大学時代の悪友から遊びに来いと誘われ、31歳のSE(システムエンジニア)の大井淳仁(おおいあつひと)はブランデーケーキを手土産にして訪れると、呼びだし音で玄関を開けててくれた悪友の妻がなにか含みわらいをした。
おや何か魂胆があって驚かすつもりのようだが、なにを企てているのか、以前はタバスコ入りのコーヒーを飲まされた。今度はなんだろう。
リビングに通されると、女性の先客かいた。笑い声に悪友の手もとを覗くとビール瓶らしきをカバンに入れる仕草をしている。また大学祭の打ち上げ時の失態を盛ってしゃべっているのか、彼女も笑いすぎだと眼を向けたとたん、つぶらな瞳に吸い込まれてしまった。
―この人と、どこかで会った気がするー
 女性に釘付けのまま、どこで会ったか頭の引き出しを次々開けていたら、
「顔になにかついています?」
 あまり長く観ていたので女性が不思議そうな顔をする。悪友の妻が、
「学生時代からの友人で尾崎ナセリさん、城めぐりが好きな歴女なの」
だったら28歳か、それより若く見えるな、城ならおまかせと現存天守十二城のどこそこに行った。桜のシーズンはまた格別と話が盛り上がって、次の休みのデートを申し込んだら悪友の妻がしたり顔になったので、最初の含み笑いの謎がとけた。
ただナセリは介護ヘルパーで会社のシフト表で休めるので、なかなか土日のデートが出来ず、ましてそろって旅に出ることが出来なかった。だが喫茶店でたまたま広げた雑誌にあった伊豆の恋人岬に沈む夕陽の一枚に、ナセリが「行ってみたいな」と呟いた。
「だったら、駿河湾の桜エビも十月から解禁とあるし、行こう」
何か期するものが互いにあって、ナセリは手帳に挟んだ出勤スケジュールをめくる。一ヶ月後、沼津駅でレンタカーに乗り替え、日本一の霊峰富士山と駿河湾を望む西伊豆の駐車場に停めると、ナセリの顔が輝く。
「みて、富士山がきれい」
「裾野まで雄大だな」
展望台の鐘の音が耳にひびく。
「だれか先客みたい」
どんな人かなと恋人の鐘のある場所を覗くと、交代で写真を撮りあっている熟年夫婦がいた。向こうも気づいて会釈したので、物怖じしないナセリが声をかけた。
「永遠の恋人なんですね。せっかくですから一緒の写真をお撮りしましょう」
夫が奥さんの肩に手をまわした決めポーズをカメラに収めると、スマホを指さし大井とナセリも撮ってあげるという。映像を確認し互いに礼を述べたところで話が弾んだ。
「どこからお見えですか」
「大阪からですよ」
「あれ、私も生れはそうで、だけど今は妻と滋賀ですわ」
恋人の岬に惹かれてきたことを告げると、熟年夫婦は滋賀にも恋人の聖地があるという。どこだろうと興味を示すと、奥さんがニコニコしながら、
「お嬢さん、私は主人を恋人の聖地・菅浦で捕まえたのよ」
「捕まえ、どうやって?」
「海水浴で、着替えをー」
 奥さんがしゃべろうとするのを、夫があわてて口をふさいだ。
「もう昔の話でエへへ、なにか恋人を引き付ける地なんでしょう。改めて自己紹介すると長浜でボランティアガイドをしている弓削です。菅浦に保良宮という宮跡があって、少し高台にある恋人の聖地は琵琶湖の景観がすばらしい所でぜひ来てください。案内します」
 大井が知っているのは天智天皇の大津宮だけ、保良宮がわからない。
「恋人の聖地。わー、行きたい。行きましょうよ。淳仁さん」
 同意を求められた大井は、リップサービスをまともに受けては悪いと、
「いや、お忙しいのに、案内はー」
「遠慮は無用ですよ。菅浦には恋人の聖地だけでなく。四足門など珍しい建造物や幻の天皇陵もあります」
勧められた大井も名乗って電話番号を交換した。ナセリは恋愛秘話が気になり、
「奥さん、次はさっきの話も教えてくださいね」
 奥さんはわかっているわと、うなずいてほほ笑む。

 303号線を右折し、丸子船の館を過ぎると湖畔はススキの穂がたなびいて秋を奏でている。フロントガラスに広がる稲株に、大井はこんな山あいに田があるのかとおどろく。やがて右へ左に曲がる湖畔沿いの道の向うに、頭でっかちの茅葺の門がある。
―おや、初めてなのに、来た事があるようなー
奥びわ湖の隠れ里ともいわれる菅浦は、伊勢神宮の神域を思わせる静寂で神秘的な雰囲気がただよう。湖面を渡る風が浜に穏やかな波音を届け、映る比良の山並みもいましばらくすると紅葉に彩ずく。また鬼の首にも見える地形だけでなく、平城京から丑寅(北東)の鬼門として宮がおかれた伝説もわかる。
門は道路の樹木の陰に見え隠れ、切妻で茅葺の屋根を四本の柱が支えている。でも扉がないのはなぜだろう。
「あれが、四足門なの。小父さんが謂ってた門ね。あんな門は初めて見た」
 助手席のナセリが、前方の湖畔に設けられたパーキングを指さす。
「あ、小父さんがいる」
大井が車をそばに停めてドアをあけると、、
「いらっしゃい。待ってたよ」
弓削悟が、迎えてくれた。
「お誘いに甘えてきてしまいました。あれ奥さんは?」
「それが急に孫が熱を出して、娘がパートを休めなくて、でも夕食にビワマスの刺身を用意している。是非、一緒に食べましょう。面白い話の続きもしたいそうだ」
 ナセリは奥さんの恋愛テクニックを聞きたかったみたいで乗り気の表情であったが、家まではあまりにもあつかましいだろう。
「そこまでしていただくと」
「こんなこと初対面の人に言ったことは無いけど、なにか大井さんは他人と思えない。またボランティアガイドとして菅浦だけでなく、羽柴秀吉と柴田勝家の戦った賤ヶ岳の古戦場や羽衣の天女伝説のある余呉湖なども案内するよ」
「え、羽衣伝説は三保の松原では」
「それが余呉湖にもあるんだよ。ただこちらは羽衣をかけたのが松ではなく、柳なんだけど、詳しくは現地で話そう」
「へえ、柳か、面白い」
「木ノ本宿のサラダパンも沢庵入りで美味しいし、木ノ本地蔵院や赤後寺(しゃくごじ)も案内して、わが家にも寄って欲しい。遠慮して来ないというと家内が泣くよ。人助けだと思って、この通り」
櫛が要らなくなったという頭を下げられると、もう断れない。
「では、お言葉に甘えるか」
 ナセリはそれがいいと大きくうなずく。それと門の疑問を聞いてみた。
「弓削さん、この四足門には扉がない。なんの役に立つのですか」
「土地争いなどで敵が攻めてくると、倒して茅に火をかける。煙で敵がたじろぐ間に防御態勢をかためる」
「侵入する賊に対する時間稼ぎなら、堀を掘った方がいいのでは」
「煙があがれば、琵琶湖に出ていた漁師も気が付くんだよ」
そうか狼煙代りか。弓削が恋人の聖地に行く前に、まず須賀神社から案内するという。四足門を抜けるとただの門でなく、かすかにエアカーテンをくぐったような感触があった。
―これは、火の壁や狼煙の役目もあるが結界だー
 心にだれかの声が聴こえ、左手に瓦屋根の小屋に六つのお地蔵様が並べられていた。目の前の弓削は鳥居を指さし、
「元は保良神社といって、淳仁(じゅんにん)天皇だけを祀っていましたが、明治になって小林神社と赤崎神社の二社を合祀したことで須賀神社に改称したんですよ」
 扉の閉まった神輿堂の前で、なにか思い出し笑いをしながら、
「大井さん、選挙に出る気はありませんか」
唐突に弓削が投げかけたが、大井はとんでもないと首をふると、須賀神社は選挙の神様とも知られ、滋賀県民で政界に打って出るものは必ず参拝して必勝祈願をするという。
須賀神社への坂道を登る途中の菅浦郷土資料館にはいると、中世の四足門を通行する親子連れを描いた絵画や葛籠尾崎の沖から出土した縄文時代からの土器などに加え、中世から伝わる古文書もあり国の重要文化財に指定されていた。
 やがて参道が石段に変わった所に柵がもうけられて、進むことを妨げる。横にある小屋にはサンダルが乗せられた棚が並び。ガイドをする弓削が、
「ここから土足厳禁でして、裸足になります。石段は気持ちがいいが、境内に敷かれたバラスはとがっていて歩くと結構痛い、あちらに準備されているサンダルに履き替えて参拝されてもかまいませんよ」
「痛いのはイヤ、サンダルにします」
ナセリは黒髪を整えながらサンダルを手にした。
「僕は折角の体験だから裸足で参拝するよ」
 大井は靴を脱いでソックスを中につめた。柵を超えて石段を踏むと、冷たい中に温かみがあり、この感触は昔に味わった気がする。
 弓削が二人の前を裸足で歩きながら、
「さっきも言いましたが、須賀神社は古くは保良神社といい。昔からの伝承で淳仁天皇が隠棲した保良宮の跡だと伝わり、平城京の北の京として孝謙太上天皇や藤原仲麻呂などもみえられたこともあります」
「さっきからわからない。じゅんにん天皇とは、いつの時代の方ですか」
「奈良時代、女帝で知られた孝謙天皇の次の第四十七代天皇で、淳と仁と書きます」
「あれ、同じ字だ。ぼくはあつひとだけど」
「奇遇ですね。藤原仲麻呂こと恵美押勝が、即位を全面的にバックアップしました」
 大井は聞き覚えがある名前に
「藤原仲麻呂は、なにか乱を起こしたのでは?」
「孝謙太上天皇に反旗を翻しました」
「乱の原因は何でしたか?」
「この保良宮で太上天皇孝謙が病になったとき、僧の道鏡が病を治したことで信任をえて、政を牛耳るようになりました。快く思わぬ藤原仲麻呂が兵を挙げましたが、湖の向う岸の三尾崎で敗れて首を斬られ、淳仁天皇は連座して廃帝になりました」
「道鏡といえば宇佐神宮の御神託で天皇になろうとして、和気清麻呂に阻まれた破戒僧のことですよね」
「政を評価する人もいます。また道鏡の噂はご存じですか」
淳仁はナセリの前でいっていいかわからないが、
「あのデカマラの川柳で有名な僧侶ですか」
 言った大井は赤面し、聞いていたナセリは横をむいてしまった。
 やがて登り切った本殿の境内はバラスというより砕石のようで、痛さでいけば針のむしろだった。そっと足を乗せただけでも痛みが走って、とても前に進めない。注意深く足元だけを見て歩を進めていると、弓削が本殿に手をあわせ、
「この本殿に御座所があって、淳仁天皇自は榧(かや)の木で御躯の御肖像と皇后の御肖像を彫られました。そして肖像に神霊をとどめ置くの言葉から、本殿の上に石を舟形に積んで祀り、御陵とされています。ただその肖像の拝観はできません」
 ナセリは拝観できないのは残念という顔をした。さらに弓削は、
「この神社の裏山の斜面を、這い坂(はいざか)と呼びます」
「どういう意味ですか」
「天皇の想い人が山の向こうに、会いたくて急峻を這って登った言い伝えがあります」
「お妃がいるのに、想い人ですか?」
「天皇は皇妃を伴っていません。いつ見染めた娘なんでしょうかね」
「でも、さっき皇妃の肖像の話は?」
「皇妃と伝わりながら、想い人かもしれません。大事にしていた皇妃が病に倒れ、最後の望みで琵琶湖がみたいといわれ、背負って登った峠を君連峠(きみつれとうげ)と言って、天皇は皇妃を抱いて湖を眺めて永遠の愛を語りかけたそうで、その地が恋人の聖地となっています」
「ロマンテックなお話ね」
「いま恋人の聖地は、展望台が整備され奥琵琶湖が堪能できます」
「ぜひ行ってみたいわ」
 弓削はうなずき車で先導することになった。来た道を少し戻りつづら折れの奥琵琶湖パークウェイを走ると、目の前に丸子舟をモデルに帆をハート型にしたモニュメントが建っていた。大井淳仁はシートベルトを外すと、助手席に座っていた尾崎ナセリもつづく、
「あれが恋のパワースポットか」
「ハートの中の赤いのが、リボンなのね」
「行こうか」
 ナセリの手には、いつの間にか赤いリボンが握られていた。
「二人で結びなさいと奥さんが準備してくれたそうよ」
 淳仁がナセリから渡された赤いリボンをハートの帆の金網に通した。二人でリボンを結わえた時、どこからか湧き出た白い靄があたりを覆っていった。

 淳仁天皇は、即位前は大炊王(おおいおう)と呼ばれていた。まだ十六歳だった時、粟田諸姉(もろね)を妃に迎えた。諸姉はいくつか知らぬが十歳は年上であろう。元は藤原仲麻呂の長男真従(まより)の室であったが、真従が天平宝宇元年に従五位に昇叙した喜びのさなか、謎の死をとげて寡婦になった。しかしそのまま里に戻らず嫁ぎ先の藤原氏の田村弟に残った。
大炊王はまだ若く、この先はもしかして臣籍に降ろされるか、いかなる未来が待ち受けているか、まだなにもわからない時期だった。そんな時、光明皇后の覚え目出度い藤原仲麻呂から耳打ちされた。
「皇太子になれるぞ」
甘い言葉に前途が輝いた。時の孝謙天皇は未婚の女帝で子供はもちろんいなくて、有力な跡継ぎは廃嫡されたばかり、田村弟に移り大師の勧める妃を持つだけで皇太子に成れるならありがたい。てっきり大師の娘の東子あたりを目合わすと思い承諾をした。
 中宮院を出て田村第につくとすぐさま結婚の儀があった。絹を重ねた褥に連れていかれたが、初めてのことでなにがなんだかわからぬままに事を終え、身づくろいする妃をあらためて見ると相手は東子でなく諸姉だった。しばらくして大師から、
「懐妊めでたい」
と褒められ、その後も女官に文を託し褥をともにしようとしたが、懐妊中は児にさわる。産後は肥立ちがわるいと夜を供にすることもなく、あてがわれた女官と交合してから初めて男女のことがわかり、諸姉と過ごした夜はどうも違ったと気づく。
 生まれた山添女王を取り巻く女官から、
「お上にそっくりで、笑うとさらに似てござる」
といわれるが、どこが似ているのかわからない、微笑めばみんな一緒であろう。でも赤子は可愛いいものであやしていると笑顔をみせ、なついてもくれると離れがたくもなる。
八年の時が流れ、大炊王が淳仁天皇に即位したことで山添女王は安倍内親王になり、斎王となり斎宮に赴いた。天皇になったものの、全ては孝謙太上天皇と大師藤原仲麻呂の思いのままで、することは印璽を押すだけであった。
 そんな日々もしばらくすると波風がたった。行幸した保良宮で太上天皇になった孝謙天皇が声にもならぬ悲鳴をあげのたうつ。お付きの和気広虫尼はまたひきつけを起こされたと女官たちと手足や背をさするが収まらない。様子を伺いに来た大師藤原仲麻呂が命じる。
「禅師をよべ」
 あたふたと駆けつけてきた僧が法相宗の禅師で道鏡と名乗る。大師の前にひれ伏し、
「『解深密教』と申すお経を唱えます。秘儀にござれば、お人払いを願いたてまつる」
 太上天皇と道鏡がこもった御座所の中から梵語の経典が唱えられ、最初は大きかった太上天皇の声が徐々に小さくなっていった。これなら快癒に向かうと安堵してるとやがて怪しげな物音と、中から哀願のような声がもれてきた。
「禅師、われを救ってたもれ」
「おー」
 この日を境に、太上天皇がひきつけを起こされることがなくなった。ただ朝から晩まで道鏡が御座所にいてやがて政に口を出す。大師藤原仲麻呂が具申した建白が認可されずに、異なった詔が下がるようになった。大師は太上天皇と道鏡が男女の仲になったと邪推し、このままでは己の立場が危ういと、淳仁天皇から太上天皇に意見を申すよう迫る。
 淳仁天皇は太上天皇の御座所に赴き、仏道の十善戒から不邪淫の「異性に対しる邪まな行為にふけらない」を特に取り上げ、「李下で冠を正さす」と、遠回しに具申したが、「さかしい」と立腹された。
 太上天皇は傀儡の天皇に意見させた黒幕は仲麻呂と見抜き、若輩に軽んじられるようになったのは太上天皇孝謙の不徳の至りだと平城京に戻り、法華寺で出家した。ただしこれからのちは大事なことは太上天皇が、小事は天皇が採決すると詔を下し、道鏡を太上大臣禅師の位につけた。 
淳仁天皇も保良宮から平城京の中宮院に戻ると、道鏡禅師が参内して法話を始めた。
「お上は、太上天皇に不邪見でござる」
「なぜに、道鏡禅師」
「邪まな見かたを離れ、物の本質をありのままに見なされ」
「どういうことだ」
「仲麻呂殿の意のままに動くのはおやめなされ、太上天皇は仏の道を歩いてござる。真の仏道にすがって生きねば、やがて訪れる死で輪廻の苦から逃れられず、成仏できませんぞ」
「輪廻は苦なのか」
「次の生類にうまれても、虫やもしれず、牛馬かもしれませぬぞ、この世は一切が苦」
「それも面白いではないか」
「たわけたことを、仏道を軽んじられるか」
 淳仁天皇は藤原仲麻呂のお膳立てで天皇になれたが、蝶々や鳥のように気ままに暮らしたいと思い、できれば輪廻転生したいと願っていた。
 政は太政禅師になった道鏡の思惑通りに進み、弓削の郷の縁者が次ぎ次と昇任していった。これに焦った藤原仲麻呂は淳仁天皇を使って「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じさせ、畿内の兵を集め出したところを、太上天皇孝謙に先手をうたれた。
天平宝宇八年(764)九月十八日、反旗を翻した大師藤原仲麻呂は戦に敗れ、参州国碧海郡出身の石村石楯に捕えられ、湖北の三尾崎に引き立てられ妻子・従類ともども砂浜で首級を落とされ、砂浜を朱に染めた。仲麻呂の首級はさっそく京師に送られ、仲麻呂派と目される公家たちの処分が下された。
十月九日、兵部卿和気王、左兵衛山村王、外衛大将百済王敬福らが、淳仁天皇のいる中宮院を、綿襖冑(わたおうちゅう)を着けさせた数百の兵で囲んだ。兵は手に丸木弓を構えいつでも弦に矢が放てると威嚇の弦をならし、院内いる者どもを怯えさせた
 数百が身じろぐたびに珪甲が地鳴りのように響き、中宮に仕える者たちは一人また一人と院を抜け出していった。淳仁天皇に幼いころから仕える犬麻呂は去る者を追っても無駄だと悟り、天皇のおわす御簾の外から声をかけた。。
「お上、一大事でござる。中宮は数百の兵で囲まれており申す」
「ついに朕を捕えに参ったか」
「すっかり囲まれ、逃げる術はござらぬ」
 思案を始めた淳仁天皇の耳に、築地塀の外から、
「開門、いま外に出た者の命は取らぬ」
と聞こえてきた、ついに中宮に残っていた者達も大きなうねりとなって外に駆けだす。
 逃げる時にあけた門から兵たちが続々入ってきて、甲が磨れる音がだんだん大きくなった。刀を抜き武具で身をかためた兵たちが庭を埋めて行き、白砂が踏まれて騒々しい。
「お上の前である。無礼はゆるさぬぞ」
 犬麻呂の声は微かに震えている。やがて兵たちが左右にわかれ、中ほどを華麗な武具をまとった兵部卿和気王が進み出てきた。
「叔父上、いやお上、ご機嫌うるわしゅう。逆臣藤原仲麻呂は先月十八日、三尾にて討賊将軍の藤原蔵下麻呂によって討ち取られました」
「兵部卿よ、存じておる」
「主上の命でお上は淡路の三原へ幽閉いたす。護送には藤原蔵下麻呂が当たり申す」
「朕は、なにも太上天皇に逆らおうては、おらん」
 庭さきが騒がしいと、奥から母であり太后である当麻山背と妃の粟田諸姉が現われ、和気王をみとめる。
「これは、和気王いかがいたした」
「これは太后殿下、お上へ太上天皇の詔を告げにまいりました」
「いかなるものか」
「御恐れながら、帝を廃する詔が告げられ、淡路にお遷り願い奉ります」
 これに淳仁天皇が眼をむいた。
「廃帝にいたすと」
そばにいた太后当麻山背はすかさず
「わらわは淡路など行きとうない。和珥の郷に戻りますゆえ、お許しを」
 これには淳仁天皇がおどろいた。
「なにゆえに」
「お上が廃帝となれば内親王が斎宮からもどる、郷でまってやらねば」
「なるほど大師との娘を待つか」
「なにを、おたわむれを、内親王はお上との皇女ではありませんか」
「いつまでも謀れてはおらぬぞ。夜の事もあやしかった」
「皆の前で異なことを、いえ、お上の皇女でございます」
「真従の忘れ形見かとも思うたが、時があわぬ。大師と諸姉の触れ合うさまをみていれば、また大師の首級が斬られ知らせに、倒れた諸姉を見てわかった」
「義理とはいえ父上にござれば」
「まあよい、赦す。郷に戻れ」
「永き間、お世話になり申した。これにてお暇いたす」
 妃粟田諸姉はきびすを返して奥へ消えた。

 図書寮で廃帝を告げられた淳仁天皇が式台を降りると、淡路へ送られるために迎えに来た和気王の横に煌びやかな檳榔毛車が停まっていた。
乗り込もうと沓を履くと、和気王が行く手を遮って、建物の横へ目を向け誰かを手招くと、大炊王と同じ大袖を着込み、上袴をはいた若者が進み出てそのまま牛車に乗り込んだ。大炊王の後ろに佇んでいた太后当麻山背が驚いて、
「和気王、あれはだれじゃ」
「仲麻呂の残党が、お上を拉致してまた反旗を翻すとの密告がござった。万一の用心に身代わりを用意しましたので、お上にはこちらの牛車で近江にお連れします」
「わらわはどうなる」
「おばば様には、淡路にむかっていただき」
「ではわかれ離れになるのか」
「なにごともないことがはっきりすれば来春には大炊王殿を淡路にお連れしますので、しばらくはご辛抱ねがいます」
「兵部卿よ、あの身代わりはだれじゃ」
「弟の長津王でござる。初めは身代わりに奉公人でもよかろうと思うておりましたが。所作などでけどられると危ういことになるので」
母当麻山背は顔をほころばせて、
「長津王ならよき話し相手にもなる」
「それも考慮の上でござる」
二台並んだ牛車を、迎えに来た藤原蔵下麻呂が護って進みだした。大炊王は母と従弟を見送っていると 正面にみすぼらしい牛車が停まった。和気王が畏まって右手で差す。
「お上は、こちらの網代廂車にお乗りください」
「どこに参る」
「とりあえず勢多(瀬田)の国分寺に」
「そのあとは、いかに」
「多賀の伊弉諾神社へと」
「さようか、拉致が杞憂となればよいが、よきにはからえ」
 牛車は誰ひとり見送る者もなく門をいでて、宇治川沿いをさかのぼって勢多の石山寺を過ぎるとすでに夕暮れである。近江の国府に大師藤原仲麻呂を渡らせないように焼かれた唐橋が黒く焼けた橋桁を残したまま、川端には幾多の材木が積まれ架け替え工事にまさに取り掛かるところであった。
「唐橋もあのようで、今宵は国分寺に泊まり、明朝に国司の舟が迎えにまいります」
 丘の上にそびえる五重塔と瓦の波を眺めながら、
「大師も太上天皇と仲は良かったが、わからぬものだな」
 大師は太上孝謙天皇が道鏡を寵愛するあまり、政に危機感をいだいて退けようと謀叛を企てた。しかし密告され近江の国府に入って兵を集めるつもりが、先を読んだ吉備真備に唐橋を焼け落とされ、近江の国府に入れず、逢坂の関を抜けて越前にむかったが、愛発(あちら)関が越えられず悲惨な最期を迎えた。

 翌朝、勢多川には川船が用意されていて対岸にわたると国府の駅馬が用意されて、大炊王が騎乗すると鼻を鳴らし、蹄鉄で街道の小石を撥ねあげた。一行は東海道の草津追分を目指し分れで東山道へ向きを変え、蒲生郡衙をすぎて多賀の伊弉諾神社に入る。
伊弉諾命は宮家の祖神であり、『古事記』には淡海の多賀に座すとあるが、『日本書紀』には淡路の州に幽宮(かくれ宮)を造るとある。藤原仲麻呂にどちらが正しいのか問うたことがあったが、「どちらでもよかろう」とはぐらかされたことを思い出す。
この地に幽閉された身を悲しんでいるといつしか東の空が白ずみ、朝が来て和気王のよぶ声に起こされ、束の間、体をやすめただけでまた急ぎ駅馬に乗るように促される。
「朝、早ようから、いかがいたした」
「この地でも大師を慕う者が、よからぬことをたくらんで押し寄せると告げる者があり、伊弉諾神社ではお守りするのが難しゅうござる。よって、保良宮にお連れいたす」
 保良宮での暮らしを思い出してみると、保良宮は琵琶湖を望む半島の入江の菅浦にあって、背後は急な山が迫り、東西の集落へ続く道はなく、唯一の交通手段が船で、仲麻呂の残党が大挙して押し寄せようにも、船が無ければ手も足も出ない要害の地である。護りに固いことは、逆に逃げ出せない場所で幽閉には丁度よいかもしれぬ。
出立に際して供回りが手を取って馬に乗せようとしたが、大炊王は飛んできた枯れ葉を避けようとして急に立ち止まって、馬にぶつかってしまった。
「藤野、粗相をいたすな」
 和気王の叱責に大炊王は、
「朕が身を崩した。赦してやれ」
「申しわけござらん、この者の姉は、孝謙天皇に仕える和気広虫でござる」
 太刀を佩いた衣袍で片膝をついて畏まっている武官の横顔に、
「そうであるか」
 広虫か確か、保良宮で孝謙太上天皇が病になった時、そばに仕えていたな。姉に比べると引き締まった顔立ちで頼みになりそうな武張った男である。この男が後に改名して和気清麻呂となったことは、もちろん大炊王は知るよしもない。
「藤野、朕の不手際である。そこもとに罪はない。気にいたすな」
「これはありがたきお言葉で痛み入り申す」
一行は神々の住む伊吹山の麓へと蹄の跡を残して進み。醒ヶ井から琵琶湖畔の漁師町今浜(長浜)の波打ち際に立つと、女神のおわす竹生島が見える。浜で和気王が村長に掛け合ったが、漁師どもはすでに漁に出かけた後で船もこぎ手も間に合わぬことから、大浦へ参って舟を調達し保良宮に向かうことになる。
湖畔に群生する葦の脇をぬけてさらに進むと、悠久の上代から鎮座していたという乎彌(おみ)神社という天之児屋根命を祀った神社があった。大師藤原氏の氏神で田村第からの縁で参拝する。先に進むと小さな湖があり、すすきが風にゆれる十月にしては暑く汗ばみ、襟首と顔を洗いたいと大炊王が馬を降ると、警護のため犬麻呂が追う。
なにか木陰から若い女の弾む声が聴こえ、いかにも楽しそうな声につい覗いてみると、水辺に撒き散らかされた水滴が日の光に輝き、水の宝石を浴びた白い裸体がはしゃいでいた。鈴をころがすような嬌声に酔っていると、天界の出来事のようで心がはずむ。ふと湖畔の柳に白い小袖が幾枚かかけられているのを見つけた。
―着物を失った乙女がいかにうろたえるであろうかー
いたずら心がおき犬麻呂に小声で、
「一枚盗ってまいれ」
やがて犬麻呂が手にした一枚を大炊王に捧げる。余多の中で一枚に選ばれたのが先ほど祈った神の思し召しなのか、ちょうど藤野の太い声がひびく。
「大炊王様、日が暮れるまで大浦に参らねば、急がれよ」
 男の声に、水辺で遊んでいた乙女が悲鳴をあげて、柳にかけより小袖をめいめいで掴んで身に着け始めたが、もとより一枚たらず一人の乙女が立ちすくむ。裸形のままでベソをかいた乙女は湖に潜った。やってきた藤野は東の山辺にちってゆく乙女たちをみて、
「おや、あの乙女たちは水浴びでもしていたのかな」
「藤野の声で驚いてにげだした」
「それはすまぬことをいたした。そろそろ出立いたしましょう」
「すまんが、頭が痛いいま少し一人にして欲しい」
「わかり申した、収まればお声をおかけください」
 藤野が去ってから、大炊王は乙女の小袖を抱えて、湖畔のそばにより水泡があがっているところに向かい声をかけた。
「朕は怪しいものではない、危害は加えぬ出てまいれ」
 やがて口に葦の茎を咥えた長い黒髪の乙女が顔を出し、つぶらな瞳で大炊王をみつめた。顔立ちが誰かに似て親しみがわく、やがて母の面影だと気づいた。
「人の衣服をかすめてよくもうされますな」
「すまぬ。いたずらが過ぎた」
「しかし立派な身なりで、郡のお役人様でしょうか」
「大炊王である。お主の名は?」
「王とは御恐れおおい。名を問われるは、求婚でしょうか」
「一目で気に入った。名を教えてくれ」
「奈是理(なせり)と申し。大浦の志留(しる)の娘でござる。庭に三本杉があり遠目からでもわかるゆえ。あとは父と話してくだされ」
「わかった。これから芦浦にまいる。近い内に父上にお主をもらい受けにまいろう。衣類はここに置いておく。ときに大浦からなぜ水浴びに来たのだ?」
「この村に嫁いだ姉が臨月で、稲刈りを手伝いにきて従妹たちと汗を流しておりました。明日には大浦に戻ろうかと」
「では、明日以降に迎えにまいる」
「うれしい。いつか京の貴人に見染められるのを夢見ており申した」
 必ず迎えると約束をして大炊王が戻ると、馬は路傍の草を食んでいていた。鐙に足をかけると、藤野から容態を聞いた和気王が病の様子を伺いにきたので「良い」と応えた。
峠を越えて大浦に行くと船着場の近くに三本杉の家が一軒あり、あれが奈是理の家だと目星をつける。明日にでも早速と考えている間に、船は葦の続く岸をはなれた。

 芦浦に保良宮に一年振りに足を踏み入れると、杮葺きの館がそのままの姿でひな壇のごとく並んでいた。五年前に大師藤原仲麻呂と湖西の三尾埼から船で菅浦の浜についた時は、多くの大工が大木を手斧で削っていた。その晩は村長の屋敷に泊まり、合い間に竹生島など物見もできたが、このたびは幽閉であり大浦へ行くのも難しい。
 和気王が高台の行在所まで大炊王と犬麻呂を警護がてら案内してくれた、裏の山はまずは登れぬし、一刻おきに警護の衛士を石段の周りを見回って集落にもゆけぬ。
「こちらに半年ばかりおられて春になれば、母君のおられる淡路にお移り願いますが、それまで、この保良宮から外に出ようとか思われませんように」
「出たらどうなる」
「お上といえども、お命が永らえる術はございません」
「まさか」
「謀叛人の逃亡は死罪でござる。太上天皇の恩赦をおとなしくお待ちください。警護の伊香多治比にはその旨は伝えてござる。われは明日には京に戻ります」
 縁に控えていた武具に身をかためた伊香多治比が、髭を震わせて控えていた。

保良宮は昼夜をたがわず衛士が見張っており、沖には舟を並べ、使わぬ船は小屋前に陸揚げされていて大人が数人がかりでないと沖に出る事はかなわないが、
「朕は、大浦の奈是理の許に行かねばならぬ」
 犬麻呂が芦浦および周辺の絵図を描きながら、
「四足門を抜けても海岸線は絶壁で歩いて大浦までゆけません」
「守るには良き宮であり、抜け出すもかなわぬ牢獄か、だが、山手に衛士はおらぬようだ」
「山は急峻で、お上には登れますまい」
「いや、恋の成就のために大浦まで尾根を歩いてみよう」
逃げて追手がかからぬように、大炊王は犬麻呂を御簾のなかに座らせ替え玉としておいた。山越えにもちろん道はない。まず手直の松の枝を掴むが、体の重みに耐えかねて、枝とともにころげ落ちた。これではいかぬと、さらに太い枝を掴み、次の樅の木の根にすがり、さらの松をつかむ。
手は草の汁と泥で青黒い、やがて岩が連なり転げて膝小僧などが痛く、何度法面を滑り落ちたかわからない。上衣も裳もいたるところにほころびが、季節外れのやぶ蚊と首に違和感を感じ掴むと赤い血がつたわりヒルにも悩まされた。
 思うことは一つだけ奈是理との約定をまもることだけ、しばらくして振り返ると行宮所が眼下に見える。腰に付けた竹筒から水を飲み一息ついて、いま一歩、いま一歩と前にすすむと、やがて下り坂になって安堵する。
 蔦を掴んで大浦を覗くと三本杉と民家が見え、麓までおりると小川のせせらぎがあり、少しでも良く見せたいと顔を洗って髪を整える。三本杉に近づくと竹枝の柵の向こうに土をうつ音が聞こえ、凝視すると小袖の端をからげた女の姿に見覚えがあった。
「奈是理、奈是理」
 鍬が天中に止まり声の主を探す。叫ぶ男と探す女の目があった。たまらず大炊王は柵を乗り越えて畑に転がった。顔から転がったため泥だらけになった大炊王を奈是理がクスリと笑うが、すぐ真顔に戻り、
「痛くはありませんか、こんなに顔を打って」
 顔の泥を小袖の袖でぬぐい、衣服の泥も手ではらい落としてくれた。
「本当にお見えになったんですね。父に話すと『保良宮から海と湖畔は警護が厳しくお出ましにはなれないだろう』と申しておりました。どちらから来られたのですか」
「山を越えてきた」
「道理で傷だらけ、大変だったでしょう。むさ苦しゅうございますが、家の中へどうぞお入りください」
 奈是理と土間に入ると、濯ぎをもってきた。
「お主の父大浦の志留と話してお主を妃として貰い受けたい」
 洗った足を奈是理がぬぐい。囲炉裏端に上がるように勧め、
「実は父はいま出かけており、いま少しお待ちください」
 奈是理が語るには父と兄は船を巧みに扱う。漁を生業にしているが、時折お役所からの指示で荷の運搬もしていて、先ほど出かけたとのこと、あと母と己が畑を耕しているが、あいにく母も余呉湖の農家に嫁いだ姉のお産の手伝いに出かけているそうだ。
 家の外でなにやら駆け寄る音が聞こえ、奈是理が外を見ると、
「あれ、父と兄が戻ってきた。こんなに早くどうしたのだろう」
 荒い息をした小袖と袴履きの二人の男が、土間に入り囲炉裏端の大炊王を認め、
「奈是理、もしやこの貴人は、話のあった帝か」
「左様でござります」
 ぎょろりと大炊王を見て、どう切り出すか悩んでも見えたが、
「伊香多治比殿のお呼びがあり、いま保良宮にまいっていた。幽閉中の帝が逃げ。みつければ稲五百束を与えるが、匿えば一族はみな磔にするとの下知があった」
「父様」
 二人に目を背けて、
「余呉湖での求愛は娘から聞いた。本当に迎えが来て王の血を引く孫を見たいが、幽閉先を抜け出した王のために、一族のみなを磔の目には遭わせられぬ」
「さもあらん」
「お上、保良宮にお戻りください。いまなら伊香多治比殿はなかったことにされましょう」
「ならば申すが、大浦の志留よ。このたび抜け出たのは。志留の娘奈是理をわが妃の申し受けたいからである、許しを得れば、大人しく戻ろう」
「大炊王からもったいないお言葉で、やがて幽閉も解かれましたらさしあげましょう」
「あい、わかった。孝謙太上天皇とは血のつながりもある。やがて赦されるであろう。では保良宮に連れてゆけ、奈是理、父の許しを得たからにはお主はもう朕の妃である。赦免となれば迎えをやろう」
 大炊王が奈是理の手を強くにぎると、
「お待ち申し上げており申す」
大浦の志留が息子に目配せすると、大きく縄を拡げて素早く腰に廻した。
「御免」
 大炊王は義父と義兄に腰縄をつけられて船までの道をいくども奈是里を振り返り、奈是里も船が山蔭で見えぬようになるまで見送った。

 保良宮の波打ち際に近づくと浜辺に多くの兵に囲まれた処に、杭が立てられ誰かがくくり付けられている。浜に上がると、
「犬麻呂ではないか、どうした」
 顔に幾筋もの腫れあがった傷があり、衣も敗れ腕や足から血がにじみ。横に伊香多治比が血の滴りおちる鞭をもって立って、
「お上の行方を知らぬといいはり、賊に拉致されてお身に危害が加わっているやもしれず、折檻をしておりました」
「朕は大事ない。これは惨い、傷の手当てをしてやれ」
「まずは大炊王殿が無事でなによりでござった。おい、ほどいてやれ」
 衛士が数名かけより、縄目をほどくが己では立てない。伊香多治比が連れて行けと鞭を小屋の方を指し示したのに反して、大浦の志留には笑顔で声をかけた。
「志留ようやった。よう大人しゅう連れ戻ったな。約束の稲束である持ち帰れ、これで拙者も首がつながった」
「日頃よりおせわになっている伊香多治比殿のお役に立ててなによりでござる。これまで以上、朝夕の膳の魚などは志留にお任せください」
「分っておる」
 あっけにとられている大炊王に、
「では行在所にお連れ申す。くれぐれも多治比を心配させぬよう願います」
「さきほどの志留との話は?」
「お上が雲隠れされ、近在の漁師を集めたところ、志留が帝を連れて参った折の褒美を聞いてきた。娘が見染められ家にお越しになるかもしれぬという。だが兵の姿をみれば暴れるやもしれず。大人しくつれ戻す策があると申した」
「あの言葉は策か、謀れたか」
「まあ、ともかくご無事でなりよりでござった」
「無念なり、それはともかく、犬麻呂の手当てを頼む」
 行在所に戻され御座所に座り込んだ大炊王は、大浦の志留の笑顔に騙されたことはわかったが、奈是理の心はいかがだろうか、父の応諾がたわむれとしても妃となることに喜んでいたように思えた。父と娘でたぶらかしたとは思えぬ。
 翌日から山際で斧と丸太が打ち込まれる音がする。伊香多治比に聞くと猪除けの柵とのことであったが、どう見ても新たに逃げ出させぬ為の柵であることはまちがいない。
 
 数日して、夜も更けてフクロウが鳴いて騒がしい。まだ見回りの刻限でないのに連子窓を叩くものがいる。いつぞの猿が遊びに来たかと耳を澄ますと、
「大飯王様、奈是理でございます」
 声は確かにと、唐戸をあけると、娘が飛び込んできた。
「父が申し訳ございません」
 泣きながら語るのは、あの日父が船いっぱいの稲を積んで帰って、しばらく暮らしが豊かになったと、貴人は騙すのはたやすい。これで年が越せると高笑いをしたという。妃にやるという話を問いただすと、元の帝が返り咲くことはまずない。良き嫁ぎ先は父が見つけると申したという。重ねて口惜しい。
 ただ父は父で、奈是理は大炊王様が訪ねて見えた日から、すでに妃のつもりでおり、母と兄を説得して参ったという。けな気な言葉に大炊王は心の中が喜びと涙であふれた。
「いたしかたなかろう。一族の磔刑は朕も望まぬ。奈是理が死ぬことになれば、朕も生きておる意味が失せる」
「もったいないお言葉でござります」
「ときにいかにして、ここまでこれたのだ」
「朝方、兄の供をして魚を降ろしに来たとき納戸にかくれて、夜になり衛士も寝るころになったと忍んでまいりました」
「父が心配しておろう」
「母は好きな人と一緒になるのがよいと、父には余呉湖の姉宅にいることにしておくと言ってくれ、兄とは年が離れていて幼いころからなんでも好きにさせてくれます」
「父を捨てて朕の許にまいったか、ありがたい」
 大炊王は奈是理の体を抱きしめていると情がつのり、互いに口を吸い合い床に静かにころがった。小袖の帯を解いて肌を合わせたが、これまで褥を供にした幾多の女官とは比べ物にならぬ。はじめて愛らしさといとしさがわかる。
「奈是理、お主を死ぬまではなさぬ」
「わらわも左様に、これで王の妃になれ申した」
 物語をすると朝になれば兄が魚を卸ろしに来て、納戸にいなければ、夜中に尾崎の向うの岩場に船をつけにまいる。東の寺の境内を抜け峠さえこえれば行けるという。
 また、どこぞの鶏が朝を告げ、衛士が朝餉の膳を置いていく、食卓の魚を奈是理は
「魚の生きがいいのでおそらく兄が朝、持ってきたと思われます」
「骨はよう取らぬ」
「大炊王様、これモロコと申し骨ごと食します」
と笑い、一尾食べて見せた。膳をかたづけてから、この行在所を抜け出ると残された犬麻呂が気になる。衛士に見舞いを申し出ると伊香多治比殿に問うてくると出ていった。
 やがて数人の足音がしたことで奈是理は物陰に隠れた。そこに衛士の肩を借りて、犬麻呂が足を引きずりながらやってきて、大炊王をみるなりひざまずいた。
「お上、あさましい姿をお見せし申し訳ござりません」
「犬麻呂、朕のため不自由な身にさせたな。すまぬ」
「もったいないお言葉」
 犬麻呂が語るには過日、御座所の御簾に身代わりに座していたが、やがて犬麻呂がおらぬと衛士がさわぎたて、御簾をのぞき込まれたという。浜辺の柱に縛り付けられてお上の行方を尋ねられが、知らぬと白をきっていたらやがて伊香多治比殿に鞭で打たれたという。
やがて浜辺は猟師が集められ、罪を犯した貴人が逃げた。行方を知らせてくれれば褒美をやるが、匿いなどしたら一族郎党を処罰すると申すと、一人の出入りの漁師らしきが、心当たりがあると申し出て、なにか小声で話してどこぞに船を漕ぎ出した。一刻も経たぬうちにお上を連れて戻ってこられ、まずご無事な姿を見て気を失ったという。
「傷はまだ痛むか」
「血止めの薬草を塗られてだいぶ良うなりました。いつまでも寝ておれません。お上が見舞いは御恐れおおいことで、伊香多治比殿に申しあげて御座所の近くにいて良いという赦しをえました」
 大炊王は犬麻呂の手を取り、
「犬麻呂、朕は今宵、奈是理と行在所を抜け出す所存である」
「奈是理とは、余呉で見染められた乙女、ここにいるとでも」
 御簾が静かに開いて乙女が姿をあらわした。
「よしなに、お頼み申す」
「こちらこそお願い申す。しかし、ようここに」
 ここまでの経緯を犬麻呂におしえると、
「大浦の志留へ逃れれば、また捕まりましょう」
「いや大浦には参らぬ、保良宮まで送ってくれた和気王にすがる。臣下の姉が和気広虫で中宮院にて太上孝謙天皇に仕えていると申した、伝手で恩赦を願うつもりだ」
「拙者も是非お連れ下さい、和気王の下女に知ったものがおり繋ぎましょう」
「おや、隅に置けんな」
「従妹でござる」
「なるほど、それよりも、犬麻呂、歩けるか」
「蹴鞠のお相手こそできませぬが、歩くだけなれば足手まといにはなりませぬ」
「蹴鞠はよいが、無理はするな。では夜半にまいるぞ」
 犬麻呂と奈是理がうなずくのを見て。大炊王は警護の隙をさぐりに行在所の周りを探ろうと音のせぬよう沓を脱ぎ石段を降りていくと、傍らに榧の切れ端が二つ転がっていた。
「犬麻呂、こんなものが落ちておった」
「柵の端材でしょうか」
 犬麻呂は手に取って眺めていると、大炊王が、
「子供のころ、母から阿弥陀如来など仏像を彫る手ほどきをうけた」
「左様なこともございましたな」
「これで朕と奈是理の像を彫って、身代わりにいたそう」
「それはよろしゅうござる」
 大炊王が木切れの角を落とし整えているのを、奈是理が一心にみている。頭と体が形になり、やがて鼻や耳がはっきりしてきて、目と口の斬り込みを入れると、
「お上、よう出来てござる」
「お上とわらわでございますか、よう似ており申す」
「この二体の肖像はこの御座所に置いて参る。どこで壽を終えるも、神霊は必ずこの肖像に留め置く」
 肖像を眺めていると、犬麻呂が削られた木くずを掃き集めだす、山に夕日が沈み水面は黄金を敷き詰めたようにまぶしく輝いていた。
夕餉も済み暗くなった石段の下では、衛士がかがり火をたいている。三人は杣道を木陰から木陰へと身を移しながら長福寺まで忍んでゆく。庫裏には灯の明かりがもれている中、そおっと歩いていた犬麻呂が杖を地に落とした。物音に三人の心臓が止まったが、中からなんら反応もない。聴こえなかったか、気づかれなくてよかった。塀を超えて山道をひたすら上り峠を越えさえすればあとは下りで、岩場に奈是理の兄が船で待っている。
 犬麻呂は杖を懸命についているが、どうしても二人に遅れがちになり、荒い息をしている。吐息に振り向いた大炊王が、行在所の周りが明るいのに気づく。
「松明が集まっている。気づかれたかもしれぬ。いそごう」
 松明が浜に下り右と左に分かれている。おそらく四足門をぬけて海岸線を探すだろう。沖にも灯りが燈った。これならしばらく追われぬと思っていたが、長福寺あたりに向かう一群がいてやはり杖音は聞かれたか、やがて松明が登り始めた。足を引きずる犬麻呂が、
「お上、拙者はもう登れません。お二人で先に逃げてください」
「そうはいかぬ、死なばもろともである。肩に掴まれ」
「もったいない」
 大炊王と奈是理が肩をかし一町ほど登ったところで、犬麻呂が松の根に足をとられて三人ともども仰向けに倒れ、後ろの松明が大きく迫り恐怖がつのる。
「待て、逃げれば射る」
 弓をたがえて衛士が叫ぶ。犬麻呂が立ち上がり、
「ここまで、お上はお逃げください」
「犬麻呂をおいては」
「拙者はこれまで、ごめん」
杖を振り上げ追手に向かって、ワーと吠え駆けおりた。「射ろ」の掛け声とともに矢が弦を放れ、悲鳴とともに犬麻呂の姿が草に隠れた。
 すまないと奈是理の手をとり走った。後ろから「止まれ」と威嚇の矢が射られたが、峠を越えなければならぬと、走って、走って追手を振り切ることしかない。ふと前をみると遮るものがもうない。遠くに月を映した琵琶湖が見え、あとは下り坂で海岸の岩場にゆけば船が待ち助かる。
「奈是理、あと少しだ」
ピシッ。
「あ!」
「どうした奈是理」
 引いていた奈是理が崩れていく。
「どうした。足をくじいたか」
「いえ、もうだめ」
 地に伏した奈是理を抱きおこすと、手がぬるむ。濡れた手を見ると赤い。背をさわるとなにかが突き刺さっている。
「あ、背中に矢が、手当をせねば」
 矢を抜くと、奈是理がピクリと振るえてさらに吹き矢を葺いたような音とともに血が吹き出たようで、奈是理の衣服に紅いしみが広がりつたう。
「死ぬな。死なないでくれ」
「お上とは、短かい間でしたが幸せでした」
「まだ、死んではならぬ」
「大炊王様、湖はどこに」
「こちらだ、みえるか奈是理」
 力のないまだ暖かい体をしっかり抱きしめ大炊王は、あらためて奈是理の顔から血の気が失せていくのを見て涙があふれてきた。生きてくれとさらに強く抱いて、
―死ぬな。これからではないか。朕を独りにしないでくれー
 いつしか周りが明るくなっている。振り向くと松明を掲げた衛士に囲まれている。伊香多治比が進み出て、
「大炊王様、行在所へもどりましょう。尾崎の岩陰に居た漁師は刃向かったので切り捨てました。菅浦は陸の孤島まず逃げられませぬ」
 伊香多治比の合図で縄を手にした衛士が大炊王に近づく、
―奈是理といつかどこかに生まれ変わろう。虫だろうが、犬だろうが、なんでもよい同じ生類に生まれ変わり、こんどこそ老いるまでともに暮したいー
 大炊王が両手で矢じりをつかみ大きくふりあげた。横目に伊香多治比の慌てふためいた顔は滑稽であった。
「大炊王様、おやめください」
 大炊王は手にしていた矢に力を込めて喉を突き刺さし、最期の力で愛しい人を強く抱きしめ名を口にした。

「ナセリ!」
 名がこだまする。あたりの白い霧がだんだん薄くなっていつしか消えてなくなった。呼ばれて驚いたナセリが、
「淳仁さん、どうしたの急に私の名を呼んで」
 ナセリが不思議そうに見つめている。
 あれ、いまのは何だ。なにか夢をみていたのか、さっき通したリボンが揺れていて金網に通して一秒もたっていない。これは邯鄲(かんたん)の夢なのか考えていて、
―わかった。この人と会うために産まれてきたんだー
大井はリボンの片方をもったままのナセリに、
「ぼ、ぼ、僕と結婚してください」
「え、なに」
「ビックリさせた。でも何度でも言うよ。僕にはナセリが必要だ。君がいない世界は意味がない。ナセリ、大好きだ。僕と結婚してくれ」
 ナセリの顔がほんのり赤くなって、
「はい、よろこんで」
 ふたりの幸せを奥琵琶湖の波が、やさしく浜にうちよせ祝福した。

 名所旧跡を見てから木ノ本の弓削の家につくと、座敷では大皿に姿作りで盛り付けられたニジマスが二人を迎えてくれた。奥さんがナセリからプロポーズの報告を聞くと、
「よかった恋人の聖地には、恋人を結びつける磁力があるのよ」
 弓削夫妻の恋愛秘話をナセリがせかすと、奥さんが話し始めた。女子大生時代に木ノ本から海水浴にきたら、自転車で琵琶湖を一周していた二枚目の男の子が泳いでいた。菅浦の波打ち際でわざとバスタオル一枚で身を隠して水着に着替えたそうで、度肝を抜かれた弓削が一目ぼれして話しかけたそうだ。
「バスタオル一枚でよく隠せましたね」
「少し見せたの、目を引き付けさせたかった」
「トラップですか?」
「だけど年月ね。かっこよかったんだけど、髪に根性がなくって」
「こいつ」
 弓削が奥さんの膝をつねると、首をすくめている。

大井淳仁は、大阪に戻ってからも湖北の長浜に天皇陵があるのは不思議で、弓削の話しの信憑性を調べると淳仁天皇の陵墓は、宮内庁が明治三年に淡路陵を治定していた。
治定にいたったのは、淳保十五年、仲野安雄による『淡路常盤草』や藤井容信『淡路草』によって、周囲八百八十メートルで高さ十メートルの丘を円墳として決定したとある。
ただ諸説があって元禄九年、松下見林の『前王朝陵記』には一宮町多賀の伊弉諾神社をあてているし、文化五年、蒲生君平『山稜志』では三原町の野辺の宮をあげていた。
 大井淳仁は白昼夢に出てきた王族風の男が淳仁天皇(大炊王)であり、地元の伝承どおりに菅浦の須賀神社にねむっていて、保良宮と陵墓の伝承が本当の歴史だとナセリに話すと、少し膨らんできたお腹をさすりながら、
「ありがとう。生まれ変わっても、私を探してくれたのね」
と呟いた。










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