「傷口を覗く」

 「傷口を覗く」



「ねえ…俺を殺さないで…。」

あの夜、日向を自分のものにした。自分だけのものにした。
弱い日向が好きだ。脆い日向が好きだ。
嫌われるのを怖がり、孤独を恐れる日向が好きだ。
自分がいないと、どうしようもなく不安になる日向が好きだ。

日向は、彼方がもう二度と帰って来ないかもしれないと話した。
落ち込んでいたあの日、何があったかを話した。
切なそうに、辛そうに、瞳を揺らしながら、声を震わせて、全てを話してくれた。
独りが怖いと、言葉なんて信じられないと、不安そうに震えていた。

弱い日向。脆い日向。
そこに、自分はつけこんだ。
「自分だけを愛してくれれば、自分は絶対に離れていかない」と、そう言った。
「彼方のことなんて忘れて、自分だけを見て」と、そう言った。
日向は少し戸惑って、「本当…?」と、弱弱しい声で聞いた。

日向は迷っていた。言葉を、疑っていた。
だから、百合は日向の首筋に、キスをして、印を付けた。
約束の印。誓いの印。疑いようのない印。自分のモノだという、独占欲。

日向はその印を手で覆って、「信じて…いいんだよね…?」と、窺うような視線を向けた。
そんな不安そうな日向の瞳に、百合は大きく頷いて、その不安を取り除くように、日向を抱きしめて、キスをした。
唇が離れると、日向は泣きそうな顔で、「約束するから、…絶対に離れていかないで。」そんな切ない言葉を洩らした。

どうして泣きそうな顔だったのかは、わからない。
けれど、日向は彼方ではなく、自分を選んだ。
日向の一番は、自分だ。
彼方になんて、渡さない。

その日から、日向は彼方の話をしなくなった。
彼方のことを、忘れたフリをしてくれた。
自分のことを、一番に考えてくれた。

学校が始まってからは、夏休みより少しだけ、日向と過ごす時間が減った。
専門学校の学費のために日向がバイトを続けるのは、仕方がない。
それでも、毎日献身的に駅まで送り迎えをしてくれるし、バイトが休みの日は、必ず自分のために時間を空けていてくれる。
自分は日向に愛されている。
日向は自分を愛してくれている。

学校とバイトの両立は大変だろうに、日向は弱音を吐くことはなかった。
その代わり、バイトが休みの日は、いつも以上に自分に甘えてくる。

今日だって、誰に見られるかもわからない屋上で、抱きしめて、キスをした。
日向は、自分が亮太とメールをしていることに嫉妬して、拗ねていた。
子供のように唇を尖らせて、面白くない、というような顔をしていた。
日向はわかりやすい。本当に、可愛い人だと思う。

自分だけに甘えてくる日向が好きだ。
自分の温もりを欲しがり、キスを強請る日向が好きだ。
まるで自分が日向を支配しているようで、優越感に浸る。

せっかく今日はバイトが休みだからと、久しぶりに日向の家に入れてもらった。
夏休みは毎日来ていたのに、何故か懐かしい気落ちになる。
新学期が始まって、まだ三日しか経っていないのに。

相変わらず整頓されていて、静かで寂しいリビングだった。
窓の外のベランダには、既に乾いているであろう洗濯物が干してある。
真っ白なタオルと、日向のバイト先のエプロンや、制服のシャツ、寝巻や下着。
それは日向一人分しかなくて、寂しそうに風に揺れていた。
おそらく、学校に行く前に干しておいたのだろう。
几帳面に、毎日自分で洗濯をしているのか。

日向はこの家で、生活に必要な家事を、全部一人でこなしてきたのだろうか。
いや、彼方も手伝っていたのだろうか。二人で協力して生活していたのだろうか。
炊事も、洗濯も、掃除も、幼いころから身に着けて、帰って来ない母親を充てにもせず、誰かに頼ることもなく生きてきたのか。

寂しい人。可哀想な人。
百合はそんな日向を独占欲で支配して、そして、甘やかしたかった。
唯一自分の隣が、日向の安らげる場所であってほしかった。

テーブルの隅に、彼方の名前を書いたプリントが、ぐちゃぐちゃに丸められてた。
おそらく、夏休みの宿題だろう。あの綺麗な字は、日向の字だ。
彼方の代わりに宿題をやってやろうとして、辞めた。そんなところだろうか。
当然だ。日向は自分を選んだ。彼方を忘れることを選んだ。
あのプリントは、見て見ぬフリをしよう。

いつも通り、テレビを付けて、リビングのソファーに隣り合って座る。
寄り添うように日向の肩に頭を置いて、ぴったりとくっつく。
日向が着込んだ制服の学ランの肩は、少し硬い。

「制服、暑くないんですか?」

「エアコン付けたから、平気。」

そう言って、日向は百合の髪を梳く。

日向が夏でも制服の上着を着込む理由は、夏休みに知った。
虐待を受けて傷ついた体を、他人に見られたくないのだろう。
だから日向は、誰にもその素肌を見せることはない。頑なに素肌を晒さない。
制服でも私服でも、真夏の炎天下の中ですら、長い袖で傷跡を隠そうとする。

自分だけには、見せてくれてもいいのに。
日向の全部が、見たいのに。
日向の全部が、欲しいのに。

「私の前でくらい、隠さなくてもいいのに。」

ポツリと百合が零すと、日向は少し悲しそうな顔をした。

「見たくないだろ?…こんな体。」

やっぱり日向は、傷を恥じているのか。
その傷を見られて、嫌われることを怖がっているのか。
日向の肌は、日焼け一つしていなくて、白くて綺麗なのに。

「私は見たいです。日向先輩の全部が見たい。」

「全部って…。」

日向が言いきらないうちに、百合は日向の肩に手を添えて、日向にキスをした。
うんと背筋を伸ばして、首を伸ばして、唇で言葉を遮る。
触れるだけの、少し長いキス。
日向は驚き、でもすぐに百合を抱きしめてくれた。

「どうした?急に。」

唇が離れると、日向は不思議そうに首を傾げた。
けれど、百合は構わず日向の首筋にキスを落とす。
何度も何度も、場所を変え、角度を変えて、唇で日向の首筋をなぞる。
そして、日向の学ランの上着のボタンを、ゆっくりと外していく。

「ゆ、百合…?ちょ、ちょっと待って!」

肩を掴まれて、無理矢理に引き剥がされる。
日向は驚いて、目をパチパチと瞬かせた。

ちょうど、上から三つめのボタンを外そうとしているところだったのに。
着崩れた上着からは、白いカッターシャツと、その下に紺のTシャツが覗いていた。
一体何枚着ているのか。用心深いにもほどがある。

「だって、日向先輩、脱いでくれないでしょう?」

その傷だらけの、綺麗な肌が見たい。
傷付きやすい、心の内側が見たい。
日向の全てを、暴いてしまいたい。
自分だけには、見せてほしい。

「脱いでくれないって…脱がせたいの?」

「はい。」

「駄目に…決まってるだろ。」

日向は困ったように眉を下げる。
そして、恥ずかしそうに、目を泳がせた。
それでも、用心深く外されたボタンをしっかりと握って、学ランを閉めている。

「それに、女の子が簡単にそんなこと言ったら駄目だ。」

「どうしてですか?」

「それは…その…。」

また日向は過保護になる。まるで恋人ではなく、保護者みたいだ。
お父さんみたいだ。いや、父親よりも父親らしいことを言う。
「スカートが短すぎる」だとか、「人前でそんなに肌を晒しちゃダメ」だとか。
そんなこと、気にしなくていいのに。日向だから見せているのに。
それが照れ隠しだとはわかっているけれど、少し面白くない。

「恋人同士なんだから、いいじゃないですか。」

百合はわざとらしく頬を膨らませて見せる。
自分が拗ねると、日向は弱い。
日向は怯んで、困った顔になっている。

「俺…百合のこと大切にしたいって、言っただろ…?」

そう言って、日向は恥ずかしそうに口元を手で覆う。
そして、たどたどしく言葉を洩らした。

「だから…その…そういうことは…まだ、早い…と思う…。」

照れているのか、緊張しているのか、少し早口だった。
頬が赤くなっている。視線が忙しなく泳いでいる。
けれど、「そういうこと」とは、何を考えたのだろう。
日向は、何か勘違いしている気がする。

「日向先輩…もしかして、えっちなこと考えました?」

そう言って、百合が日向をじっと見つめる。
日向は明らかに動揺したように、口をパクパクとさせた。

「え…あ…!いや、その…」

日向は顔を真っ赤にして、口ごもる。
どうやら図星だったみたいだ。
こういう、うぶなところは、可愛い。
そんな日向を見て、百合はつい、笑ってしまう。

「ふふっ。違いますよ。ただ、私の前だけは普通でいてほしかったんです。」

「普通って…?」

日向はまだ少し赤い顔のまま、首を傾げる。
まだ少し警戒しているのか、窺うような視線だ。

「私は日向先輩の恋人だし、せっかくお家で二人っきりだから、傷なんて隠す必要なんてないじゃないですか。
 見られたくないのは、わかってます。でも、せめて、私にだけは見せてほしい。
 私だけは、日向先輩の全部をわかってあげたい。私は日向先輩の彼女なんですから。」

真っ直ぐに日向を見つめて、言う。
言葉の一つ一つに想いを込めて、強く、響くように。

「でも…」

不安そうに日向は瞳を揺らす。

「大丈夫。綺麗ですよ。日向先輩の肌は、綺麗です。」

日向の不安を取り除くように、強い声で言った。
日向は目を伏せて、少し考えているようだった。

「綺麗なんて、…男に言う言葉じゃないだろ。」

「そうですか?私は日向先輩のこと、綺麗だと思いますけど。」

そう言って、百合は日向の手を取り、制服越しに日向の腕にキスを落とす。
この下に隠れた日向の傷跡を癒してあげたい。
隠さないでいいんだと、そのままでいいのだと、伝えてあげたい。

日向は、しばらく長い眉毛を揺らして、俯いていた。
そして、決心したように、拳をぎゅっと握った。

「…脱げば…いいの?」

ゆっくりと顔を上げて、日向は制服の上着のボタンに手を掛ける。
その手は、少し震えていた。また日向は、怖がっている。
けれど、自分の我儘を聞いてくれようとしている。
本当は嫌だろうに。健気で、優しい人。

「脱がせてあげましょうか?」

百合は、ボタンを掴む日向の手に、自分の手を添える。
不安そうな顔を覗きこんで百合が微笑むと、日向は少し躊躇ってから、無言で小さく頷いた。

ゆっくりと、ボタンに手を掛けて、外していく。
一つ一つ、時間をかけて、心を解きほぐすように。
触れた制服越しに、日向の心臓の音が伝わる。
その鼓動は緊張しているように早く、ドクドクと強く脈打っていた。
学ランのボタンを外し終えて、カッターシャツに手を掛けたところで百合が顔を上げると、日向は俯いてソファーの隅を見つめて、不安そうに拳を握っていた。

何故だろう。なんだかイケナイことをしているような気分になる。
同時に、ゾクゾクと胸が高鳴るのを感じる。
抵抗もせずに、健気に自分を受け入れてくれる日向。
その姿が、やけに扇情的に見える。

「日向先輩、こっち見てください。」

その言葉に、日向はわずかに顔を上げて百合を見た。
頬を染めて、瞳を揺らして、薄く開いた唇が妙になめまかしい。

「…シャツも、脱がすの…?」

上目で不安そうな表情を浮かべて、日向は聞く。
百合は返事をせずに、日向の唇をキスで塞いだ。
日向は縋りつくように、百合の背に手を回して、抱きしめる。
そのまま手をまさぐらせて、百合はカッターシャツのボタンを外していく。
日向は不安そうに、震える腕で一層強く百合を抱きしめた。

シャツのボタンを全て外して、百合は唇を離す。
顔を上げて日向を見つめると、日向は気まずそうに眼を逸らした。
学ランのボタンも、カッターシャツのボタンを全て外して、紺のTシャツが覗いている。
日向は袖をぎゅっと握りしめて、最後の抵抗を見せる。

「本当に、脱がなきゃ駄目?」

「往生際が悪いですよ。」

そう言って、百合は悪戯っ子の笑みを見せる。

「本当に嫌なら、脱がなくてもいいですよ。でも、信用されていないみたいで、悲しい。」

その言葉に、日向が弱いのを知っている。
けれど、敢えてそう言った自分は、狡いと思う。
思った通り、日向は困った顔になる。
唇を噛んで、少し考えているようだ。
服の下に隠したコンプレックスと、百合の言葉を天秤にかけているようだった。

「…わかった。でも、自分で脱ぐ…から。」

日向は小さな声で呟いた。
本当は嫌なはずなのに、日向は自分の言うことを健気に聞いてくれる。
無理をさせているのは、わかっている。
けれど、まるで忠犬のように健気に、まるで子供のように嫌々ながら素直に自分に従う日向に、ゾクゾクと支配欲を駆り立てられる。
なんだか、日向を上手く調教しているみたいだ。
自分はこんなに、サディスティックだったか。

「ゆっくりで、いいですよ。」

百合は日向の頬に手を添える。
顔を背けないように。自分を見てくれるように。
日向は百合に窺うような視線を向けて、ゆっくりと学ランの上着を脱ぐ。
緊張しているのか、恥ずかしいのか、視線が忙しなく動く。
日向は脱いだ学ランをソファーの隅に置いて、消え入りそうな声を洩らす。

「…シャツも…?」

長い睫毛を揺らして、日向は小さく首を傾げる。
体が震えている。怖いのだろうか。

「ええ。脱いでくれますか?」

狡い言い方だと思う。
日向は絶対に、拒否しない。いや、できない。
これは「お願い」じゃない。「命令」だ。
孤独を怖がるこの人は、自分の命令に逆らえない。
日向は抵抗をしない。嫌なはずなのに、嫌だと言えない。
自分より年上の男を脱がせているだなんて、なんだか興奮する。
無意識に口元が緩む。
ああ、きっと今自分は、意地悪な笑みを浮かべているのだろう。

日向は白いカッターシャツをぎゅっと握りしめて、口をきつく結んだ。
まるで、覚悟を決めるように。

「本当に、嫌いにならないでね…。」

弱弱しい声。
そう言った日向は、少し瞳が潤んでいる気がした。

「嫌いになるわけ、ないじゃないですか。」

日向は小さく息を吐いて、カッターシャツをゆっくりと脱いだ。
カッターシャツの下は、紺色の半袖のTシャツ。
露わになった細い腕には、切り傷や、痣、火傷の痕が残っていた。
母親につけられたという、虐待の痕。
日向の肌は白くて綺麗なのに、どうしてこんな傷がつけられるのか。
どうしてこんな綺麗で、精細な息子を、傷付けられるのか。
日向の母親は、酷い人だ。

けれど、将悟の家で見た時よりは、傷は薄くなっていた。
それを見て、少しだけ安心する。このまま綺麗に治ってほしい。
もう二度と、傷付けられることなんてないように。

その傷だらけの腕に触れると、日向の細い肩は、不安そうに震えていた。
そっと、その傷を撫でる。

「大丈夫ですよ。日向先輩は綺麗です。」

「…綺麗じゃない。」

「綺麗ですよ。」

日向は居た堪れない、というような表情で顔を背ける。
かさぶたになった傷口、紫色の痣、火傷で爛れた皮膚。
きっと、腕だけじゃない。
足にも、腰にも、背中にも、腹にも、全身を傷付けられたのだろう。
でも、日向が一番傷付けられているのは、心だ。

百合は日向の右腕に手を添えて、その傷の一つ一つに、キスを落とす。
切り傷も、痣も、火傷も、全部の痛みに、優しさを与える。
早く治りますように。そんな願いを込めて。

「百合…?」

日向は戸惑ったような声を上げる。
震えは治まったが、代わりに鳥肌が立っていた。
恥ずかしいのだろうか。くすぐったいのだろうか。
それとも、変な気分に、なっただろうか。

「おまじないですよ。早く治るおまじない。」

わざとらしく、音を立ててキスをする。
見せつけるように、傷口に舌を這わせる。
上目で日向を見れば、蕩けたような切ない瞳で百合を見つめていた。
百合と目が合うと、日向は耳まで真っ赤にして、顔を背ける。

「ちょっと待って…やっぱりそれ、ダメ…なんか…エロい…。」

言葉じりが、聞き取れないほど小さく消える。
日向は恥ずかしそうに左手で口元を覆って、真っ赤になった顔を隠そうとする。
小さく呟いた「エロい」だなんて、一体どんな想像をしたのか。
どこまでも可愛い人だ。

「このまま、えっちなことしちゃいますか?」

悪戯に、百合は微笑む。
日向は、慌てて首を振った。

「…馬鹿。そういうのは駄目だって言っただろ。」

こういうところは頑なだ。
自分の心の準備は、できているのに。日向の全部がほしいのに。
彼方のことなんて、もうとっくに忘れたのに。
恥ずかしがりで、照れ屋で、怖がりのこの人は、自分に手を出さない。
それが日向のいいところでもあり、百合からすれば、少し不満でもある。

でも、少しずつでいい。
塞ぎがちな日向の心を開いていきたい。
怖がりなその心を、癒してあげたい。
自分にしか見せない顔を、もっと見ていたい。


百合は、顔を上げて日向にキスをした。


麻丸。
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麻丸。

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