「ひ、きゃ、きゃ、きゃぁああああああ!」
「面白い悲鳴をあげるな。落としたらどうする」
「だって、だってこれ! あぁああああ、風吹いてるぅうううう!!」
「風くらいいつでも吹いているだろう。なにがそんなに怖いんだお前」
「今! この状況の! 全部! ですぅ!!」
 たけおの悲鳴が山々に響き渡る。
 遠出したいという申し出を受けた直後から、俺はたけおの手を取り、そのまま空中へと急上昇した。
 俺たちの世界ではなんの変哲もない、一般的な移動方法だ。徒歩は本来、家畜やそれに同行する際しか利用していない。
 ただやはりこちらでは一般的ではなく、たけおもこの感覚には慣れていないらしい。
 結果。
 たけおは、生まれたての子鹿のような震えっぷりで、俺の腕にしがみついていた。
「俺は別にいいんだが……」
 小さく呟き、たけおから視線をそらす。
 胸が思い切り押しつけられていることは、黙っておこう。
 思わず手を放されて、落ちてしまったらそれこそ困ったことになる。
「で、どっちに行けばいいんだ?」
「わっ、わかっ、分かんないですそんなのぉ!」
「お前が行きたい場所だろ。方角とか地名とか、なにか指標をよこせ」
「ぇあっ、おっ、つづら尾崎展望台! つづら尾崎展望台です!!」
 混乱しつつも絞り出された地名に、ふむと視線をめぐらせる。
 俺の世界では地名を囁けば、その場所がこちらを呼ぶのだが、こちらの世界ではどうなんだろうか。
 たけおの呼びかけでは返答がないようだが、念のため呟いてみる。
「つづら尾崎展望台」
 途端、体が北西方向に加速した。
「にゃ、あぁああああ!」
「すごいな、この世界は地下魔力にあふれているぞ。名前を呼んだだけでこんなにグイグイくる土地はなかなかある物じゃない」
「それよ、それより! おろしてぇえええええ!!」
「無理だ」
「いやぁあああああああ!!」
 叫び声だけを残し、俺たちはつづら尾崎展望台とやらへどんどん加速していく。
 目的の場所に着いたときには、たけおは放心状態になっていた。
「ジェットコースター……ジェットコースターより怖い……」
「五分か。遠出と言うほどでもないな」
「こっちの世界では! そこそこ距離があるんです!!」
「分かった分かった、泣くな。帰りは速度を調整してやる」
「もう結構ですぅ……」
 鼻をすするたけおから体を離し、周囲を見回す。
 先ほどは眼下に広がっていた巨大湖が、展望広場の先で夕日に染まっていた。
「絶景だな」
 空を飛ばずとも、高い場所に来さえすれば美しい景色を一望できる。ここがそのための場所だと察し、感嘆の言葉が口をついた。
 後ろから、のろのろとたけおが顔を覗かせる。
「ふふふ……そうでしょう……」
「……顔色が悪いぞ。無理はするな」
「語りたいからここに来たのに、語れなかったら一生恨みます……!」
「一生か。お前たちの一生を賭けられては恐ろしいな」
 好きなだけ寿命をやりとりできる俺と違い、たけおの寿命は限られている。
 茶化しついでに笑ってやろうと口に出した言葉に、なぜか胸が痛んだ。
 思わず胸元を見るも、なにも怪我はないようだ。
 俺がそうしている間に、たけおはふらふらと歩み寄っていた。
「ここからは、奥琵琶湖が一望できるんです。ここにくるまでのパークウェイもそうですけど、湖岸も春夏秋冬、全部色が違って、来るたびに綺麗なんですよ」
 風が吹き抜けて、たけおの髪がふわりとなびく。
 ここにきて、もう完全に認めざるを得なくなっていた。
 俺はこの土地に愛を語るたけおに、そして彼女の語るこの土地に。
 確実に魅了されていた。
「ゆるキャラ人気が低迷してたって、新幹線が通らなくったって、繁華街じゃなくたって。この長浜が、私の大好きの塊なんです」
「大好きの塊、か」
 俺たちの世界で、俺がここまで誇れる場所はあったろうか。
 思い浮かばない。召喚されないコンプレックスを抱え、力ある者であるにもかかわらず、どこか引け目を感じて生きていた。
 それに比べてこの地はどうだ。
 デメリットを抱え、近隣の土地と比べられつつも、こんなにも土地を愛し、すがすがしく生きている女を生み出している。
「――確かに、ここはいい土地だな」
「そうでしょう!?」
 我が意を得たりと振り返ったたけおに、素直に同意する。
 そこに嘘はない。
 むしろ、この土地ならば俺もそうなれるだろうかという期待ばかりが、今や胸中を占めていた。
 それをどこまで分かっているものか、たけおはペロリと舌を出す。
「でもあんまり好きすぎるのも問題なんでしょうね。誰も私の話を聞いてくれないのが悔しすぎて、魔王さんを呼び出して話を聞いてもらうなんて振り切れたことをしちゃったんですし」
 照れくさそうに頭を掻くたけおに、振り切れた行為という自覚はあったのかとなぜか安堵する。
 しかしそれほど思い詰めていたのは事実だと思い直し、俺は数度、咳をするフリをした。
「まぁしかしこれで、お前の萌え語りをぶつけるという望みも叶ったんだろう。あとは支払いを残すのみだな」
 ちらりとたけおを見ると、すべて理解した笑顔で顔を上げた。
「寿命ですよね! 大丈夫です、ご遠慮なく!」
「相変わらず思い切りのいい笑顔だが……本当にいいんだな?」
「はい、いつでも!」
「……話を聞くだけという簡単な契約だからと、対価が少ないはずだと高を括っているんじゃないか?」
「相場が分からないんで、そこはなんとも言えません。でも、満足したので文句は言いません!」
 脅し文句にも一切動揺することなく、心臓を差し出すように両手を広げているたけおに思わずため息が出る。
 自分を安売りするのもたいがいにすべきではないだろうかと頭が痛む思いを抱えながら、静かに息を吐いた。
「分かった。覚悟ができているなら、目を閉じろ」
 薄いまぶたが閉じ、儚くまつげが震える。
 これでも四百年以上生きている能力者だ。安く見られてはたまらない。
 一歩ずつ距離を詰め、俺はたけおの鼻先へと顔を近付けた。
「ヤーファンの名で申請する。この女の命尽きるまで、この世界への滞在を延長する」
「――え」
 たけおの瞳が開く前に、接吻ける。
 柔らかな感触を名残惜しくついばみ、離れたときには、たけおの顔は夕陽のように赤く染まっていた。
「な、な、な……!!」
「満足した? 嘘をつくな。溜めこみ続けてようやく解放された思いの丈が、たった一日で昇華されるわけがないだろう」
 口元を押さえたまま混乱しているたけおを余所に、極めて陰惨に笑ってみせる。
「お前との契約は萌えを俺にぶつけること。それが終わるまで、俺はお前と行動を共にするしかない」
 手を取り、そこにまた接吻ける。
「どうせお前の命尽きるまで、それは終わらんのだろう。いつもいつでも、思いが滾ったとき、俺にすべて話すがいい」
 たけおの目を覗き込めば、広い空の中、俺だけが写っていた。
「俺は常に、お前の隣にいよう」
 一世一代の告白。の、つもり。
 今まで言い寄ってくる女はいても、魅了された女はいない。
 従って、女を口説くやり方が果たしてこれで合っているのかも分からないまま、友人知人のやり口を真似た。
 たけおは放心したように俺を見つめたまま、動かない。
 滞在期間の延長を申し出た後だ。これで拒絶されたら目も当てられない事態になる。
 時間が経つにつれて不安になってきた心の内を隠して返答を待っていると、やがてたけおは泣き笑いの表情で眉尻を下げた。
「大変。私、萌え語りの対価に寿命を全部取られちゃうんですね」
「そういうことだ。異議は?」
「ありません。だって、自分で覚悟したことだもの。――でも、あのね」
 花のように綻び、高揚を隠して頬を手で覆う。
「ここ、恋人の聖地とも呼ばれてるんですよ」
 まるで恋愛小説みたいと語られた言葉の意味は分からなかったが、笑いかけてくる表情の柔らかさと愛しさに、隠れて成功を祝す拳を握る。
 たけおとこの土地に居住する権利を得た今、俺の心はすでに空を舞っていた。
 そういえば聖地というからには、ここで恋に殉じた男女でもいたのだろうか。
 ならばそれを模し、ここから二人、空に身を躍らせながら帰宅するのも悪くはないと唇を吊り上げた。

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