「屈折した真っ直ぐな願い」

 「屈折した真っ直ぐな願い」



その日は激しい雨が降っていた。
夏の熱気に雨の湿気が絡んで、余計に蒸し暑い。
京子は授業を終えて、家に向かっていた。
兄に買ってもらったお気に入りのピンクの傘が、雨を弾く。

昨日彼方と電話をした。
最近の学校の様子、日向とバイトが一緒になったこと、いろいろ話した。
少し彼方の様子がおかしかったから、口実を作って今日家に来るように言ったが、彼方からの連絡はなかった。
口では「わかったよ」とは言っていたが、京子の携帯にはメールも電話もない。
こんな雨の日だ。彼方も気まぐれなところがあるから、きっと今日は来ないだろう。

そう思って、雨が弱まるのを学校で待っていた。
今日はバイトも休みだし、彼方から連絡もないし、急ぐ理由もない。
教室で、クラスメイトの女子と他愛のない話をして、時間を潰した。
しかし、一向に弱まることがない激しい雨に、京子は諦めて帰路についたのだった。

水たまりだらけのアスファルト。
舗装されていない田舎道は泥でぐちゃぐちゃだ。
たまにすれ違う車は水しぶきを上げるし、何より風が強い。
既に靴はびしょ濡れだし、靴下まで濡れている気がする。
傘をさしていても、激しい風に乗った雨粒で、スカートや太ももまで濡れる。
これだから、雨は嫌なんだ。

京子は憂鬱な気持ちになりながら、なんとか自分のアパートに到着した。
築十年も経っていない、小奇麗な賃貸物件。
赤いレンガ造りでお洒落な洋風の概観は、こんな田舎には少し不釣り合いだ。
京子の部屋は二階の一番隅の二〇五号室。
傘を閉じて階段を上ると、自分の部屋の前に見覚えのある顔が見えた。
その男は、大きな紙袋を抱えて、ビニール傘を脇に置いて、座り込んでいる。

「もーっ。おっそーい京子ちゃん。」

京子に気付くと、その男は子供のように唇を尖らせて立ち上がった。
こんな雨の中、約束通り律儀に来たのか。意外だ。

「彼方さん。」

一体いつからここにいたのだろう。
連絡くらい、くれればよかったのに。

「暑いし、雨降ってるし、京子ちゃん遅いしで、僕びしゃびしゃなんだけどー。」

だるそうに、彼方は溜息を吐く。
よく見ると、彼方の服は仄かに湿っている。
汗のせいか、それとも、雨に濡れたのだろうか。

「ここで待ってたんですか?連絡くらい、してくれればよかったのに。」

「京子ちゃんが今日ケーキ持ってきてって言ったんでしょ?
 とりあえず、鍵開けて、家に入れてよ。あんまり外にいたくないからさ。」

何の連絡も入れなかったくせに、よく言う。
でも、あまり外から見える場所に彼方を立たせるのは、よろしくはない。
二人でいるところを誰かに見つかったら、マズい。
京子はごそごそと鞄の中に手を入れ、家の鍵を探した。

「はいはい。ちょっと待ってくださいね。」

チャリンと固い金属の音を立て、鍵を取り出して、玄関を開ける。
彼方は京子の後に続いて、家に入る。

「とりあえず、タオル貸して。あと、クーラーつけてよ。暑いー。」

靴を脱ぎながら、彼方はタオルと冷房を要求する。
人の家に来ても、遠慮というものを知らない。我儘な男だ。
けれど、彼方の長い足を覆うデニムの裾は、水を吸って重たそうだ。
細い首筋や額には、じんわりと汗が滲んでいた。

彼方を家に上げて、タオルを渡す。
鞄を置いて、冷房をつけて、京子もタオルで体を拭く。
傘をさしていたのに、肩や髪まで湿っていた。
白いセーラー服からは、下着が薄らと透けている。
彼方は気付いていないだろうか。

「あー涼しいー。生き返るー。」

彼方を見ると、ソファーに座り、エアコンの風を受けていた。
一度訪れた部屋だ。勝手はわかっているのだろう。
強めにした冷房の風で、少し伸びた茶髪が揺れている。
美容院に行って染め直していないのか、茶髪の根本は、すっかり黒い髪が伸びてきていた。

「ちょっと私、着替えてきますね。」

そう言い残して、京子は着替えを持って脱衣所へ向かう。
水を吸った制服は、ベッタリと肌に張り付いて脱ぎにくい。
今すぐシャワーを浴びたい気分だか、今は来客中だ。
京子は制服を脱いで、体を拭いて、白い部屋着に袖を通す。

この部屋着も、春に進級祝いとして、優樹にプレゼントされたものだ。
手触りの良いモコモコの生地のパーカーに、短いショートパンツ。
フードには、うさぎの耳のようなものも付いている。
有名な高いブランドのモノらしい。
自分はこういう可愛らしい系の服は似合わないのに、優樹がプレゼントしてくれるのは、いつもこういう女の子らしい服ばかりだ。
「自分もバイトをしているから、何も買わなくてもいい」と言うけれど、優樹はいろんなものを買い与えてくれる。
この部屋は、優樹がくれたもので溢れている。
服や靴、化粧品や香水、家具から家電まで。
この部屋は、優樹で溢れている。

叶わない恋だとわかっているのに、叶えてはいけない恋だとはわかっているのに。
けれど、自分の想いを知らないで、こんなに尽くしてくれる優樹は、狡いと思う。
期待しそうになる。優樹が自分の想いに気付いているんじゃないかと。そんなことは有り得ないのに。

京子は大きく溜息を吐く。
自分は、この想いを上手く隠せているはずだ。
優樹が気付くはずもない。それでいい。それでいいんだ。

京子は部屋に戻る前に、キッチンに寄って、冷たいアイスコーヒーを二つ用意する。
一つは牛乳をたっぷりと入れて彼方の分、もう一つはガムシロップを二つ入れて、自分の分。
一ヶ月も一緒に暮らしていたから、彼方のコーヒーの飲み方はもう覚えた。

部屋に戻ると、彼方はテレビを付けて、ソファーに沈み込んでいた。
上着を脱いで、背もたれに体を預けて、すっかりくつろいでいるようだ。
テーブルの上には、彼方が抱えていた大きな紙袋が置かれていた。

「そんな服着るの、珍しいね。」

「変ですか?」

「ううん、似合ってる。可愛いよ。」

どうして彼方はそういうことを、恥ずかしげもなく平然と言えるのだろう。
まるで挨拶をするように、自然に女性を褒める。
元々の性格か、夜の仕事で培った処世術か。
そんなに自然に言われると、逆に嘘臭く聞こえる。

「お兄ちゃんからの貢物です。」

「貢物って…。まあ、優樹さんらしいね、そういう服は。」

そう言って、彼方は柔らかく笑う。
いつも通りの彼方だ。昨日様子がおかしいと思ったのは、気のせいだったのか。
そんなことを思いながら、京子はテーブルにコーヒーを並べる。

「ありがとう。」

「ちゃんとミルクたっぷり入れましたよ。」

彼方は意外そうな顔をした。

「よく覚えてるね。僕の好み。」

「そりゃ、一緒に住んでたんだから、嫌でも覚えますよ。」

飲み物を淹れたり、料理を作っていたのは京子だから、彼方の好きなものや、嫌いなものは、覚えた。
彼方はピーマンと辛いものが嫌いで、甘いものはあまり好きじゃない。
コーヒーにはミルクを淹れないと飲めない。けれど、ガムシロップは入れない。

「なんか…熟年夫婦みたいだね。」

おかしそうに、彼方は笑う。
熟年夫婦だなんて、何を言っているのか。

京子が彼方の隣に座ると、彼方はゴソゴソとテーブルの上の紙袋を開ける。
その紙袋の中の二つの大きな紙箱からは、チーズケーキとベリータルトが出てきた。

「ほら、お望みのチーズケーキとベリータルト。高かったんだからね。」

「わあ、すごい!本当に買ってきてくれたんですか?」

冗談半分で言っていたのに、まさか本当に買ってきてくれるなんて。
しかも、京子の言った通りに、直径三十センチを超す、特大ホールだ。

「ふふっ。京子ちゃん子供みたい。目キラキラさせちゃって。」

「食べていいですか?」

「どうぞ。食べきれるものならね。」

そう言って、彼方は付属していたプラスチックのフォークを京子に差し出す。

「余裕ですよ。私、甘いもの大好きなので。あ、彼方さんも食べます?」

「僕はいいよ。甘いもの、そんな好きじゃないから。」

「そうでしたね。なんか、意外。ものすごく甘いもの好きそうなのに。」

「それは京子ちゃんの勝手なイメージでしょ。」

彼方は大袈裟に、呆れたように肩を竦める。
甘いものが苦手だとか言いながら、優樹が買ってきたシュークリームやプリンを食べていたくせに。
しかも、彼方はメロンパンが好きだという。
メロンパンは甘いものの内に入らないのかと、疑問に思う。

「じゃあ遠慮なく、一人で食べちゃお。」

切り分けることなく、京子はチーズケーキのホールの中心にフォークを突き立てる。
ケーキをホールで食べるのは、ちょっとした贅沢だ。

「…本当に一人で食べるの?この量を?大丈夫?太るよ?」

彼方は驚いたように、京子を見つめる。
二つの大きなホールケーキを一人で食べようとしている京子に、困惑しているようだ。

「だから太らないですって。太れない体質なんですよ。それに、甘いものは別腹です。」

「別腹って…。京子ちゃん細いのに、よくそんなに食べれるね。」

彼方は小さく溜息を吐く。
そんなに驚いたり、呆れたりしなくてもいいのに。
彼方がこんなに大きなホールケーキを買ってきてくれたんじゃないか。
貰ったからには、全部綺麗に食べきらないと、もったいないじゃないか。

「彼方さんこそ、もっと肉付けた方がいいんじゃないんですか?」

「そう?今くらいで、ちょうどいいと思うけど。」

「細すぎますよ。ガリガリじゃないですか。」

「そんなことないって。」

そんなことを言っても、黒い半袖Tシャツから覗く腕は、細かった。
日焼けを気にしているのか、人前では必ず長袖で隠していた腕は、女子が羨むほど、白くて綺麗だ。
そういえば、彼方が半袖を着ているのを見るのは、初めてのような気がする。
夏休み前に学校で話した時も、彼方は暑苦しい学ランを着込んでいた。
優樹のマンションでは、仕事着のスーツ姿を見ることが多かったし、部屋着も長袖ばかりだった。
彼方の細く白い腕は、この季節にはアンバランスだ。

そんなことを考えながら、京子はケーキを一口食べる。
濃厚なチーズと、程よい甘さが口の中に広がった。

「美味しい。」

思わず口元が綻ぶ。
やっぱりマルシェのケーキは美味しい。
甘いものを食べると、幸せな気持ちになる。

「それはよかった。次は、体で払おうか?」

そう言って、彼方は微笑む。
色っぽく首を傾げて、余裕ぶった瞳で京子を見つめる。
Tシャツの襟もとに手を掛け、わざと胸元をチラつかせながら。

「馬鹿言わないでください。」

こういうところは気に入らない。
すぐに冗談めかして、体の関係を迫ろうとする。
彼方は、今でもきっと、日向が好きなはずなのに。
どうしてそんなことが言えるのか。

いつも通りの素っ気ない態度に、彼方はクスクスと笑う。

「ふふっ、冗談だよ。でも…一人でこんなところで暮らしてたら寂しいかな、って思って。」

寂しい、だなんて。
寂しいに決まっている。
優樹がいないこの狭い部屋は、やけに広く感じるし、テレビで掻き消せない静寂は、耳を塞ぎたくなるほど静かだ。
一ヶ月以上も優樹のマンションで過ごした後だと、尚更孤独を噛み締める。

でも、だから何だ。
一人暮らしは慣れたものだし、普段通りの日常に戻るだけだ。
彼方は自分を馬鹿にしているのか。なんだか面白くない。
嫌味の一つでも言いたくなる。

「お店のお客さんにも、そういうこと言ってるんじゃないでしょうね?」

「…言わないよ。そんなこと、するわけないでしょ。」

そう言って、彼方は微笑む。
グラスの中の氷が、カランと音を立てて溶け崩れた。

「ですよね。さすがにそんなことしてたら、呆れるのを通り越して蔑みますよ。『本当に馬鹿な男だ』って、ね。」

京子は鼻で笑う。
けれど、彼方は微笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。
わかっている。彼方にこんな稚拙な嫌味は通じない。
自分勝手な、ストレス発散だ。

しばらく沈黙が続いた。
自分はケーキを食べるのに夢中だったし、彼方はテレビを見つめて黙っていた。
夕方のニュース番組は退屈だ。
都会の隅で誰かが死んだとか、新人女優の熱愛発覚、大物政治家の汚職なんて、どうでもいい。
だからどうしたというのだ。どこか遠い世界のことのように感じる。

元々、二人の間に共通の話題なんて、ほとんどない。
彼方が気にしていた学校のことや、日向のことは、昨日全部電話で話した。
夏休みも終わった今、こうやって一緒に過ごすこと自体、本来は有り得ないのだ。

「そういえば、さ。」

京子がチーズケーキを半分ほど食べた頃、思い出したように彼方が口を開く。

「なんですか。」

京子はチーズケーキを頬張ったまま、答える。
彼方はテレビから京子に視線を移して、少し真剣な顔をした。

「…京子ちゃんってさ、僕と寝た時、『初めて』じゃなかったよね?どうして?」

その言葉に、京子は頬張っていたチーズケーキを飲み込む。
喉の水分が持っていかれて、むせそうになる。
少し咳き込んで、京子はアイスコーヒーを流し込んだ。

「どうしてって…。去年は、彼氏がいましたから。」

「なんで?優樹さんのことは?」

彼方は驚いたように、目を瞬かせる。

「お兄ちゃんのことは端から諦めてますよ。」

当たり前じゃないか。そんなこと、言うまでもない。
優樹とどうにかなりたいなんて、最初から願っちゃいない。
自分の片思いで終わらせる。それでいいんだ。

「だから、たまたま告白された人と、とりあえず付き合ってみたんです。
 付き合っているうちに、その人のことを好きになれるかな、って思ったんですけど…やっぱり無理でした。好きにはなれなかった。」

優樹のようには、好きになれなかった。
嫌いなわけではないけれど、優しくていい人だったけれど、やっぱり優樹のことが好きなままの自分は、心が痛んだ。
だから、その人とは、長くは続かなかった。

「ふぅん。好きでもない人と寝れるんだ。」

彼方は少し納得いかないような顔をして、視線を落とした。

「…それは、あなたも一緒でしょう?」

「…そうだね。」

そう言って、自嘲気味に笑う。
彼方だって、学校で百人切りの噂があるくらいだ。本人も否定はしていない。
お互い、似たような人間なのかもしれない。
だって、思いが届かないのは、悲しいから。
独りは寂しいから。誰かの体温に触れたいと思うことだって、ある。

「でも、誰かと付き合ったら、日向のことを…忘れられるのかなあ。」

ポツリ、と彼方は呟く。
それは、誰に宛てた言葉でもなく、独り言のようだった。
彼方は俯いて、膝の上で組んだ手に視線を落としている。
その長い睫毛が、切なげに揺れる。
やっぱり彼方は、日向のことを諦めきれてはいない。
そう簡単に諦められるものではない。
そんなことはわかっているけれど、日向の名を呼ぶ彼方は、ひどく痛々しく見えた。

「ねえ、僕と付き合ってみない?」

彼方は、顔を上げて京子を見つめる。
いつものように、冗談半分でからかっているわけでもない、ヘラヘラと張り付けたような笑顔でもない。
真っ直ぐに自分を見つめて、必死な様子に見えた。
縋りつくような瞳が揺れている。

「…馬鹿なこと、言わないでください。」

馬鹿だ。彼方は大馬鹿だ。
自分は日向の代わりになんてなれない。
そんなのは、きっと、お互い虚しいだけだ。

「僕は京子ちゃんのこと、結構好きだよ。気に入ってる。」

彼方はそっと、京子の手を取る。
両手で優しく京子の手を包んで、真っ直ぐに自分を見つめる。
その視線が、痛い。揺れる瞳が、切なくて、辛い。

「日向への『好き』とは、ちょっと違うけど…。
 でも、僕は京子ちゃんのこと、好きだよ。
 京子ちゃんにしか…こんなこと言えない。
 僕が本当のことを言えるのは、京子ちゃんだけなんだ。」

いつも薄っぺらくて軽い彼方の言葉が、今日はやけに重い。
その一言一言が、胸に沈んでいくようだ。
視線が痛い。瞳が切ない。言葉が辛い。


「ねえ…駄目かな?」


彼方は京子の手を、ギュッと握った。

麻丸。
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麻丸。

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