「強い決意と少しの揺らぎ」

 「強い決意と少しの揺らぎ」



家に帰って、しばらく経った。
将悟に心配されたが、恐れていた母親は、既に家にはいなかった。
少し拍子抜けしたけれど、きっと、またしばらく帰ってくることもないだろう。
一度出ていけば、一ヶ月は帰って来ない。
半年帰って来ないこともあったのだから、もう二度と帰って来なくてもいいのに。
そう思って、日向は無残に散らかった部屋を片付けた。

彼方がいない静かな家は、やはり少し寂しい。
けれど、きっと彼方は、夏休みが終われば帰ってくる。
そう信じることしか、今の日向にはできなかった。

置きっぱなしだった携帯には、
百合からのメールや着信がたくさん来ていた。
メールの内容は、日向の身を案じたものや、謝罪が綴られていた。
百合を泣かせてしまったこと、不安にさせてしまったこと、
それなのに、百合は自分の身を案じてくれたことに、心が痛んだ。
それと同時に、もう二度と百合を悲しませたくないと、日向は強く思った。


しかし、相変わらず、彼方からの連絡はなかった。

―男同士で、そんなふうにくっつくの、おかしいと思うよ…。

あんなことを言われた手前、なんと連絡を取っていいかわからず、
今はそっとしておこうと、日向から連絡を取ることはなかった。
夏休みが終われば、彼方も帰ってきて、全部元通りになる。
そう信じることしか、できなかった。

けれど、こんな弱い自分のままではいられない。
変わりたいと、強くなると、百合に誓った。
そのために、日向は今の環境を変えようと思った。

手始めに、髪を切って、バイトを始めた。
近くの飲食店の調理の仕事。
初めてするバイトは、最初はわからないことばかりで大変だったけれど、
面倒見のいい店長や、他のスタッフ優しくしてくれて、すぐに馴染めた。
人と関わるのは苦手だけれど、変わるために、少しずつ慣れていこうと努力した。

そのころにはすっかり頬の腫れも引いて、傷も少し薄くなっていた。
首筋の痣や、体中の傷は、まだ色濃く残っているけれど、
バイト先の人たちは、気にしている様子こそ見せたが、深くは聞いてこなかった。
それよりも、百合がつけたキスマークを茶化されたりして、
バイトに行くときだけは、絆創膏で百合の印を隠した。

卒業後の進路は、まだ悩んでいる。
けれど、進学するためには、とりあえず必要なのは学費だ。
彼方のことや、学費のこと、色々考えることもあるけれど、
働いていれば、少しは気が紛れた。

毎日朝からバイトをして、それが終わったら百合と過ごした。
慣れないバイトで体は疲れているけれど、百合の笑顔を見たら、
疲れなんて、まるで嘘のように消えていった。

「髪の毛、すっかり短くなっちゃいましたね。」

百合は、短くなった日向の髪を指で梳きながら、ポツリと呟く。

夕暮れ時、二人は日向の家のリビングで、
ソファーに身を寄せ合いながら、映画を見ていた。
たまたまテレビを付けたら放送していた、数年前に流行ったミステリー。
その映画も終わりを迎えて、画面にはエンドロールが流れていた。

「長いと暑いし、バイトもあるからな。」

日向は、百合の手に自分の手を重ねて、小さく微笑む。
指先から伝わる、百合の優しい体温が好きだった。

「私は長いのも好きですよ。
 もちろん、今の髪が短い日向先輩も、大好きです。」

そう言って、百合は柔らかく微笑む。
そんな百合の温かい笑顔も、日向にとっては幸せを感じられるものだった。

「俺も、好き…。」

そう小さく呟いて、照れくさそうに、日向は百合を抱きしめる。
あの日から、日向は照れながらも、百合に「好きだ」と言うようになった。
手を繋ぐのも、抱きしめるのも、日向から求めることが多くなった。

少しずつ、ゆっくりと、日向は変わろうとしている。
まだ少し無口で口下手だけれど、以前よりは感情表現が豊かになったし、
恥じらいながらも、ゆっくりと、自分の思ったことや、
考えていることを、少しずつ、口にするようになった。

「自分で切ったんですよね。すごいなあ…。
 あ、そうだ!日向先輩、美容師さんになったらどうですか?」

百合は思いついたように、目を輝かせて、日向を見つめる。

「でも、美容師なんて女の人ばっかりだろ?なんかなあ…。」

日向は考えるように、俯いて首を傾げる。

接客なんて苦手だし、特に日向は女性が苦手だ。
男と違って、女性にはどう接していいかわからないし、
百合以外の女性と接することも、今まであまりなかったと思う。
専門学校や、職場のスタッフ、お客さんなど女性ばかりの環境は、日向にとっては少し辛い。

「いいじゃないですか!男の人の美容師さんってかっこいいと思いますよ!」

あまり乗り気ではない日向と裏腹に、百合は目を輝かせて力説する。
日向は、そんな百合の無邪気な様子も、可愛いと思う。
日向はいつも自分で髪を切っていたため、美容院になんて行ったことはないが、
雑誌やテレビで見る限りは、男性の美容師なんて極稀なんじゃないかと思う。

けれど、百合に「かっこいい」と言われたら、少し心が揺らぐ。
これが、惚れた弱みとでも言うのだろうか。

「…ホント?」

首を傾げたまま、日向は百合に窺う。

「はい!それに、日向先輩なら、絶対似合います!」

自信満々に微笑む百合が眩しくて、
美容師が似合うだとか、美容師になれる確証もないのに、
何故か、見えないはずの将来への不安なんて、吹き飛んでしまう。

「…じゃあ俺…美容師になろうかなあ。」

ポツリと日向が小さく零すと、百合は一層嬉しそうに笑った。

「まあ、すぐに専門学校、っていうわけにはいかないけど、
 卒業したら一、二年バイト続けて、学費貯めないとな。」

美容系の専門学校は、結構学費が高いと聞く。
卒業したらしばらくフリーターになって、働くことを覚悟しなければならない。

「日向先輩の手は、優しい手だから、
 絶対、美容師さんに向いてると思いますよ。」

そう言って、百合は日向の手を取り、指を絡めた。
自分より、はるかに小さい百合の手。
子供のように小さなこの手は、いつだって力強く自分を導いてくれる。
日向は、この小さな少女に、何度も何度も救われた。
きっとこの先も、百合がいれば、何があっても自分は大丈夫だ。
そう、日向は思った。

「あ、そうだ!今度、日向先輩のバイト先に、
 友達と一緒に、ご飯食べに行ってもいいですか?」

指を絡めたまま、百合は日向を見つめて、ニッコリと微笑む。

「いいけど…なんか恥ずかしい。」

そう言って、日向は百合の手をぎゅっと握る。
指先から伝わる体温に、ひどく安心感を覚えた。

「友達に自慢するんです!私の彼氏は優しくて、
 カッコよくて、こんなに素敵な人なんだよって!」

百合も日向の手を握り返して、嬉しそうに微笑む。
迷いもなく、自分に「カッコいい」や「素敵」なんて言う百合に、
日向は、少し恥ずかしくなってしまう。
今まで誰かにそんなことを言われたことなんてなかったから、照れくさい。

「俺…そんなに、自慢できるような男じゃないと思うけど…。」

照れくさそうに、百合から目を逸らして、少し俯いた日向は、小さく呟く。
「彼氏」という言葉が、なんだかくすぐったい。
実際、自分は百合の彼氏なのだが、口に出してそう言われると、
なぜか少し、恥ずかしくなってしまう。

「何言ってるんですか!日向先輩は私の自慢の彼氏ですよ!」

そう言って、百合は目を逸らした日向の顔を覗きこむ。
覗き込んだ日向の顔は、照れて赤く染まっていた。

「…馬鹿。」

日向は照れ隠しのように、百合を抱きしめる。
照れて赤くなった顔を見られるのは、少し恥ずかしい。
それに、抱きしめた百合の、細いのに柔らかい体が好きだった。
百合の肩口に顔を沈めて、ふわりと香る甘いシャンプーの香りに酔いしれる。

「もー。日向先輩ったら、すっかり甘えんぼですね。」

クスクスと笑いながら、百合は日向の髪を撫でる。

「…もっと甘やかして。」

日向は、目を閉じて百合の温もりを感じながら、小さな声を洩らす。
人に甘えるのは苦手だったけれど、百合にだけは素直に甘えられるようになった。




慌ただしいランチタイムを終えて、時刻は15時過ぎ。
日向は、いつものようにバイトを終えて、家に向かう。
この後、百合に会う予定があるが、一度帰ってシャワーを浴びたい。
バイト先の飲食店は冷房がついているが、バイト中は何の意味も成さない。
厨房での調理の仕事は、常に火を使っているため、バイト終わりはいつも汗だくだった。

今よりシフトを長くして夜まで働けば、もっと学費を稼げるけれど、
百合と過ごす時間も、日向にとっては大切なものだった。
早く会いたい。そんな思いから、バイトの後はいつも少し早歩きになる。

家に着いて、日向は玄関の扉を開ける。
すると、そこには見慣れない靴が、雑に脱ぎ散らかっていた。
母親の靴とは違う、少し高そうな男性用の革靴。
こんな革靴なんて家で見たことはない。
誰が、来ているのだろうか。

日向は玄関に立ち尽くして考えていると、
その人物はひょっこりと、リビングから顔を覗かせた。

「おかえり、日向。」

そう言って姿を現したのは、彼方だった。

「…彼方、帰ってたのか。」

自分を見て、彼方は嬉しそうに微笑んでいるけれど、
以前より痩せて、その表情は、少し疲れているようだった。

「どこ…行ってたの?」

前までの冷たい視線とは違い、日向の顔色を窺うように、
不安そうな瞳で、躊躇いがちに彼方は問う。

「あ…えっと…バイト。」

日向は口ごもりながら答える。
久々に会うと、どういう顔をしていいか、わからない。
前に会った時の彼方の態度を考えれば、尚更だ。

「…そうなんだ。何のバイトしてるの?」

そう言って、彼方は微笑む。
けれど、日向にはその笑顔が、いつもと違うように見えた。
自分が好きだった彼方の笑顔と、何かが違う。

「近くの飲食店の…調理の仕事。」

彼方の揺れた髪の隙間から、何か赤いものが光った気がした。
あれは何だろう。ピアスだろうか。
痛がりで、怖がりな彼方が、ピアスを開けるなんて、
いったいどういう風の吹き回しだろう。

彼方の様子を不思議に思いながら、日向は靴を脱いで、家に上がる。

「そっか。…頑張ってるんだね。」

その様子を見て、彼方は日向に背を向けて、リビングに入っていく。
日向も、その後に続いて、リビングに荷物を置いて、上着を脱ぐ。
首に巻いたストールも外して、上着と共にハンガーに掛けた。
几帳面なのは、いつもの癖だ。

静かにソファーに座った彼方は、伏し目がちに肩を落として、
落ち込んでいるような様子だった。

「どうした?なんか…元気ないぞ。」

日向はそう言って、少し躊躇いがちに、彼方の隣へ座る。
傍に寄れば、また拒絶されるのではないかと、少し不安だった。
しかし、彼方は隣に座った日向を拒絶することはなく、
俯いたまま、ゆっくりと、たどたどしい言葉を紡いだ。

「うん…。あのね…日向と…少し、話がしたいな、って…思って…。」

そう言って顔を上げた彼方は、日向を見て、驚いたような表情をした。

「ちょっと待って…。なんで…こんな…。」

呆然とした様子で、彼方は日向の首を、そっと指でなぞる。
彼方が触れたのは、母親に首を絞められた時にできた痣だった。

そういえば、彼方は母親が帰ってきていたことを知らない。
自分が母親に、「殺してくれ」と乞うたことも知らない。
つい、いつもの癖で、家に帰ってすぐ、
上着を脱ぐのと一緒に、首の痣を隠すストールを外してしまった。

「…これくらい、平気だ。」

そう言って、日向は目を逸らす。

「平気なわけないでしょ!?
 こんなことされて…死んじゃったら…どうするの…。」

彼方は、縋るように日向の肩を掴んで、泣きそうな顔をした。

「…俺は平気だよ。最近は、あの人も帰ってきてないし。」

彼方もこの痣が誰につけられたものなのか、わかっているのだろう。
こんな痣を付けるのは一人しかいない。
日向は、母親を「母親」とは、呼ばない。
あんな人のことを、母親だとは認めたくはない。

「なんで…なんで、こんなことになってるのに…っ、
 どうして…連絡してくれなかったの!?」

彼方の瞳は、涙で揺れていた。
瞳いっぱいに涙を溜めて、堪えようとするが、それができない。
いつもの、心配性で泣き虫な彼方だ。

「心配…してくれてるのか?」

日向は驚いた。
今までの素っ気なく冷たい態度とは違う、その瞳は、ちゃんと日向を映していた。
仲の良かった以前のように、自分に寄り添って、縋っていた。

「当たり前でしょ…。僕は…っ、日向がいないと…生きていけないのに…っ。」

辛そうな声を洩らして、彼方は日向の肩を掴んだまま、
日向の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
日向はそんな彼方の背を撫でて、何故か少し安心していた。

彼方が帰ってきた。
避けたりしないで、自分の隣にいてくれる。
目を逸らさずに、自分のことをちゃんと見てくれる。
こんな姿の自分を見て、泣いてくれる。
これで、何もかも元通りだ。
もう何も心配することはない。

そう、日向は思った。

「…ねえ。この家を、出よう。」

ポツリと、日向の胸に顔を埋めたまま、彼方は呟く。
仄かにシャンプーや香水とは違う、甘ったるい香りがした。
何の香りだろう。少し煙のような匂いみたいだと思う。

「この家を出て、二人で…二人だけで…、
 母さんも、誰も…いないところへ…逃げよう。」

肩を掴む手が、少し震える。
それでも彼方はぎゅっと、日向の肩を掴む手を、離さなかった。

「…俺たちに、行くとこなんて…ないだろ?」

日向の言葉に、彼方は涙を手で拭って、顔を上げる。

「日向は何も心配しなくていい。僕が用意するから。」

顔を上げた彼方は、真っ直ぐに日向を見つめて、力強い声で言った。
その表情は真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。

「何言って…。」

何処かへ逃げることなんて、できない。
学校があって、バイトがあって、将来があって、
自分たちは、この狭い選択肢の中で、生きていかなくてはいけない。
逃げたところで、その先に何がある?
こんな高校生の自分たちに、住むところも、働くところさえあるか怪しいのに。
それに、自分には、守りたいものもできた。
それを捨てることなんて、できない。

ちゃんと言わなければ。
自分が選んだ、進路のことを。
彼方が望んだ、将来のことを。

「夏休みも、もう終わるし…バイトもあるし、
 それで、俺…卒業したら、美容師の専門学校行こうかな、って…。」

日向は、不器用に言葉を紡ぐ。

ちゃんと、彼方に言われた通りに、進路も決めた。
変わることを怖がって、足が竦んで選べなかった、
二人一緒じゃない、自分自身の将来。

それは、たった一人の小さな少女のおかげだった。
彼女を守るために、強くなると誓った。
強い決意で、変わることを選んだ。

全部、彼方に伝えなければ。


「彼方…俺、…彼女ができたんだ。」


麻丸。
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