プロローグ End

 ようやく解放された身体は酷く重たいものに感じられた。
 手錠で擦れた手首はぴりぴりとした痛みを発し、身体は見ることを躊躇いたくなるほどだ。
 でも、生きている。
 それだけが、腹の底へ鉛を押し込めるような気分を伴う。
「これをどうぞ」
 手渡されたマントを受け取り、羽織る。
 これで見た目をいくらかは誤魔化せるとはいえ、酷い格好だ。
 立ち上がろうとして、膝が酷く笑っていることに気づく。
 座ったままであったはずなのに、腰を抜かしていた。
 男は何も言わず、私を見つめる。
 無様な姿を見せまいと何度も挑戦するのに、身体はいうことを聞かない。
 いくら焦っても、いくら力 を込めても、立つことがままならない。
 結局、男の手を借りなければ満足に立ち上がることすらできなかった。
「言うこともないことでしょうが、貴女は災厄の魔女として世間に忌避され、異端視されます。その覚悟はありますか?」
 そんなことは言われるでもないことだ。
 もう既に、選択という火蓋は切って落とされている。
 けれど、もう一度だけ同じように頷いてしまえば、大切な何かを失う気もしてしまう。
 だが。
 この男には、もう見せる部分がないというほどに情けない自分を曝け出してしまっている。
 噛みしめるように頷いてみれば、自分でも意外なほどに心が軽くなった。
「……あの」
 驚くほど自然に声 が出た。
 そんなこちらの心理を知っているのかいないのか、男の調子は変わらない。
 こうして自分の足で立ち上がって、世界をもう一度見つめなおしてみると、何もかもが違って見えた。
 直に踏みしめる石材の感覚。身体を突き抜ける冷気に、自分の体調が崩れていないことにも気づく。
「それで、問題はないですね?」
「ええ……気分は最悪だけれど」
 ではこちらを。と手渡されたのは、小振りであるが武骨なナイフだ。
 柄の大きさが私の手に合うように調整されているのか、酷く握りやすい。
 どうしてそんなことまで、という疑念は不要なものとして切り捨てる。
「では、生きるとしましょう」
 そう言って、男は事 もなげに鉄格子を切り裂く。
 どんな武器を使ったのか、その挙手が全く見えなかった。
 こちらを気にかけるような素振りもなく、振り返ろうともしない男に、私は必死でついていく。
 幸いだったのは、道がそれなりには舗装されていた、ということくらいだ。
「それで」
 と、男は振り返ることもせずに言葉をかけてくる。
「貴女は何をしますか」
「えっと……生きると言うのは、目的ではないの?」
「それは言わずもがなそうでしょう。しかし、目標がなければ、今の貴女はすぐに壊れます」
 すっ、と。振り返ることなく、後ろ手に刺された指が心臓のあたりへ向けられる。
「人が持つものの中で、心は最も脆い。その弱さ を少しでも和らげたいなら、今の貴女には目標が必要なのです」
 淡々とした声に、なんとなく自分の状況を振り返る。
 こうして立っていられるのは、ただ一時的に吹っ切れたせいでしかない。
 それは、今の自分を冷静になって見つめていれば分かる。
 立ち止まってしまえば、もう二度と立ち上がることが出来ない気さえした。
「さて、ここから下水道を通って脱出できます。そこから先は、どうぞご自由に」
 用は済んだ。
 そう言わんばかりに、男は踵を返して先程の場所へと引き返そうとしていく。
「待って!」
 自分でも驚いてしまうほど、その声は大きいものだった。
 どうして引き留めたのか。
 その理由を 探すような余裕はなく、捲し立てるように言葉を吐き出していく。
「目的は、まだ決まらないけれど、貴方は、まだ――」
 まだ、なんだと言うのか。
 続く言葉が見つかることはなくて、思わず黙りこくる。
「一応のところ申しておきますが、私が貴女を助けたことは単なる気まぐれに過ぎません。それが貴女にとってどんな意味をもたらしたとしても、私には関係のないことです」
「仮にも一つの生命を助けたのなら、その責任は取るものではなくて?」
「責任のあるなしに関わらず、私はただの亡霊。貴女は、死者に死の責任を押し付けるのですか」
 淡々と、やはり変わることのない口調が響く。
 その返答は考えるまでもなくわかっていたはずだ。
 だというのに、どうしてか落胆を覚えてしまっている自分に気づく。
 重たい沈黙が流れて、視線が行き場を失う。
 地下牢に流れる冷たい空気が、一層自分の身体を苛むような感覚さえある。
「困った姫様ですね」
 だが、観念したのは意外にも男のほうだった。
「確認ですが、姫様には交際の経験がおありですか」
「えっ」
 まさか聞かれるとは思っていなかったせいか、素っ頓狂な声が漏れる。
 こちらの動揺を知ってか知らずか、男は追撃の手を緩めない。
「純粋な異性交遊ですよ。王侯貴族というのは、身なりに相応しい結婚相手というものが決まっているはずですが」
 事実を羅列するような淡々とした物言いに、逆にこちらが恥ずかしくなる。
 ようやく、胸の中に痞えていた思いが確信に変わる。
 この男には、デリカシーというものが決定的に欠けているらしい。
 どこも刃を通す隙のない完璧主義のようで、男はあまりにも遠慮を知らなかった。
「私に、婚約相手などいませんっ!」
「……はぁ、わかりました」
 呆れたというか、面食らったというような言葉に、初めて男の感情が見えた気がする。
 ただ、その分だけ犠牲にしたものが、普通という際限からは逸脱しているだろうが。
「軽口はここまでとして、急ぎましょう。仮にも災厄の魔女たる貴女が脱走したとなれば、追手は必ずやってきます」
「ええ」
 この男は、誰かを思いやることなどとうに忘れているのかも知れない。
 でも。今だけはそれがどうしようもなく心地良い。
 気休めの同情はされない。理由のない憐憫をされることがない。
 たったそれだけで、少しだけ救われた気分になってしまう。
「その前に、服くらいはどうにかしたいものですが」
 と。
 今更、自分が裸も同然であることに気付く。
 仮にもマントを被ってはいるが、この格好は破廉恥極まりない。
「……思い出さないようにしていたのに」
「とはいえ、これからそれなりの距離を歩きます。単なる気休めではありますが、少しそこに座ってください」
 特に断る理由もなく、ゆるりと座る。
 すると、いきなり足を取られた。
「えっ、ちょ!?」
「蹴ろうとしないでください……そう暴れられると、上手くできる保証はないですよ」
 いきなり足を掴まれたら、そりゃ誰だって驚くだろう。
 危うくマントの方まで脱げそうになって、抗議の声をあげたくなったが。
「出来ましたよ」
 と、やはり変わらぬ調子で言って、男はようやく手を放した。
 おずおずと足を見ると、簡素ながら布が巻いてある。
 このように身につけたことがないせいか、慣れるまでに少しはかかりそうだけど。
 なんの生地かは分からないが、立ってみて感触を確かめてみると悪くはない。
「いつも絹を身に着けているでしょうから、少しばかり不慣れだとは思いますが、感触は」
「悪くはないけれど、何という生地なの?」
「木綿と言います。取り回しがよく、丈夫なことから商人や冒険者などの旅装に使われます」
「ふぅん?」
 いつも着ていた服は、汚さないようにと気を付けなければいけなかったけど。
 そうして考えてみると、自分がどれだけ恵まれた立場にいたのかを思い知らされる。
「それでは急ぎましょう。来るときに多少の魔獣は片づけましたが、まだ残党がいないとも限りません……失礼ですが、魔獣についての知識は」
「一通りはあるわ。いつか領民が脅かされないためにもと読んでおいたけれど、今は自分が助けられることになるなんてね」
 なんて、そんな愚痴をこぼしていられる時間はもうほとんどない。
 ナイフを握りしめ、生まれ育った場所に、もう一度だけ振り返る。
 鬱蒼とした地下牢。
 ところどころから草木が生え、あるいは苔や……罪人の死体さえあるのだろうけれど。
 私は、この上に住んでいた。
 人の上に。人が人として生きるために、お父様やお母さまがいた。
 そして、私もまた当然のように国を治めていったのかも知れない。
「でも、姫であったセシルは、もういない」
 この城に残されたのは、もはや癒すことのできない憎悪と、災厄の魔女が刻んだ烙印だ。
 もう、ここに私の居場所はない。
 それだけで、今にも崩れ落ちて、泣き出してしまいそうになる。
 けれど。
 無様であろうと、卑怯であろうと。
 数多の人々が私の存在を否定しようと、私は生きるということを決めたのだ。
「さようなら」
 踵を返せば、そこには氷よりも冷たい男がいる。
 その男は亡霊と名乗り、非常識なまでに私のことごとくを奪い去っていった。
 情けない姿も。弱い自分も。決意と戦おうとする意志も。
 だが、亡霊は笑いもしなければ褒めることもない。
 これから行く先に、この男以上に私を理解する者など、どこにもいないだろう。

「私は、災厄の魔女よ」

夜行性の人
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