
「-…っ!」
-早く探さないと-
よぎる不安と焦る気持ちに、足がもつれる。
大きな音を立てて日向はベッドから転げ落ちてしまった。
「日向…?どうしたの…っ?」
音に気付いた彼方は、慌てた様子で部屋に入ってきた。
手にはおそらく今作ったであろう熱々のお粥を持っていた。
「何してるの!ちゃんと寝てないと駄目じゃない!」
彼方はお粥を机に乗せて日向に駆け寄り、
熱で火照った日向の体を支えて座らせる。
「…どこにも…行くな…って…。」
日向は息も絶え絶えに言葉を紡ぎ、彼方の服の裾を弱弱しく握りしめる。
「もー…。お粥を作ってただけだよ。朝から何も食べてないでしょ?」
ポンポンと軽く慰めるように日向の背中を叩き、頭を撫でる。
今の日向は、置いていかれた子供のようだ。
「お粥食べれそう?」
日向は無言で頷いた。
彼方は日向を支え、ベッドに座らせる。
そしてレンゲに少しお粥を乗せ、フーフーと冷まして日向に差し出した。
「はい、あーん。」
「子供じゃないんだから…自分で食べられる…」
まるで子供の看病をしているような、嬉しそうな彼方を見て、
日向は拗ねたように眉間に皺を寄せる。
「熱が出た時くらい甘えてもいいじゃない。ほら、あーん。」
こういう時の彼方は有無を言わせない。
仕方なく日向は口を小さく開ける。
口に入れたお粥はお世辞にも美味しいと言えるものではなかった。
「…味がしない。」
「…風邪のせいで味覚が麻痺してるんだよ!…多分。」
少し気まずそうに顔を背ける彼方。
そう、彼方の料理の腕は、絶望的だ。
もう一口を、口に含む。
「…やっぱり、味がしない。」
「もー!作ってあげただけでも感謝してよね!」
繰り返した言葉に彼方は唇を尖らせ、頬を膨らませて、そっぽを向く。
味はないが、お粥からは彼方の優しさが伝わってくる気がした。
「…ありがと。」
-風邪が治ったら彼方にも料理を教えてやらないとな。-
そう思いながら、日向は残りのお粥をゆっくりと平らげた。
―ピンポーン。
静かな午後に、来客を告げるインターフォンが一度鳴る。
「誰だろう…?」
「出なくてもいいだろ。」
―ピンポーン。
少しの間を空けて、二度目のインターフォン。
「あれ?まただ。」
「ほっとけ。」
―ピンポーン。
先ほどよりも間隔が短い。
「しつこいね。」
「なんか嫌な予感がする…。」
―ピンポンピンポンピンポンピンポーン!
「おーい!日向ー!彼方ー!」
けたたましいインターフォンを連打する音と、聞きなれた声。
「え?この声…亮太?」
間違いない。
この馬鹿でかい近所迷惑も考えない声は、間違いなく亮太だ。
日向がため息をつくと、彼方は玄関を確認しようと腰を上げる。
「…っ待て!」
日向は彼方の腕を掴む。
彼方はびっくりしたように振り返った。
「…今、会いたくない…。」
顔を伏せて言う。
「え?…ああ。上着、着る?」
二人の半袖の部屋着からは生々しい痣が覗いていた。
彼方はクローゼットから長袖のパーカーを2着取り出し、
日向に差し出して、自分も袖を通す。
「そうじゃなくって…金曜日、ちょっと喧嘩…した、から…。」
俯き気味に言葉を濁しながら、言いにくそうに日向が呟く。
「え?喧嘩?日向が…亮太と…?」
彼方は意外そうな顔をして驚いた。
日向は周りの人間に対して感情を出さないと思っていたからだ。
「おーいー!おーいー!ひーなーたー!かーなーたー!」
外からは亮太の大声が絶え間なく聞こえる。
「でも、さすがに近所迷惑になるから、僕が出てくるよ。
…日向はここで寝てていいから。」
彼方は服を整え、バタバタと玄関に向かう。
日向はパーカーを羽織り、頭まで布団に潜った。
今は亮太に合わせる顔がない。
完全に八つ当たりだったからだ。
亮太は何も悪くない。
‐風邪が治ったら、学校で謝ろう。‐
インターフォンはまだ鳴りやまない。
彼方はため息を吐きながら、玄関を開けた。
「もう…。近所迷惑だからやめてよ…。」
亮太はもう一度インターフォンを押そうとしているところだった。
「おー!彼方ー!なんで学校来なかったんだよー心配したんだぞ!
あれ、日向はいねーの?」
相も変わらず元気の良すぎるほどの大きな声で嬉しそうな笑顔だった。
大型犬が尻尾を振って喜んでいるような幻覚が見えた気がした。
亮太は彼方越しに家の中を覗き見、日向がいないことに気づく。
「風邪ひいて寝込んでるんだよ。」
拍子抜けしたように、肩を落として亮太は大人しくなる。
「…そっか。お前らが休んだからなー、先生からプリント届けろって頼まれたんだ。
これ、金曜日までに書いて提出だってさ。」
彼方が亮太から封筒を受け取る。
中を確認すると、中間テストの範囲が書いてある紙と、進路調査票が入っていた。
大人しくなった亮太を見て、彼方は先程日向が言っていたことが頭によぎった。
‐ちょっと喧嘩…した、から…。‐
「そういえばさ、…日向と喧嘩したんだって?」
そんな亮太に意地悪そうな笑みを浮かべる。
「喧嘩…っていうか、俺が一方的に日向を怒らせたっていうか…。」
亮太はごにょごにょと口ごもる。
先程までの勢いはどこに行ったのか。
「だから本当はプリントなんて口実で、直接謝ろうと思ってきたんだけど…。」
‐そんなの、ただの友達ごっこじゃないか‐
彼方は何故か目の前にいる亮太が、自分に告白してくる女子たちと同じように見えた。
何も知らないくせに、自分たちの世界へ無理やり入り込もうとする邪魔な人間。
二人だけの世界を脅かそうとする存在。
日向を、奪われるような気がした。
「…悪いけど、日向は亮太に会いたくないって。
顔も見たくないって言ってたよ。
あと、付きまとわれてうざいとか、本当に空気読めない奴だとか…言ってたよ?」
笑顔の仮面を被って、冷たく引き剥がす。
畳みかけるような言葉に、亮太の顔が、青ざめたように見えた。
「だから、ね?あんまり関わらないであげてよ。日向も困ってるからさ。」
ニッコリと、亮太の心をゆっくり踏み潰すように言葉を並べる。
亮太はショックのあまり、言葉を無くしたようだった。
「プリントありがとう。じゃあね。」
笑顔のまま、それだけ言って玄関の扉を閉め、鍵をかける。
‐邪魔だなあ。‐
日向は誰にも奪わせない。
ずっと守ってきた二人だけの世界を壊させない。
少し前までは、日向が亮太や他のクラスメイトと
少しずつ話をするようになったのを、喜んでいたはずなのに。
何故か今はそれが疎ましい。
矛盾している感情。
彼方は手のひらを握りしめ、大きなため息を一つ、吐いた。
自分の中にある黒い感情の名前を、彼方はまだ、知らなかった。