⒌龍雲

　
　帰宅した僕は、すぐに風呂に入って身体を洗い、ゆっくりと湯船に浸かった。
　そして目を閉じて、昨夜から今朝にかけて起こった一連の出来事について回想した。
　言うまでもなくそれは僕にとって大事件であり、特に菊石姫が最後に残した言葉は印象的で、天職であると言われた自分の職業の意味をあらためて考えてみる必要があると思った。また乎弥神社の神主の轟氏との出会いにも運命を感じ、彼は今後の僕にとって重要なキ－パ－ソンになるのでは？という予感がした。
　
　その後遅い朝食を取っていると、廊下の電話が鳴り響いた。おばあちゃんが出るとそれは父からで、すぐに僕が呼ばれた。緊張した面持ちで電話に出ると、意外にも耳元からは穏やかな声が聞こえた。

「おお、音弥か？久しぶりだな。元気か？」
　少しほっとした僕は明るく返事をした。
「ハイ、お父さん。お陰様ですっかり元気になりました」
「そうか？それは良かった。それはそうと明後日からはまた練習を再開するぞ。わかっているな？」
「ハイ、もちろん分かっています。明日の朝にはここを発ちます」
「よろしい。何だ珍しく素直じゃないか？その様子なら龍笛のほうも、さぞかし上達したと期待していいんだろうな？」
そら来た！と思いながら、僕は自信をもって堂々と言い放った。
「もちろんです！きっとお父さんを驚かせてみせますよ」
「ほう、そうか？それは楽しみだな。では明日待っているから気をつけて帰って来るんだぞ。それからお義父さんにはくれぐれもよろしく伝えておいてくれ。お前も忘れずに、よく礼を言って帰るんだぞ。それじゃあな？」
　　ガチャン！！
　父さんからの電話はいつものように、そこで一方的に切られてしまった。でも僕は苦笑しつつも、今までに覚えたことのない爽快感を感じながら、受話器を置いたのであった。

　その夜は僕の長浜滞在最後の夜となった。
食卓にはいつも以上にごちそうが並んだが、中でも特に目を引いたのは、鮎寿しだった。これは塩漬けにした鮎を米、酢、麹等と共に漬け込んで作られたもので、湖北地方では正月や結婚、祭りなどに供される、特別な一品である。
「これはね、今度の音弥の初舞台のはなむけとして、おばあちゃんが特別に作ったんだよ。秋鮎は脂がのって美味しいから、力が付くよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
　僕は何て幸せ者だろう？と思いながら手を合わせ、ゆっくりとそれを堪能した。

　食後、僕は祖父母に精一杯の感謝を込めて、龍笛を演奏した。その後聞いてほしい事があると言って、昨夜の出来事を全て話した。話し終わるとおばあちゃんは涙を浮かべてこう言った。

「それはきっと、お前の真心が湖の神様である菊石姫に届いたんじゃないだろうか？」
「ああ、多分そうじゃろうなあ？だがなあ音弥、お前はまだ若い。だから決しておごってはいけないぞ。その経験を大切にして、これからは一層精進して芸の道を極めて行かなければな？」
　おじいちゃんのその言葉は重く、僕の胸にずっしりと響いたのだった。

　翌朝は旅立ちの日に相応しく、澄み切った青空が広がっていた。
僕は玄関先で祖父母に心から礼を言って抱き合った。呼んでもらったタクシーに乗り込もうとしたとき、おじいちゃんが叫んだ。
「音弥、またいつでも余呉に帰っておいで！」
「うん、必ずまた来るよ。おじいちゃんもおばあちゃんも元気でね？」
　僕は振り返って答えると、タクシーに乗り込んだ。二人は僕が見えなくなるまでずっとずっと手を振り続けてくれていた。
　
　その後、タクシーは来た時と同じ道を進み、間もなく湖畔の通りに出た。しばらく進んだ後、突然運転手さんが大声を上げた。

「お客さん、あれ。あそこの空を見てご覧なさい！」
　驚いて空を見上げた僕は、目を見張った。そこには巨大な龍の形をした雲が現れていた。
「いやあ、こりゃ見事な龍雲だ。滅多に見られるものじゃありませんよ。お客さん、龍雲は吉兆のしるしと昔から言われてるんですよ。良かったですねえ？」
いかにも人の好さそうな運転手さんが、相好を崩しながらそう言った。
「お願いします！ちょっとここで止めて下さい！」
僕がそこで興奮して叫んだので、タクシーは急停車をした。そこで急いで外に飛び出て、空を仰いだ。

　湖上に浮かぶ大きな雲のシルエットはまさに、僕が出逢った菊石姫そのものだった。
「菊石姫…」
僕は涙を流しながら、呟いていた。
　雲はしばらくの間頭上にとどまった後、やがてゆっくりと湖の向こうに消えて行った。
それはまるではるか彼方、天の国に旅立って行く、菊石姫のようであった・・・

　　終