「にほん?」
「あぁ。ヨーロッパ公演も無事終わって一段落したいのは山々なんだが、東洋の王室からオファーがもらってね。これが外交目的の講演に繋がったから、無碍にはできないんだ」
「がいこう?」
 団長の難しいそうな会話に付いていけないパティは、こめかみをぐりぐりしながら、分かり易い解説をメンバーに求めた。
「まぁ、なんだ。今以上にしっかりやれってことだ…なぁ、団長?」
 船上の食堂で、一際体の大きなアレックスが、頭の悪そうな返事で答えた。
「なぁんだ。アレックスも分かってないの?じゃあ、安心だね」
 ほっと胸をなで下ろすパティを、団員最年少のマッシュが諭す。
「パティ、アレックスと比べても意味がないですよ。さすがにこの僕でも理解できます。
 いいですか、パティ。今まで失敗しても、そこの団長の顔に泥を塗る程度でした」
「いや、それもそれで困るよ」
 団長は苦笑いながらも抗議したが、このサーカスでの立場はあんまりない。むしろ責任請負専門が、彼の仕事である。
「ですが、次の日本公演を失敗したら、それこそ、EUの顔にマーマイトを塗りつけるものです。我々サーカスの存続に関わります」
「えぇ、マーマイトおいしいじゃん?」
「パティの味覚がおかしいのです!」
 祖国の味をバカにされ、パティの顔はぷんすか。
 だが少年マッシュにとって、イギリス公演の最後に提供されたマーマイトは、泣きっ面に蜂だった。
 大人の味だと、パティがにこやかに手渡しくれた分、この少年の傷は深い。
 目尻をいじりながら、過去の雑念をぬぐい去り、会話を正常に糺す。
「とにかく、今度の講演は、そこのヘタレ団長よりも偉い人間がたくさん見ますので、くれぐれも気を抜かないでくださいね、皆さん!」
 メガネをくいっと指で当てながら、子供の緊張した声音でその会議は終了した。
 マッシュ以外、事の重大さを気にかけている者はいなかった。
 サーカス団にとって、失敗は死そのものだから。
 平民だろうが、貴族だろうか、やることは変わらない。全身全霊をかける、ただそれだけ。
 それが、このサーカス団のもっとうだった。
 揺れる船上の旅に慣れていたため、この巨大な船体はまるで大地そのもの。
 普段なら現地でコンディションを整えるメンバーも、長旅で身体が鈍らないように、おのおのが身体を解していた。
 「軟体」を演目にするパティは、尚更入念が必要で、自室で身体の可動域を確かめるように、手と足をバネのように伸ばしていた。
「ずいぶん精がでるね、準備運動?」
 あまり舞台で演技をしない団長が、バスタオルを片手に扉を開けていた。
 こうやって、団員一人一人の様子を確認するのが、彼の仕事であるが、半分趣味の範囲内になっている。
「いえ、準備運動の準備運動ですから。それよりノックぐらいしてくださいよ。一応私も女の子ですよ」
「いやはや、これは失敬。どうも家族気分が拭い得なくてね。僕もオーナーに引き取られた身だからね」
 ここにいるメンバーは、皆訳ありだ。
 パティがそうだったように、メンバーそれぞれが普通の幸せに縁遠い人生を送っている。
 サーカスという集団は、確かに家族に似た何かなのかもしれない。
 まだまだ両親に甘えたいパティは、足りない愛情を団員に求めたい年頃だろう。だが、どうもこの団長にそういう気持ちが起きない。
「はいはい、またその話をするの?あんまりしつこいと、団長の悲劇も有り難みなくなりますよ。それよりどうかしました、私に直接…」
「んまぁね。あんまり他のメンバーには話せない内容だから…」
 言葉の一つ一つが頼りない。
 いつもぽけ~としている団長の目は、空中ブランコのように右往左往。
「私、もういらないですか?」
 パティは、そういう親の目を何度も見てきた。 数年一緒に生活した団長の心など、手に取るように分かってしまう。
「それは違うよ!」
 幼い少女を傷つけないように、今日の団長はいつもにもまして気合いが入っていた。
 だから、余計に…
「いいんです、分かっていたことですから。芸もない私に家族を養うお金を払っていただいただけでも感謝しています。もう子供だからって、許される世代は終わりですもんね」
 目を真っ赤にして笑顔で答えるパティに団長は、
「すまない、力に慣れなくて…」
 持っていたタオルをそっと、濡れた顔に掛けて消えてしまった。
 今の彼女には、ただ泣く時間さえあれば良かったのだ。
 悔しくはない。それが芸をする人間の定めだから。お金をもらう苦労を、この少女は誰よりも理解していた。
 この日本公演を最後に、パティは新たな旅立ちを迎えることになる。

 退団の知らせを受けると、今までの風景が少しずつ色鮮やかに変わってしまう。
 団員との会話が、最後のさよならになる。
 発するの言葉節々が、かけがえのない思い出に昇華する。
 齢十才のパティにとって、残された時間は長いようで短い。

「えぇ~皆さん、長旅お疲れさん。講演までゆっくり身体を休ませてね。くれぐれも演技に支障がないように、特にアレックス!」
「そりゃないぜ、団長!俺がいつ皆に迷惑を掛けたんだよ?」
 両腕で自分の潔白を示すアレックスだったが、
「前回の講演で、腹を壊したのは誰だったかな?ちなみに、その前の…」
 予定調和のように、少年マッシュがメモ帳を片手に、アレックスの罪状を述べる。
「分かったよ、今回は少しセーブするよ。ってか、マッシュ。いちいち細かいんだよ、お前は俺の母ちゃんか!」
「今回もでしょ?まぁ、日本の食べ物は安全と聞きますので、ほどほどにね」
 わぁ~い!と喜ぶ大男に抱きつかれる小人の図。
 なんだか、奇妙な光景だが、今日もサーカスが平和な証拠だ。
 二人の寸劇を惜しむようにパティは眺めていた。
 いつもなら、あの輪の中に自分がいた。
「アレックス、マッシュ、クロード、ビビ、キュロス、ローラ、エリザベス、ピピ、マリア、ジョージ、マルク、ブラック、ルーニー、コーク、シュガー、サイ、アバ、レン、カルツァ…」
 パティは、ぼそぼそと口ずさむ。
 もう数週間で、それはただの名前になってしまう。
 そう思うと、決起集会なのに、パティの心は未だに揺れていた。
 変えれない運命なのに、小さい体のどこに、そんな現実を仕舞えばいいのか分からなかったのだ。
 サーカス団は、皇居近くのホテルに招かれていた。日本政府の計らいだ。
 パティたちは、西洋式の建物で、日本式のおもてなし、つまりお食事を受けることになった。
 ビュッフェに並ぶ、和食と呼ばれる美しい料理を前に、マッシュは年相応の顔になっていた。
 隣にいるアレックスは、日本の飾り花に戸惑いながら、マッシュから食べ方を教わっている。
 大理石に囲まれた無機物の空間には、能の講演が披露され、その豊かな表情で団員の目を楽しませていた。
 芸能は、日本文化に馴染みのない団員にとって、もの珍しさを身近に感じる、サーカスのそのものだった。それと同時に、パティの心に違和感のようなしこりが生まれていた。
 素直に楽しめないのだ。
 日本の芸に通じていない外国人であっても、音楽と踊りは万国共通。
 あのアレックスでさえ、食事の手を止め、太鼓と笛の音に耳を澄ます。
 だが、パティにはその強すぎる芸者の気迫が、か弱い心に突き刺さる。
 日本の土地に降りてから、日本人と生活の一端を見ていた少女は、能という異彩を放つ仮面が、寂しく泣いているように映っていた。
 あるいは、彼女の気持ちを投影しているのかもしれない。
「なぁ~に、しんみんしてるんの?」
「あ、団長、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも……。部屋の隅でちょこんしてたら、誰だって心配するでしょ?」
「すいません。講演前に気を使わせてしまって…」
 いつも団長をなじるパティが、船内での会話以降妙によそよそしくなっていた。
 それが、団長の心を揺さぶり続けていた。
「だぁもう!いいんだよ、そういうのは!子供自由にやってれば…いつも通りじゃれくれた方が、どんなにいいか…」
 団長とパティの耳には、もう古風な音楽の調べは届かない。
 お互い、今が大切な時間であることを自覚していたからだ。
「パティ、いっとくけど。俺は反対だったんだ。でも…」
 何度も言い訳を聞きたくはなかった。
 自分が、このサーカスにいらないと事実を突きつけられるのが嫌だった。
 でも、団長が続ける言葉が違った。
「みんなが聞かなくて…」
「え?それってどういう…」
 訳が分からなくなった。てっきりオーナーであるおじさんの進言だと考えていたからだ。
「今回の講演は成功する、いろんな意味で…。そしたらどうなると思う?」
「どうなるって…」
 パティは、演技でお客さんを魅了することしか分からなかった。拍手をもらえば、成功したと思う程度に。
「たぶん、元の生活には戻れない…いい意味でね。団員全員が有名人になって、今度は世界を股にかけるサーカス団の誕生さ。そしたら、もう普通には戻れないんだ。普通に勉強して、普通に友達を作って、そんで気が向いたら俺たちのサーカスをみる。そんな普通はもうない。ずっと、演技をし続ける。まぁ、他のやつらは、そういうの好きでここにいる連中ばっかだからいいけど、パティ、お前は違うだろ?」
「それは…」
 パティの脳裏には二人の妹と弟の姿が浮かんだ。
 講演の規模がどんどん大きくなるにつれ、家に帰る機会も減った。
 それでも、いろんな国のお土産を心待ちにしている妹たちや、両親のことを思うと、ぜんぜん辛くはなかった。
 だって、おねぇちゃんだから。
「そんなこといったら、マッシュはどうなのよ?彼なんか、私よりも年下で…」
 団長は歯切れ悪そうに、
「これは口止めされてたけど。今回の件、マッシュが皆を説得して始めたんだ」
「そんな…だって…」
「だからって、マッシュのことを嫌いになるなよ。お前のことが大好きだから、お前の幸せを一番に願ってのことだ」
 そういわれても、パティには決定的な理由が欲しかった。逆にいえば、マッシュの考えなら、マッシュがそう思うなら、素直に気持ちの整理ができた。
「正直あいつは天才だ。たぶん、次期団長になるだろうね。彼は普通から逃げ出したんだ。才能のあるやつは、どこの時代でもやっかいもん。貧困層出身だったせいで、周りの大人でさえ、話が合う人間がいなかった。本当はただみんなと普通に生活がしたかっただけなのに。パティには、まだ戻れる場所があるだろ。みんなも、お前のことを大切に思ってる。もう今しかないんだ」
 それが全てだった。数年の講演で自信を付けていたパティは、自分の演技のことだけしか考えていなかった。それが退団の理由だと…今の今まで、自分のことしか頭に思い浮かばなかった。それが情けなかった。
「わたし悔しいよ。どうして誰も話してくれなかったの?あのアレックスだって、普段通りだったのに…」
「アレックスには、妹がいたんだ。あいつそういう所だけは、ガチだからな、気にするなって。で、みんなの気持ちを聞いてどうする?」
「一つ聞いていい?どうして団長は、私に話してくれたの?そんなの聞いたら、逆に離れたくない!って皆を説得するかもしれないよ?」
 意地悪そうに、パティは質問した。
 団長は照れくさそうに、
「やっぱ家族に隠し事いかんでしょ?」
 と笑顔で返してくれた。
「で、返事は?」
 その時初めて、パティの目に、団長が頼もしいお兄さんに映った。
 そして、少女は最後にこう言い残して、家族の環に戻っていった。
「返事は演技で!」
 パーティの中心には、いつも通り可愛らしい花が添えられていた。
「まったく、困った妹だぜ」
 そう呆れた道化の目にも、大きな涙が星空のごとく輝いていた。
 そして、日本公演。
 一人の少女は、大人の階段へと旅だっていった。

あんなか
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あんなか

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