15

 翌日、僕が登校すると佐伯はすでに自分の席に座っていた。
 いつもどおり頬杖を突いて群を嫌う狼のように誰とも言葉を交わすことなく、ただ気だるそうな視線を窓の外に向けていた。

 そうだろうな、と僕は思った。

 佐伯なら努めてなのか自然になのかは分からないがこれまでの日常を今日も続けるだろう。

 ただ、制服の袖から右肘を覆う包帯が少し見えているのが明らかにいつもと違うことだった。
 大丈夫か、と声を掛けたいと思ったが、佐伯の教室での他を寄せ付けない雰囲気は侵しがたく他のクラスメイトが近くにいては昨日のことを話しづらくもあってやめておいた。

 あとは……。

 佐伯の出方は予想できていたのだが、陽平が僕や佐伯にどういう態度を示すのか僕には見当がつかなかった。

 平身低頭で詫びを入れるのだろうか。
 まるで待ち合わせに遅れたときのように軽い調子で謝るのだろうか。
 それとも僕たちのことを無視して絶縁状態に陥るのだろうか。

 そのとき僕はどういう行動に出るべきなのか。

 僕は頭の奥に重く締め付けるような圧迫感を覚えていた。

 僕は完全に寝不足だった。どうするどうする、と自問自答して結論が出ないまま今朝を迎え落ち着かない気持ちのまま教室で陽平を待ち続けたが、彼はいつまで経っても姿を見せない。
 今日から中間テストだというのに。

「誰か、松本君から何か聞いてない?」

 朝のホームルームで坂本先生が誰とはなく問いかけるが僕は前の席の生徒の背中辺りをぼんやり眺めながら黙ってやり過ごした。

 昨日のことが欠席の原因であることは疑いないところだが、だからと言って僕に何が言えるだろう。

 後ろにいる佐伯はどうするだろうかと思ったが、彼女もその場では一言も発することはなかった。
 きっと先ほどと変わらない姿勢で視線を外へ向けたままだろう。

「まあ、季節の変わり目だから体調崩したのかもね。みんなも気を付けるのよ。受験生は健康第一なんだから」

 そう言う先生は元気そうに見えた。
 張りがあるのは声だけではない。
 化粧を変えたのだろうか。
 どこがどうとは言えないが顔全体に華やいだ感じが見られるような気がする。

 ここのところトレードマークのカーディガンも羽織っていない。

 そのことに気づいたとき車中の親父と坂本先生の情景が僕の目に浮かんできた。
 どことなく生き生きとして見える彼女の様子に父が影響しているかもしれないと考えて僕はその思考を追い払うように首を横に振った。

 結局その日、陽平は姿を見せることはなかった。

 すでにスポーツ推薦での進学が決まっている彼にとって学業面の成績など今さらどうでも良いのかもしれない。
 だとすれば明日のテストもおそらく彼は教室には姿を見せないだろう。

 放課後、僕は何をするということもなく教室に残って窓から外を眺めていた。

 この学校ではテスト期間中は部活は行われない。
 当然、グラウンドは荒涼たる砂漠のように誰の姿もなく時折強い風が吹き抜けるだけだ。

 陽平も佐伯と同じぐらいに熱く自分の夢を追っていると僕は思っている。
 だからテストはさぼってもサッカーの練習に姿を見せるかもしれないと思ったのだが、のっぺりとした砂漠の景色はいつまで経っても時間が止まっているような錯覚に陥るほど変化はなかった。

 図書室に向かうと佐伯が教科書を開いて黙々とノートに書き込みを加えていた。
 陽平に怖い思いをさせられても、そしてその陽平が無断で学校を休んでも彼女の夢へ向かって取り組む形に変化はない。

 僕は彼女の邪魔をしないように静かにその斜め向かいに腰を下ろし自分の勉強を始めた。

 佐伯の精神力には脱帽だった。

 全くいつもと変わらず勉強に取り組んでいるように見える。
 時折、分からないところの解説を求めたり解き方の確認をしてきたりするが、余計なことは一切喋らずすぐに自分だけの世界に戻っていく。
 目を見開いてノートにシャーペンを走らせる彼女のその姿勢からは夢の実現に向けての気迫がにじみ出ているようだった。

 僕はどうにも集中を欠いてしまっていた。

 佐伯の集中力に触発されて自分もやらなくてはいけないと思いはするのだが昨日の美術室でのことを思い出したり、陽平が今何をしているかを考えたりということを繰り返してしまう。

 問題を解く気になれず、ノートを読み返しても頭に入ってこず、ただぼんやりと教科書を眺めているうちに時間だけが過ぎていってしまっていた。

「そろそろ上がろっか」

 佐伯は四時十五分きっかりに机の上を整理しだした。

 僕はちっともはかどらなかった勉強を切り上げ図書室を出た。

 自転車置き場で、じゃあ、と言って別れたが、僕は自分の自転車を押して自転車置き場を出たところで佐伯を振り返った。

 佐伯も自転車に乗らずに少し険しい顔でこちらを見ていた。

「昨日はありがとう。……それだけ。お母さんによろしく。じゃね」

 それだけ言って佐伯は僕に背中を見せた。僕は追いかけるように気になっていたことを佐伯に投げかけた。

「腕、大丈夫?」

「大丈夫」

 佐伯はちらりとこちらを振り返ると寂しそうでもあり苦しそうでもある頬笑みだけ残してサッと自転車を漕いで行ってしまった。

 僕は取り残されたようなひんやりと肌寒い心に活を入れ、病院に向かって自転車を漕いだ。

 昨日来られなかったことについて母さんに何と言おうか考えながら病室に着くと、そこには白衣の人間が二人いた。

 一人は極端に言葉数の少ない母さんの担当医師だったが、もう一人の計器を操作している男性を僕はこれまで一度も見たことがなかった。

 二日ぶりに会う母さんはまだ眠っていた。

 目を閉じている母さんの頭には何やら見慣れないコード類が何本も伸びていて医師が触っている計器に繋がっていた。

 お世辞にも広いとは言えない部屋が今日はさらに狭く感じる。
 ベッドの大きさは変わっていないが、母さんの寝姿もどこか窮屈そうに見えた。

「こんにちは。光太郎君ですね?」

 初めて見る医師は「柳田です」と機械から手をはなし人の好さそうな柔和な表情で僕に挨拶をしてきた。

 顔のつくりだけでなく色白でややぽっちゃりとした体形からも何となく親しみやすい雰囲気が醸し出されている。
 年齢は親父や母さんと同じぐらいだろうか。
 童顔だから実際はもっと老けているのかもしれない。

「また実験ですか」

 僕はあなたのその外見にはだまされませんよ、という気持ちで心の中で身構えた。

 母さんは事故以来何度となく検査を受けてきた。

 はじめのうちは通常の生活を取り戻すために必要な治療の一環だとありがたく思い、かつ期待を込めて母さんが様々な医療機器に繋がれるのを見守っていた。
 しかし、医師が代わる代わるやってきては検査やらテストやらを幾度となく繰り返しても母さんの状態は一向に好転しなかった。

 事故の時に強く頭を打っておられ、その影響が現在の状況を引き起こしているのは間違いありませんが、脳のどの部分に起因しているのかなかなか判明しないのです。

 彼らがロボットのように表情なく言い訳めいた説明を繰り返すのを聞かされては失望をさらなる失望で塗り込める作業は次第にやり場のない苛立ちを伴うようになってくる。

 最近ではその一本調子の決り文句ですら口にしない医師もいて、検査データをこちらに開示してくれるわけでもない(見せてもらったところで理解できないのだろうが)。
 そうなると母さんがほぼ決まった時間に目覚め、二時間弱の経過で意識を失うように眠りに落ちるという極めて珍しい症例であることを受けて、この人たちは治療のためと言うよりは興味本位で母さんをモルモットのように扱っているのではないかという疑念すら湧いてくる。

「いいえ」

 柳田は諭すような口調で僕に語りかけた。「これは治療の一環です。ご期待に添えない状態が続いていて心苦しいですが、私たちもお母さんに一日でも早く回復していただけるようにと努力しているのです」

 正面切ってそう言われると返す言葉がない。

 僕自身には何の力もなく、彼らに見放されたらどうしようもないという厳然たる事実が僕の心に生えた抵抗の牙をするりと抜いていく。

 僕と医師の間に横たわる母さんが花弁が開くように少しずつゆっくりと目を開ける。

「ご気分はいかがですか?」

 母さんは柳田にこたえる前に僕の存在を確認して一つ頷いて見せてから「変わりないです」と呟いた。

「そうですか」

 柳田は満足そうに目を細めると素早く母さんの頭からコードを取り外し、母さんと僕に軽く頭を下げてもう一人の医師と部屋を出ていった。

「また検査?」

「そう。良く分からないけど」

 母さんが僕以上にうんざりそうなのを見て、しまった、と唇の内側を噛む。

「でも、原因を調べないことには治るものも治らないよ。検査で痛いとか息苦しいとかない?」

「それはないけど」

「じゃあ、どんどん調べてもらって早くよくなろ。数打ちゃ当たるよ。さっきのお医者さんも頑張るって言ってたし」

「そうね。あの新しい先生は今までの中で一番感じのいい人だったわ。しかも人懐っこい顔してるけど、ああ見えてその道の権威なんだって。あのいつも黙りこくってる担当の先生が血走った眼で自分から話しかけてるぐらいだったから相当すごい人なんじゃないかな」

「権威って呼ばれるような人に診てもらえるなんて、母さんも大したもんだね」
「そうよ。こう見えてもただ寝てるだけじゃないのよ」

 母さんが胸を張る姿に僕は噴き出すように笑って見せた。

 しかし、母さんは強がっているだけなのだということは僕には分かる。
 そして僕の笑顔も作りものだということを母さんだって見破っているだろう。
 僕と母さんは病室という舞台で哀しい芝居を演じているのだ。

 道の権威をもってしても駄目だったら……。

 この二年間期待を裏切られ続けてきている以上、それを考えないようにすることはもう僕には難しくなってきていた。僕にできないのなら本人はなおさらだ。
 それを腹の底に互いに隠して僕と母さんは表面を取り繕っている。

 そしてこの半年で母さんが起きていられる時間は少しずつ短くなってきているということを僕は誰にも話せずにいる。

彩杉
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彩杉

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