改めて卓上を見ると、果たして本当に一人前だろうかというほどの料理が並べられていた。
「あの、女将さん」
「はぁい」
「これ、俺一人で食うの?」
「ほうや。よぉけに見えても、食べたら皆さんペロッといかはるから、多分渋谷さんも大丈夫え。ちょっとずつしかよそってへんし」
 ニコニコとしたアメの言葉を信じ切れず、マジかと小さく呟く。
 確かに腹の虫は空腹を訴え続けている。しかしそれらを前に腰を下ろすと、物量に圧倒すらされた。
 特に卓の中央を陣取っている、鍋の存在感が凄まじい。
 最初はあの大ガエルと食事でもして親睦を深めるのだろうかとも思ったが、食事の支度が整っているのを知らせた後、さっさと部屋の外へと行ってしまった。どうやらあれは置物を交換するための恒例行事なだけで、一晩同室させられるわけではないらしい。
 そこに気付いてようやくこれが一人前なのだと実感した渋谷は、三十路を前にして翳りを見せ始めた食欲と胃を心配しないわけにはいかなかった。
 しかしここは怯むよりも挑むべきかと箸の手前に置かれた献立に目を走らせた時、名物なのか、見慣れない料理の名前が並んでいることに気付く。

――――――――――――――――
| 先付 子鮎の甘露煮     |
|    黒豆煮        |
| 凌ぎ 鯖そうめん      |
| 向付 鮒の子まぶし     |
| 炊合 赤こんにゃく・ひじきの|
|    焚合わせ       |
| 揚物 ブラックバスとなまずの|
|    天麩羅        |
| 汁物 鮒寿司の吸い物    |
| 鍋物 鴨鍋         |
|     信長葱・セリ・牛蒡 |
| 御飯 戦国いなり      |
| 甘味 菊水飴        |
――――――――――――――――

「鯖そうめん?」
「長浜の名物! 甘辛ぁ煮た鯖を乗せたお素麺で、濃い味の鯖に薄味のお素麺がよぉ合って、あっちゅう間に食べてまえるの!」
「へぇ」
 興味を惹かれ、躊躇していたことも忘れて箸を取る。
 いただきますと断ってからまずはぎっしりとした印象を受ける鯖を口に運ぶと、歯を立てるか立てないかの内に口の中で崩れるそれに、渋谷は慌てて口元を押さえた。
「っ、鯖がすっげぇホロホロ!」
「ほぅやろ?」
「脂っ気はないのにパサパサしてなくて、出汁が染み出てくる。ホントにそうめんと合うなー。これはすぐなくなるわ。うん。ほぼ一口で食えた……」
「ケッケッ、気に入ってもらえたなら嬉しいわぁ」
 自分でも思いがけない速度で完食したことに驚く渋谷を、アメがおかしそうに見つめる。しかし今や渋谷にとって、微笑ましげな視線など、気に留めるほどの物ですらなくなっていた。
 未知の美食に出会うのは旅の醍醐味とも言える。
 美味いものに目がない渋谷は、次いで粉がまぶされたような刺身に目を留めた。
「これ、なにかな」
「それは鮒の子まぶし。鮒のお刺身に、鮒の卵をまぶしたぁんの」
 説明を受けつつ、頬張る。
 今度は一噛みごとに弾ける卵の食感と、新鮮で弾力のある刺身が舌先で踊った。
「お、プチプチとコリコリの新食感! とびこやししゃもの卵が好きな人はハマりそうだな」
「小さい子でも、人間さんはプチプチが好きって聞くねぇ。あ、でも渋谷さん! 長浜で鮒言うたら、やっぱり鮒寿司は食べとかなあかんよ」
 にやりとしたアメの表情に、あえて見ないようにしていたメニューを指摘されたように感じ、渋谷の手が止まる。
 ちらりと流し見れば、蓋のされた塗り椀がじっと出番を待ち侘びていた。
「鮒寿司かぁ……。名前は知ってるけど、ちょっと勇気出ないかも……」
「よそから来た人はそぉ言わはるけど、みんな想像の中でマズくしすぎやって。食べやすいようにお吸いもんにしたぁるし、騙された思て食べとくない」
「女将さんがそこまで言うなら、頑張るか……」
 女児からわくわくとした目で見つめられれば、成人男性として引き下がるわけにもいかない。恐々としながら椀の蓋を取ると、渋谷は覚悟を決めて口をつけ、なみなみと揺れる吸い物を口に含む。
 途端口の中を、ふんわりと鮒のうまみと香りが広がった。
「……うま」
「せやろー!」
 渋谷が感嘆の言葉を漏らした直後、アメが歓喜に手を叩く。
「鮒寿司って、臭いとかマズいとか散々言われてるからビビってたんだけど、吸い物にするとこんなに美味いんだ。発酵臭も気にならないし、いい風味になってる。身も柔らかいな」
「そうそう、渋谷さん説明上手で嬉しいわぁ。そのまま食べると苦手な人でも、お茶漬けやお吸いもんは好きな人多いんよ。食わず嫌いはもったいないえ」
 してやったりと胸を張るアメに、お見それしましたと頭を下げる。
 しかし満更でもないらしい笑顔を見た瞬間、渋谷は不意に首筋にひりつくものを感じ、動きをピタリと止めた。
 アメに気取られぬよう用心深く視線を巡らし、気配の出所を探る。それが部屋の外から来ているらしいと知ると、節張った指は一度箸を置いた。
「女将さんは、長浜が人間に好かれると嬉しい?」
「嬉しなぁ。うちらは化けガエルやけど、この土地で生まれたモンや。自分の地元が好かれて嬉しい気持ちは、人間も妖怪も、神さんも仏さんも変わらへんと思うえ」
 ふふと緩んだ頬に、そうかと頷く。
「女将さんはいい子だなぁ。世の中みんながキミみたいならいいんだけど」
 言って、すくと立ち上がる。
「ごめん女将さん、続きは後で食べさせてもらってもいいかな」
「あら。やっぱりお腹いっぱいになってしまわはった?」
「全然! むしろまだまだ腹減ってて、早く続きを食べたいくらいなんだけど」
 困ったように、下を指さす。
「下の階にナニか来てるみたいでね。このままじゃ俺、ゆっくり飯食える気分じゃないの」

  □  ■  □

 首筋の痺れ頼りに辿り着いたのは、大浴場だった。
「風呂の準備もしねぇで風呂に来るの、なんか変な感じ」
 呟き、大きく息を吐いて引き戸に手を掛ける。
 今日は渋谷のほかに客がいないという証言を得ているが、扉の向こうからは妙な気配があふれ出ていた。
「悪霊ではなさそうだけど、怒ってる雰囲気は感じる。――やだねぇ。せっかくいい気分だったのに」
 しかし、ブツブツと文句を言えるのはそこまでだった。
 勢いよく引き戸を開けて一歩踏み出そうとし、その足を引っ込める。
 眼前に建っていたのは、脱衣所いっぱいに広がる楼閣だった。
「……んん?」
 理解が及ばず、驚きすらも通り越して考え込む。
 入室を拒むように立ちはだかる壁は、手を伸ばせばスカスカと指をすり抜けていく。触れた感覚すら一切ない。
 ましてよく見ればゆらゆらと揺蕩っているそれに、やがて渋谷は音を立てて手を打った。
「おぉ、幻か、これ! すげぇな、でもなんで風呂に幻なんだ」
 思いがけず興味を惹かれ、風を起こしては幻の壁を揺らしてみる。
 たやすく揺れ動き、ともすれば掻き消えそうになるそれが、やがて苛立ったように大きくうねった。
――かえして。
「うぉっ」
 咄嗟に怯み、一歩下がる。
 しかし特に攻撃してくる気配もないそれに、再度顔を近付けた。
「かえしてってか。アンタになにか返すの、それともどっかに帰りたいの? もしくはなにか孵せばいいのか?」
――かえして。
 繰り返す声に、低く唸って髪を掻き上げる。
「難しい言葉は分かんねぇタイプか……。どーしょっかな。アンタ、ここで待てるな? 動くなよ?」
 言い置き、チラチラと気にしながらもアメが鍋の具材を下げに行った厨房へと走る。
 古い旅籠らしさがありありと残る土間は暗く、アメの淡緑の着物だけがはっきりと浮かんで見えた。
「女将さん、ちょっといいかな!」
「は、はい!」
 突然の声かけに驚いたのか、アメの姿が音を立てて消える。その瞬間、床に小さなアマガエルが落ちていた。
 しかし次の瞬間にはまた音を立てて現れ、恥ずかしそうに渋谷の前に走り寄ってくる。
「すみません、恥ずかしぃとこ見られてしもうて。なにがありました?」
「いやいや、こっちこそ急にすんません。風呂場にね、でっかい幻があるんだよ。そんで、かえしてかえしてって言ってんだけど。なんか分かるかな」
「幻?」
 アメが考え込んだ、その時だった。
 ポンプ式の井戸と隣接した流しに、一滴の水が落ちる。
 ぴちょんと跳ね返るかすかな音が静寂を破ったかと思えば、その中からけたたましい泣き声が迸った。
「――ッ!!」
「渋谷さん!?」
 耳を押さえて蹲った渋谷に、アメが慌てて取り縋る。
「なに、どないしはったん!?」
「すっげー声……女将さん、聞こえてない?」
「え、え!?」
「聞こえてねーならいいんだ。マジでスゲー声だから、聞こえない方がいいかも」
 泣き声で返答が聞こえないまでも、その当惑した仕草で察しをつけ、気合いを入れて立ち上がる。
 肌をビリビリと刺激し、両耳を塞いでもなお鼓膜を突き破りそうな声の主は、流しの中で水桶に並べられていた。
「シジミ、か」
 あまりの声量に、思わず冷や汗が額を濡らす。
 少しの辛抱と覚悟を決め、桶を抱えて軽く揺すると、ザラザラという音の代わりにピタリと声がやんだ。
 まるで赤ん坊のようだと肩を降ろすと、アメがその桶を覗き込む。
「琵琶湖でしか獲れへんセタシジミや。昨日田川カルバートに泳ぎに行った時、よぉさんおるのを見つけてね。朝食のおすましにしよう思て、砂抜きしてたん」
「田川カルバート?」
「虎姫にある場所でな。姉川って大きい川の下を、田川って細い川が通り抜けてるんよ。琵琶湖まで続いてんにゃけど、交差のところは柵がされとって人が入ってこぉへんから、うちらの遊び場になってるん」
「川の下に川!? なにそれ、おもしれぇとこあるね!?」
「ほうやろ? 長浜、面白いしえぇとこなんよ」
 確かに面白いと頷いてから、ニィと唇を吊り上げる。
「人間が来ないってことは、水辺に住む妖怪には避難場所みたいなもんだろうな。――ねぇ、女将さん」
「ふん?」
「すまし汁、献立から外してもいい?」
「うちはえぇけど……。まさか、原因てシジミなん? でもなんで幻?」
「ふっふー、それはまだ秘密」
 あやすように桶を揺らしつつ、風呂場へと向かう。すると半分の距離もいかないうちに、じわじわと浸食を進めていたらしい楼閣へと行き当たった。
 ぐにゃりと揺れ動くそれは、触手を伸ばすように壁際から二人の背後へと回り込んでいく。
――かえして。
――かえして。
――かえして。
 壁に反響しているのか、それとも正しく四方から声が発されているのか。
 どちらにせよ波のようにずずと押し寄せる声に、アメは不気味そうに身を縮め、渋谷にしがみつくことで耐えていた。
「渋谷さん、幻ってこれ? 嫌やわ、どっからこんなん」
「さっきの泣き声に反応して寄ってきたんだ。動くなって言ったんだけど、やっぱ聞いちゃあくれなかったな」
 大丈夫だよとアメを宥め、音を立てて揺らした桶を、楼閣へとまっすぐ差し出す。
「アンタが返して欲しいのは、この子達だろ」
 渋谷の言葉が終わるか終わらないかの内に。
 楼閣は大きく円を描くように波打ちながら、やがて一カ所へと収束していく。
 まともに見ては脳を掻き回されるような錯覚に襲われ、アメを抱えて思わず壁に背を預ける。
「女将さん、見んな!」
 世界が反転する感覚に吐き気さえ覚える中で、ゴトリと音を立て、それが床に落ちたことだけを理解する。
 乱れた平衡感覚を頭を振ることで強制的にリセットし、どうにか目を開くと、そこには直径二十センチはあろうかというシジミが転がっていた。
「きょ、巨大シジミ!?」
「そ。幻っつーか、さっきのは蜃気楼だったんだ。だから最初に出てきたのは、水の多い浴場だったんだな」
 分かりづらい登場だと笑い、しゃがみ込んでシジミを眺める。
「蜃気楼って、元々ハマグリの妖怪なんだ。貝ならシジミだろうとなんだろうと蜃気楼を出せる奴はいるだろうと思っちゃいたけど、いやー……。このデカさは予想以上だな」
 感心し、指先でつつき回す渋谷の隣に、アメもちょこんと座り込む。
「そういえば、琵琶湖にも蜃気楼が出るんよ。あれ、もしかしてこの人みたいなでっかいシジミさんが出してるんやろか」
 その発言から時を置かず、シジミの口がわずかに開き、じわじわと新たな蜃気楼が現れる。
 咄嗟にアメを庇い身構えた渋谷だったが、今度は楼閣ではなく悲しげな女性を象りつつあるのを見止め、安堵の息を吐いた。
 眩暈の最中も抱え込んでいた桶を差し出すと、揺らめく手がそっと受け取る。
 がらんと大きな音を立てて桶が転がると、中のシジミ達は一粒残らず女性の腕の中に抱かれていた。
「捕獲されそうにない場所を選んで子育てしてたのに持って行かれたもんだから、慌てて取り返しに来たんだろ?」
 渋谷の問いに物言わず頷いた女性は、そのまま深々と頭を下げる。
――おやかましさんでした。
 それはこれまで聞こえていた物と打って変わった、涼やかで柔らかな声だった。
 それきり、巨大なシジミごと掻き消える。残されたのは転がった桶と、こぼれた水ばかりだった。
「……あのシジミらのお母さんやったんやね」
 半ば呆然と余韻に浸り、アメがぼんやりと口を開く。
「だね」
「悪いことしてもぉた。ちゃんと謝らなあかんかったんに」
「そこは別にいいんじゃねーかな。基本的に世界は弱肉強食だ。あのお母さんも、本当は分かってるはずだよ」
「うん、ほんならえぇんやけど」
 切り替え、納得した様子で口元を緩めるアメに渋谷の目が細まる。
 しかし降って湧いた案件が無事にカタヅケを終えたらしいと胸をなで下ろした途端、それまで自粛していた腹の虫が、ひときわ大きく不満を訴えた。
 多少離れていても聞こえるだろう盛大なその音に、思わず渋谷とアメの目が点になる。
 やがてあまりの音量を恥じた渋谷の顔が燃えるように赤くなるのと、アメが噴き出すのとが同時だった。
「ご飯、途中やったもんねぇ」
「すんません女将さん、腹減りました……」
「なにを謝らはることがあるの。お客さんにご不便おかけしてもぉたんやから、ういんはこっちやわ。おおきに、ホンマに助かりました。すぐお鍋しますよって、お部屋で待っとっとくない」
 楽しげなアメが厨房へ消えるのを見届け、よろよろと階段を上がる。
 考えてみれば、疲れ切って辿り着いた宿で口にしたのはまだ吸い物と刺身、鯖そうめんだけだ。
 疲労具合を考えれば、空腹の限界を超えていても無理はない。
「……やっべぇ。完食はできそうだけど、風呂場で寝落ちたらどうしよ」
 体力に自信はあるが、怒声に晒され、化かされ、渋谷の苦手なことが立て続けに起きており、精神的な疲労が強い。
 先ほど覗いた浴場からは、温泉の香りがしていた。
 せっかくの温泉を楽しめないのは残念だが、最悪の場合、食事を済ませたら速やかに横になってしまおうと考え、口をつくあくびをかみ殺す。
 せめて鴨鍋を味わうまでは睡魔を調伏してくれようと、渋谷は音を立てて頬を張った。

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