突然の事

「長浜駅...…」
 朝九時過ぎ、琴美はプラットホームに掲げられた駅名を思わず読み上げた。「嘘でしょ……」頬をつねると、じわりと痛みが生まれた。
 今日は京都駅から大阪駅に向かう予定だったのだ。慌てて電車に乗る前の記憶を掘り起こそうとするが、うまくいかない。恐らく反対の電車に乗ってしまったのだろうが、記憶になかった。涙目になりながらしゃがみこむと、肩に掛けた仕事鞄がずり落ちた。
 よりによって出張の日にこんなことをしでかすとは、ついていない。この時間に滋賀県にいたようでは、どう足掻いても時間通りに大阪へ向かうことはできない。またあの嫌味ったらしい上司に怒られなくてはならないのかと思うと気分が沈む。今回ばかりは百パーセント琴美の責任なのだが。
 ちらちらとそそがれる視線を振り払いながら、覚悟を決めて立ち上がる。ひとまず遅刻の連絡を入れようとスマートフォンを探す。ポケット、鞄を順に探って、「あれ」と呟く。ない。電車の中で今日の予定を確認したのは覚えている。まさかと思いゆっくりと線路の方を振り向くと、乗ってきた電車はとっくに出発していて、ただ線路だけがまっすぐ伸びている。
「嘘でしょ……」
 琴美が本日二度目の台詞を呟き、呆然としていると、「あの、お客さん」と声をかけられた。声の方を向くと、駅員らしい男性が不審そうな顔をして立っていた。どうやらへたりこんでいた琴美を気にとめたらしい。なんてことだ。思わず唇を噛む。
「お客さん、大丈夫ですか」
「ああ、ええ」お気になさらず、という言葉を口の中で転がし、そそくさとその場を離れた。
 今の対応は仕方がないよね、と自分に言い聞かせる。琴美は男性がとにかく苦手だった。琴美自身もその理由はわからないのだが、男性と話そうとすると動悸を感じ、離れなければならないという意識で脳が真っ黒に染まるのだ。その感覚は物心ついた頃から琴美の中に居座っていた。
 改札を出て、そのまま駅の建物をつっきって外に行く。空を見上げると、琴美の気持ちを代弁するような、雲のかかった空が広がっていた。
「さて、どうしようかな」仕事には間に合わない。スマホもない。本来ならばすぐさま戻るべきなのだが、不思議とそういう気分にはなれなかった。しばらくその場をうろうろしていたが、どうにでもなれと駅を背に一歩踏み出した。

 長浜市に来るのは覚えている限りでは初めてのことだった。立て看板の地図を見つけ、現在地を確認すると近くに豊公園というものがあるようだった。琴美はとりあえずそこを目的地とすることにする。
 五分ほど歩くと、公園の敷地らしき場所に入った。そのときだった。
「お姉さん、ちょっと」
 低く軽薄そうな声が聞こえ、琴美は辺りを見渡した。
「そうそう、そこのあんた」
 声の主はブルーシートの上に置いたミカン箱に肘をつきながら、確かに琴美の方を見て手招いた。Tシャツにゆるいズボンを履いた中肉中背のその男は、いかにも昼寝をしに来たという雰囲気を醸していた。
「……なんでしょう」
 恐る恐る近づくと、男は心底面白いものを見たようにガハハと笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「誰だってしますよ」
「ま、しないに越したことはないけどな。お姉さんが酷い顔色だったから声掛けただけだ。俺は何でも屋をやってる。」ほれ、と男はミカン箱の上を叩いた。黒いマーカーで書かれた『なんでもやり〼』という文字が目に入った。
「何でも屋?」
「そうだ。頼まれれば怠くない仕事ならなんでもやる。薬は出せないが相談くらいなら乗ってやる」
「いえ……特に困っていることとかないので」
「なんだ、ないのか?」
 男は落胆した表情を浮かべた。
「これじゃあいっこうに稼げないな。俺も暇じゃないっていうのに」
「はあ」これで生活しているのかという言葉を飲み込んで適当に返事をする。やっかいな人に絡まれたようだ。
「じゃあさ」男は楽しそうに口を開いた。まだ何かあるのかと、琴美は思わず渋い顔をした。
「お姉さんはどうせ暇だろう。ちょっと俺の用事に付き合ってくれないか」
「暇じゃないですよ」渋い顔を全面に押し出して否定するが、男は「平日の午前中から公園でのんびりしようなんて人間は暇に決まっている」と聞く耳を持たない。
「人探しをしているんだ。頼むよ」
「それは仕事ですか?」
「そんなところだ。ずっとずっと前のご先祖さんの代から探しているんだ」
「人を?」琴美は男と喋りながらふと気がついた。男性と喋っているのに動悸がしない。頭がぐらぐらして気持ち悪くなったりもしない。男には不信感を抱いてはいるものの、それも男の安定した低い声を聞くうちに好奇心へと変わっていくのを感じていた。
「人というか……まあ、あれだな」
 そして、男の次の一言で、琴美は自分の好奇心を抑えられなくなった。いいじゃないか、今日くらい。何かよくわからないものに首を突っ込んでも。
 男はこう言ったのだった。「俺の探しているのは天女なんだ」と。

 促されて琴美が名前を言うと、男は自分のことを「イカ」だと名乗った。「イカ?」聞き返すと、男は苦笑を漏らして「お姉さんが思い浮かべているイカではないな、多分」と言った。「はあ」とは答えるものの、ではなんのイカなのかということはわからなかった。しかし男が正解を教えてくれる気配もなさそうだったので、琴美は男のことを『烏賊』だと認識することにした。
 ブルーシートの端に腰をおろすと、烏賊はこちらにぐいと顔を寄せてきた。
「琴美ちゃん、天女伝説って知ってるか」
「昔話でよく聞くようなやつですか?」
 琴美の知る天女伝説とは、このようなものだった。
 昔、湖に天女が舞い降り、近くの木に羽衣を掛けて水浴びをしていた。それを見かけたある男が天女に恋心を抱き、羽衣を一枚隠してしまう。異変に気がついた天女たちは慌てて羽衣を身に纏い天界へ逃げたが、羽衣を盗まれた一人の天女は逃げることができなかった。天女は男の妻となり、子を授かった。しかし数年後ひょんなことから天女は盗まれた羽衣を発見し、それを纏って天に昇っていってしまったという。
「そうそう。この長浜市にはその天女伝説があるんだ」烏賊はにやりと笑って言った。「俺が探しているのは、その逃げられなかった天女だ」
「でも、その天女も結局は天界に帰ったんですよね?」
「そういうことになっている。が、俺のご先祖さんはそうは考えなかった」
「でも、それは伝説の話であって現実のことではないですよね」
 琴美が尋ねると、烏賊は呆れたように両手を振った。男性にしては細くて長い十本の指がぱらぱらと動き、さながら烏賊の足のように見えた。
「でも、でも、じゃないんだよ。琴美ちゃん、世の中には理屈じゃ成り立たないことが山ほどあるんだ」
「そうですかね」
「そうだ」烏賊は、真実を言い当てたとでもいうように自信に溢れた顔で答える。
「俺のことをまだぺてん師を見る目で見ている琴美ちゃんに、いいものを見せてあげよう」
 烏賊はおもむろに立ち上がると、近くの木のそばへ歩いていった。琴美も後を追うと、その木が桜であることに気がついた。とはいえ桜の季節などとうに過ぎた初夏の今、枝は青々とした葉に覆われている。それはそれで綺麗なのだが、やはり桜の季節にここに来たら、素晴らしい景色が見られるのだろう。
「見てなよ」烏賊はそう言うと、葉の茂る枝を両手で包んだ。「さあ、どうなると思う?」
「どうって」思案するがなにも思い浮かばない。「どうなるんですか?」
「琴美ちゃんはどうも想像力が足らないな」
 そう言って烏賊は両手をパッと話した。
「え」
 開いた口が塞がらないというのは、こういうことを言うのだなと琴美は実感した。
 緑の葉が一部分、烏賊が手を置いたところだけ、ピンク色に染まっていたのだ。正確にはその場所にだけ桜の花がいくつも開いていた。その光景はかなり異様で、それでいて強く惹かれるものがあった。
「手品ですか」
 得意気に烏賊の腰に当てられた手を凝視して呟くと「これはそんな種があるものじゃない。世の中に数多ある理屈じゃ成り立たないことのひとつだ」と答えた。
「花咲か爺さんみたいなものですか」
「いい例えだがそれとも違うな。あれは灰をかけなきゃ咲かないが、俺は触るだけだ」
「種はわかりませんけど、綺麗ですね」
「だから種なんてものはないんだって。本当の桜の見頃になればここ一面が桜色に染まるんだ。綺麗なもんだよ。さぁ、これを見ても天女が伝説上の存在だと言い切れるか?」
「……言えませんね」
 琴美は薄ピンクの塊に手を伸ばす。柔らかく湿ったそれは、たしかに本物だった。緑の中に埋もれてしまいそうなピンクに見惚れていると、いつのまにか畳んだブルーシートとミカン箱を脇にかかえた烏賊が琴美を呼んだ。
「そろそろ行こうか、琴美ちゃん」
「行くって、どこへ」
「天女探しだよ。俺の予想ではあるが、天女っていうのは自然が多いところにいると思うんだよな。長浜はそういうところが多い。近場から当たってみようかと考えている」
「たしかに、ビル群の間を歩いているイメージはありませんもんね」
「仮に人混みに紛れようとしても、息がつまっちまうだろ。結局は戻ってくるはずなんだよ」
 烏賊は琴美をじっと見つめ、自信ありげに言った。

熊井 かなた
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熊井 かなた

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