一、稽古の鬼

舞台の役者が大見得を切って動きを止める。
一瞬のようで長い間を保たせる。
上方に近い長浜では、歌舞伎も型よりも艶や物語性を求めていた。しかし上方歌舞伎のみに傾倒する必要はなく江戸歌舞伎の良いところも組み込んで行く。だからこそ型を見せるならばそれはいい加減になってはならない。
その動作を何度も練習し工夫したのであろう。「おぉ!」甚八郎は役者の姿に驚嘆した。

……
パンッ!甚八郎は腰に挿した扇子を力強く床に叩きつける。
音に驚き、役者が崩れた。
「何をしとるんや!」
商人として江戸と大坂の間を行き来している甚八郎は、普段は江戸の言葉を話すが興奮すると上方の言葉で大声を張ってしまう。
役者と言ってもまだ少年である。それも役者の家に生まれたわけではない。ただこの長浜の町衆の子どもに生まれたというだけで運命付けられた役割だった。
もちろん、この子に否は言えない、男児に生まれた時から曳山の舞台に立つ期待をされ、できれば良い役をと親たちに思われる。親たちもその親から同じ期待をされ、またその親も。と代々続く伝統であった。
「お披露目のときは何が起こるかわからへんで、それをこないな音にビビってる場合か!」
目の焦点も定まらないまま、呆然と立つしかない役者に対して厳しい声を張る甚八郎を周りの大人が宥め始めた。
甚八郎自身、幼い頃に曳山の舞台に上がった、大人も子どもも、本当ならば祭に顔を出してはいけない筈の武士までもが命の代わりとも言える刀を腰から外し脇差のみを身に着けて見学に来ていた。誰もが自分の動きを目で追い、そして酔いしれていた。しかし、長浜曳山は稚児狂言の神事であるため大人への兆しが出ると舞台から降ろされる。甚八郎は声変わりを理由に神事から引退したが、関わりを断とうとは思わず成人後は自ら役者の指導をかって出たのだ。
「曳山はただの祭とちゃう、神事や! お前は人に見せる芝居やのうて、神を魅了せなあかんのがわからんのかっ‼︎」
床に何度も叩きつけられる扇子の音が響く。役者からただの男児に戻った子はただ震えている。他の大人に宥められて落ち着きはしたが男児の大事をとってこの日の稽古は中止となった。
「申し訳ありませんでした」
我に返った甚八郎は周囲に深々と頭を下げて出て行くしかなかったのである。
「やはり、曳山になると私を律することができなくなってしまう」
背を丸めて地面を見ながらも頭の片隅では数々の芝居が再現されていた、自ら観ているものが他人にも見せられたならばあれほど無理難題を叫ぶことも苛々を募らせることもない。なぜ人は想いの交換ができないのであろうか?
次は如何に指導すべきかも解らないまま大きな吐息を吐いた。

長浜曳山の歴史は古い。
元々は貞観元年(859)に始まったとの話もあるが、織田信長が近江各地で兵火を灯した元亀騒乱で絶えてしまった。
羽柴秀吉が小谷城攻めの功績で織田信長から旧浅井領を与えられ、今浜に城と城下町を築いて「長浜」と改名した。まだ長浜城下町が広がる途中だったとき、秀吉の側室南殿は男児を生んだ。秀吉にとって初めての子の誕生を祝い町衆に金を配り、町衆はこの金で以前に地域で行われていた祭を復興させた。
最初は、八幡太郎義家の故事から秀吉が神木の太刀を奉納した行列を模す太刀渡りだったらしい。この行列は後々まで祭の最初に練り出すことになる。
石松丸秀勝と呼ばれる秀吉の男児は幼くして亡くなったが、曳山祭は続けられて石松丸の名も一緒に語られる現在を考えると、秀吉の親ばかを最も早い段階で示したものとも言える。
関ケ原の戦いのあと、近くの佐和山に井伊直政が入り、直政没後に彦根城が築城されるが、このときの長浜は内藤信成が城主だった。もし始めから井伊氏が領主なら秀吉の色が強い曳山祭は中止されたかもしれない。しかし長浜が彦根藩領になるのは大坂夏の陣のあとであり、豊臣氏が滅びたことと、内藤氏が曳山祭を認めていたことが、当時の彦根藩主であった井伊直孝にも受け継がれたらしい。
徳川の世になりしばらく過ぎた頃から京都の祇園祭を模した山車を巡行させ始め、これが曳山祭の形となる。
幼くして亡くなった薄幸の男児に、小難しい大人の芝居を観せても喜んでくれないだろう。長浜町衆はどこかの時期にそう考えたのではないだろうか? 子どもたちが演じる狂言となり時間も線香一本が燃え尽きる半刻より短い(約40分)になり、舞台となる山車も複数出て飽きがこない工夫もされた。
秀吉由来の祭は守られ続け、そして権力者が手を出せないものにもなった。徳川幕府による何度もの贅沢禁止の法令で、山車や山鉾の上で芝居を演じることは中止され、代わりに簡単な神事やカラクリの設置などになっていたが、長浜曳山祭だけは子ども歌舞伎を許可され続けた。
また長浜町衆は生糸やビロードなどを扱う豊かな商人が多くいたことから山車も豪華になり、文化文政期に頂点を極めることになった。百年二百年と伝わるような山車を残そうとして全財産を注ぎ込み長浜から出ざるを得なかった商家も一軒や二軒ではない。どちらかと言えば薄暗い夜の中を無理に這い出ようとしたぼやけた明るさと深い闇を持つ化政文化のなかで長浜曳山祭の山車は芸術的嗜好を極めたのだった。

長浜の子ども歌舞伎は、子ども役者を可愛く観るだけが魅力ではなく難しい芝居も疲れない長さでわかりやすく、何よりも時事をも含んで誰にでも楽しめる娯楽であった。甚八郎はその中でどこまでも完成された演技にこだわってしまった。
「身を引くべきかもしれないな」
自らが熱くなりすぎて、役者たちを怖がらせている。演じる者が楽しまなければ聴衆を魅了することはできない。
何年にも及ぶ指導のなかで、いつまでも満足できないまま本番を迎えることが多々あった。
全て子どもらの責任にしていたが、教え方は正しかったのであろうか?
「この頭の中の芝居を観せるにはどうしたら!」
堂々巡りが続く、ならば一度離れてみるのも良いかもしれない。曳山への関わり方はひとつではないのだから…
翌朝、指導者を辞退する旨を告げた。大人たちは神妙な顔をしていたが子どもらは明らかに笑顔であった。これからはのびのびと育って行くのかもしれない。
後ろ髪を引かれないと言えば嘘になるが、子ども役者を笑顔にさせられ、曳山祭をより格上げさせる方法を見つけて行く決意が強くなった。

古楽
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