「偽りの家族」

 「偽りの家族」



営業も終わり、誠は店内の片付けをしていた。
客や他の従業員はもう帰ってしまったし、
優樹はいつも通り、酔い潰れてソファーで眠っていた。

テーブルを片付けて、床を掃除して、クラスを洗いながら、誠は考える。

優樹の周りには、人が集まる。
京子に、彼方、従業員や、たくさんの客。
それが心地よくもあり、たまに煩わしくもなってしまう。
だから夏と冬、一週間だけ仕事を休んで、一人になる。
何をするわけでもなく、ただ静かに一人でいることが好きだからだ。

誠には、二つの顔がある。
「みんなのお兄ちゃん」という、いつもの明るくお喋りな自分。
そして、素のままの、根暗で疑い深い、昔のままの自分。
前者は店や人前で見せる、営業用。
後者は優樹しか知らない、ありのままの姿だ。

ヘラヘラ愛想笑いをするのは、疲れる。
そう思ってしまうあたり、いくら憧れている優樹の真似をしても、
優樹と自分は、全く違う人間なのだと思わされる。
優樹のように、屈託なく、楽しそうに無邪気に笑えるのが、羨ましい。
必死に真似をしようとしても、やはりどこか違う。
顔では笑っているが、心の奥は渇いているような気がする。
顔が引きつっていないか、ちゃんと笑えているか、不安になってしまう。
だから、一人で考える時間が必要なのだ。

まあ、今年の夏休みは、あまり一人になる時間はなかったのだけれど。
バンドの曲を作るために、将悟の家に泊まり込むのは二、三日の予定だった。
けれど、日向の事件があったため、結局ほとんど一人にはなれなかった。

正直、面倒だと思った。
けれど、バス停で日向を見つけた時、一緒にいる相手が悪かった。
将悟は世話焼きで、馬鹿なお人好しだ。
彼は、誰が倒れていようが、迷わずに助けようとする。
それをを止めたり、自分が冷たい人間だと思われる方が、遥かに面倒だと思った。
だから、あの時は仕方なかったのだ。
一人でいたなら、倒れている人間になんて、見向きもしなかったのに。
冷たい言い方だけれど、他人がどうなろうが、知ったこっちゃない。
知らないフリをしていれば、面倒事は回避できる。
他人事だ。自分には関係ない。
自分は、自ら面倒事に首を突っ込もうとする将悟とは、違う。

そんな将悟を「馬鹿だ、お人好しだ」と思いつつ、やっぱり羨ましかった。
他人のために、どうしてそこまでできるのか。面倒だとは思わないのだろうか。
どうしてそんなに純粋で真っ直ぐに、「正しさ」を疑わないのか。
こんな薄汚れた自分とは違う。
自分の周りには綺麗な人間ばかりだ。
そんな綺麗な人間に紛れた自分は、浮いていないだろうか。
ちゃんと綺麗な人間のフリを、できているだろうか。

そんなことを考えながら、グラスを洗い終えて、手を拭く。
そして、洗い場を離れて、ソファーで静かに眠る優樹の寝顔を見つめてみる。

優樹は今年二十八歳になるはずだ。
小奇麗にしているから、年齢よりは若く見えるけれど、
無防備な寝顔の目尻には、小さな皺ができていた。
優樹とは八年くらいの付き合いだが、最初に出会ったときよりも、
お互い大人になって、お互いに老けたと思う。
そりゃそうだ。何の苦労もなしに、ここまで来たわけじゃない。
当然だが、苦労や悩みがない人間なんて、いないだろう。誰だって悩むし、落ち込む。
けれど、優樹はいつも笑っていて、悩んでいる姿や、落ち込んでいる姿を見せない。
それは強がりなのか、隠しているだけなのか、優樹はいつも気丈に振る舞っていた。

「優樹君。片付け終わったから、そろそろ起きろよ。」

そう言って、ソファーで眠る優樹の肩を揺さぶる。
このままソファーで寝かせておくわけにはいかない。
風邪をひいてもらっても困るし、そろそろ起こしてあげないと。

「んー。」

低く唸って、寝返りを打つ。そう、優樹は寝起きが悪い。
寝起きが悪いと言うより、一度眠ってしまったら、なかなか起きない。
声を掛けても、揺さぶっても、「うーん」と声を上げるだけで、起きる素振りはない。

「もうみんな帰ったんだけど。」

誠はため息を吐きながら、優樹の眠るソファーの隣に座る。
優樹はもぞもぞと身動きをして、少し顔を上げた。
珍しい。いつもは全然起きないのに。

「…今何時?」

「七時前くらい。」

「マジか。俺超ぐっすりだったな。」

「いつものことだろ?」

口調がいつもと違うのは、優樹の前だからだ。
優樹の前でだけは、素の自分でいられる。
下手な愛想笑いなんてしなくていい。楽だ。

優樹はゆっくりと体を起こして、ソファーに座る。
元々のパーマなのか、寝癖なのかわからないくらい髪が跳ねていた。
そんなことを気にする様子はなく、優樹は大きな欠伸を一つして、
ポケットから煙草を取り出し、咥えた。
そして眠そうな顔のまま、煙草に火を点ける。
寝ている間に優樹の体の下敷きになったのか、煙草の箱は潰れていた。

「誠ー、お茶飲みたい。」

紫煙を吐き出しながら、優樹は甘えた様な声で呟く。

「ウーロン茶?」

誠はカウンターに戻って冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中は綺麗に整頓されていて、酒やソフトドリンクが大量に詰め込まれていた。
お茶類は一番上の棚。様々な種類を取り揃えている。

「んー、緑茶。」

「はいはい。」

手前の方から緑茶が入ったペットボトルを取り出し、グラスに注ぐ。
せっかくグラスを全部洗ったのに、と思いながらも、誠は優樹には逆らえない。
それが何故だかはわからない。優樹を慕っているからこそ、だろうか。
まあ、グラスの一つや二つ、また洗えばいいか。
そう思って、誠は冷蔵庫の奥の方から、コーヒーの入ったペットボトルを取り出して、
グラスをもう一つ用意して注ぐ。これは自分の分だ。

その二つのグラスを持って、誠は優樹の元へと戻る。
そして、緑茶が入った方を、優樹の座るテーブルの前に置く。

「サンキュ。」

そう言って、優樹はまだ眠そうな目を擦って、グラスに口を付ける。
そして、優樹の座るソファーの、隣のソファーに座る。
遠すぎず、近すぎず。これが、ちょうどいい二人の距離だ。
窓の外を見れば、空は高く、眩しいくらいの朝日が差し込めていた。
日差しに目を細めて、誠はグラスに入ったコーヒーを飲む。
朝に飲むコーヒーは美味しい。少し酔った頭をスッキリさせてくれる。

優樹の方を見れば、なにやら考え事をしているように、難しい顔になっていた。

「何考えてんの?」

優樹は俯いたまま、紫煙を吐き出す。
白い煙が、広がって、薄まっては消えた。

「いや…彼方、大丈夫かなと思って。」

そういえば、今日いきなり彼方が、仕事を休みたいと優樹に連絡してきた。
彼方が仕事を休むのは珍しい。それも当日になって、突然に。
何をしているのかは知らないけど、誠は気にも留めなかった。
だって他人になんて興味がない。ただ、優樹の邪魔をしなければ、それでいい。

けれど、優樹は一日中彼方のことを気にしていた。
女のところに行っているなら、別にそんなに気にしなくてもいいのに。
どうせ今頃、仕事のことなんて忘れて、女と仲良くしているのだろうから。

優樹は彼方のことを気にしている。
いや、彼方のことを、特に贔屓目で見ている。
そのことが、何故か、気に入らない。

「…優樹君って、アイツのこと、すごい気にしてるよな。」

面白くない。どうしてあんな奴のことを、優樹は気にするのか。
優樹には、アイツの胡散臭さがわからないのだろうか。
何故、疑わずにいられるのか。

「そりゃ、アイツは夜の仕事も経験ないし、まだ若いし、それに…」

そう言いながら、優樹は深く煙草の煙を吸い込む。
そして、ゆっくりと吐き出す。
白い煙は、優樹に纏わりつくように膨らんだ。

「昔のお前に、似てるだろ?」

いつものように、優樹は笑う。
目尻に薄い皺を寄せて、屈託のない無邪気な笑み。

「俺に?」

思ってもみない言葉に、誠は呆気にとられたように、口を薄く開いた。
似ているだなんて、なんだそれ。自分と彼方は全然違う。
自分は、あんなに愚かではない。

「『世界に信じられる人間なんていませーん。
 みんな自分のことわかってくれませーん。人間なんて嫌いでーす。』って感じ?」

大袈裟に両手を広げて、優樹は意地悪な笑みを浮かべる。
別に、嫌みで言っているわけではない。優樹はこういう人間だ。素直なだけだ。
茶化すように言うが、昔の自分のことを口に出して言われると、少し恥ずかしい。

「俺…そんな風に見えたわけ?」

誠はポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
照れ隠しのように、気持ちを落ち着けようと煙を吸い込む。
優樹の煙草より重い、小さな星の絵柄が散りばめられた煙草。
高校の頃から、一度も銘柄を変えることもなく、吸い続けていた。
立ち込める深く強い香りが、好きだった。
煙が重く留まって、肺を汚す感覚が好きだった。

「あの頃のお前は、反骨精神の塊だったろ?」

確かに、優樹と出会ったころは、やんちゃ盛りだった。
けれど、もうそういう人間と付き合うのは止めた。
あの頃の自分を知るのは、優樹だけだ。

「…昔の話だろ。」

「今でも変わらないんじゃねーの?」

「これでも、あの頃よりは大人になった。」

優樹は「そーかそーか」と言って笑った。
鈍感そうに見えて、変なところは鋭いと思う。
確かに、優樹に比べれば、まだ自分は子供のままかもしれない。
いくら成人を迎えても、大人になった、だなんて、確かな実感は湧かない。
二十五歳になっても、自分はちゃんとした大人になれたのか、不安に感じる時もある。
優樹のように、堂々と、ずっしり構えることなんて、まだ、できない。

そもそも子供と大人の境界とは何だろう。
二十歳未満が子供?二十歳を超えれば大人?
未成年でも、自分よりしっかりした人間もいる。
逆に、成人していても、どうしようもなく未熟な人間だっている。
境界なんて曖昧じゃないか。自分はどっちなのだろう。
大人の自覚なんてない。けれど、子供のままでもない。
自分は、大人になり損ねた子供なのかもしれない。

優樹は短くなった煙草の火を消し、大きく息を吐く。
そして緑茶を一口飲んで、誠を見据える。

「彼方も、そろそろ仕事始めて一ヶ月くらいだろ?
 一ヶ月って言ったらさ、仕事も慣れて、余裕が出てくるころだ。
 だからこそ、迷いが出てくる時期だ。」

真面目な大人の顔で、優樹は言う。
優樹は無邪気な子供のように見えて、誰よりも大人だ。
それは年齢だけじゃない。考え方もしっかりしている。

「迷い?」

誠が聞き返すと、優樹はしっかりと頷いた。

優樹はよく周りを見ていると思う。
自分が『他人事だ』と、知らないフリをして、背を向けたことでさえ、
優樹は気付いて、自ら歩み寄り、話を聞き、解決しようとする。
こう見えて、優樹は人の感情の些細な動きに敏感だ。

「ああ。誰だって夜の仕事始めた時は、悩むだろ。
 『なんでこんなことしてるんだろう』って、
 慣れてきたら、『いつまでこんなこと続けるんだろう』って。」

確かに、夜の仕事なんて、不安定だ。
先が見えないし、いつまでも続けられるわけではない。
ただただ、忙しい毎日の繰り返し。未来なんて、見えやしない。
どんどん普通の世界から、切り離されている錯覚さえする。

「優樹君も?」

「まーな。」

「そんな素振り、全然なかったじゃん。」

自分がいつも見てるのは、気丈に笑う優樹ばかりだ。
優樹が迷ったり、悩んだりする姿を、見たことがない。
強気で無邪気で、頭が冴えて、しっかりとしている大人。
優樹は自分の弱い部分を、人に見せない。

「当たり前だろ。そんなカッコ悪い姿見せたくねーもん。
 それに、俺がウダウダ悩んでたら、お前らが不安になるだろ。」

そう言って、優樹はまた一本、煙草を咥える。
火を点けて紫煙が揺らめくと、いつものキラキラとした笑顔を見せる。

「俺は、『みんなのお父さん』だからな。」

ほら今も、強気に笑っている。
誰よりも苦労しているはずなのに、そんな素振りを微塵も見せない。
見せないんじゃない。見せられないのだ。
誰からも頼りにされるからこそ、誰にも頼れないのだ。

「…お父さんは大変だな。」

そう言って、冗談めかして大袈裟に肩を竦めてみる。

「誠だって、『みんなのお兄ちゃん』だろー?」

優樹はケラケラと無邪気に笑う。
この男は『家族ごっこ』にこだわる。
それはきっと、早くに家族を亡くしているせいだろう。
優樹がみんなのお父さん。自分がみんなのお兄ちゃん。
彼方がみんなの弟で、京子は優樹の娘。
亡くした家族の代わりに、優樹はこの偽りの家族関係を、大事にしている。

強がっていたって、弱さを見せなくたって、優樹も寂しいのだろう。
寂しさを埋めるために、他人に愛情を与える。
それが優樹の居場所の作り方。自分とは全然違う、綺麗なやり方。

「でも、お前は彼方のこと、苦手みたいだな。」

紫煙を吐き出しながら、優樹は呟く。
相変わらず、鋭い。

「…そんなに、わかりやすかったか?」

本当に人のことをよく見ていると思う。
確かに彼方のことは気に入らないが、
それを匂わせるようなことを言ったことはなかったし、
営業用の『みんなのお兄ちゃん』の仮面を被って、
態度に出しているつもりもなかった。
ちゃんと隠せているつもりだった。

「いや、なんとなく。彼方にはバレてないんじゃね?」

優樹がそう言うなら、安心だ。
優樹以外には、気づかれてはいないだろう。

誠は灰皿に煙草を押し付けて、煙草の火を消す。
そして、少し考える。
このタイミングで、言うべきか、言わないべきか。
自分は知っている。彼方が嘘を吐いていることを。
けれど、言ってしまったら、面倒事になりそうだし、優樹を悩ませる。
きっと誰にも悩む姿なんて見せずに、一人きりで。
だったら、言わない方がいい。

「…アイツ、胡散臭いだろ。」

そうだ、適当に誤魔化そう。
胡散臭いから気に入らない、それでいい。
それ以上は、言う必要はない。

しかし、優樹は小さく微笑んだ。

「まあ、なんか隠してるだろうな。」

そう言って、優樹は咥えた煙草の煙を吸い込む。

驚いた。優樹も怪しいと思っていたのか。
誰のことも疑わない男だと思っていたのに。

「でも、それはしゃーないじゃん?
 誰にだって、人に言えないことの一つや二つあるものだし。
 お前だって、ヤンキーやってたこと、みんなに黙ってるだろ?」

紫煙を吐き出しながら、優樹は笑う。

「それは…まあ、そうだけど。」

昔、自分がやんちゃしていたことを、隠しているつもりはない。言わないだけだ。
言ったところで、どうにかなるわけでもないし、昔のことだ。
若気の至りだったんだ。今更になって、言う必要はない。

「だろー?彼方にだって、言えないことくらいあるさ。
 女のことだって、隠してるみたいだったけどな。アイツ、バレバレだっつーの。」

軽い調子で、優樹はケラケラと笑う。

彼方が隠しているのは、そんなことじゃないのに。
けれど、誠は黙っていることを決めた。
どうせ、あと一週間くらいで九月になる。
そうすれば、彼方はいなくなる。
ならば、波風を立てる必要はない。

「さっすが。みんなのお父さん。」

「まーな。お前らは、俺の息子みたいなもんだからな。」

『家族ごっこ』であったとしても、優樹はこの関係を大事にしている。
この関係を守るために、優樹は頼れる男であり続ける。
こうして自分の居場所を守っている。強い、男。

「それに、俺は自分を頼ってくれる奴を、見捨てたりしねえよ。」


そう言って、優樹は強気な瞳で笑った。

麻丸。
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麻丸。

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