僕のおいしくない話

 横山家での僕の部屋は、死んだ恋人――この家の長男が使っていた部屋だ。上京するときに出て行ったままの状態で、本棚には参考書が並んでいる。
 見た目からはまったく想像できないがかわいいものが好きだった彼のベッドは、現在、夢の国の住人たちが占拠している。元の持ち主とここに来ることはなかったから、リーダーに「おじゃまします」とあいさつするのがこの部屋を使うお約束である。
 好きに片付けてくれといわれているけども、どう片付けて良いものか判断に困って、毎回そのままになってしまっていて、今回も片付けはできないだろう。
 僕が部屋の片付けができないわけではないのだ、断じて。

 ベッドに寝転がっているうちに睡魔に襲われる。

 僕が初めて祥子さんと出会ったのは、彼女の弟である慎太郎の通夜だった。
 思えば初めから強引な人ではあった。



 電車で近年ファミリー向けのベッドタウンとして開発が進んでいる地方都市へと向かう。都内では地下鉄だった電車はいつの間にか地上に出て、窓の外には冬の夜空と住宅街が広がっている。
 窓に映る自分が疲れた顔をしていて、ため息が出る。
 突然のご連絡ですみませんと、会社に電話がかかってきたのは一昨日のことだった。その人物は横山慎太郎の姉を名乗って、そして告げられたのが彼の死だった。
 自分でも驚くほどまぬけな声が出て、その後のことはよく覚えてない。翌日もちゃんと会社に行って、今日も定時で上がって喪服を着てちゃんと斎場へ向かう電車に乗っているのだから、自分は随分と社会人能力が高いもんだなと感心するばかりだ。
 これから彼の家族に会うのだからもう少しまともな顔をしておかなければと、暗闇に浮かぶ自分を律する。
 今はもう、僕は彼のただの友人なのだから。
 
 
 赤く目を腫らした奥さんとつまらなそうにゲームをやっている五才になる奥さんの連れ子を横目に僕は手を合わせた。
 交通事故だったという。
 営業先に向かうところで、信号無視の車に轢かれたのだそうだ。
 立派な祭壇に飾られた彼の遺影は、僕と同じ時を過ごしたころのままの笑顔をたたえている。
 案外、簡単に人は死ぬものだ。
 顔をあげると奧さんと目があって、彼女は少し驚いて静かに頭を下げる。
 決して会いたい人ではなかったが、こちらもあいさつをせねばならないだろう、社会人だから。
 僕の連絡先をお姉さんに伝えたのはおそらく彼女であろうからその点は感謝しなくてはならないし、彼が多くの人に見送ってもらえるのも、彼女が喪主として采配したからだ。
 彼は明るくて、人懐っこくて、人に好かれる人柄だった。多くの人が別れを惜しみに来てくれるということは、それだけ彼に人徳があったということだ。彼はなぜ僕といるのかがわからない人だった。
 この場に僕の知り合いはいない。だから、これ以上ここにいる意味もない。
 僕はその場をそっと離れた。


「待って! キミ、川上啓吾くんでしょ?」
 斎場を出たところで後ろから声をかけられ振り返る。
 年の頃は同じぐらいの小柄な女性である。少し関西なまりがあるところから、彼の身内であろうことは察せられる。
「よかった。来てくれて。あ、私、お電話した慎太郎の姉の祥子です」
「あぁ、お知らせいただきありがとうございました」
「もう帰られる?」
「えぇ。僕はあまり好かれてないですから」
 ご存じかもしれませんけど、と付け加える。
 そうねぇ、と祥子さんは斎場の中をうかがうように見た。
 つられてそちらを見ると、彼の同僚たちと奥さんが話をしている姿が見える。
「うんうん、大丈夫そうだね。ちょっとお話いいかしら?」
 いうが早いか、祥子さんは僕の腕を取るとぐいぐいと引っ張り、親族控え室と書かれた部屋に僕を押し込んだ。
「お父さん、来てくれたよ、川上くん」
 そこには気落ちしたようにぼんやりと年輩の男性が座っていた。
 男性――横山父は、どことなく慎太郎に似たやんわりとした雰囲気の人で、僕を一べつするなり驚いたように目を丸くする。
「はい、座る!」
「えっ、あ、川上啓吾です。初めまして」
 僕は何やらわからず促されるままに横山父の向かいに座らされてしまった。
「あの…」
「お父さん、この人が慎太郎のホントのお嫁さん」
「はっ!?」
「え、違うの? お婿さんなの?」
 僕は驚きのあまりに言葉が出ず、無様にも口をパクパクさせる。その言葉が的確なのか、的確でないのか、反論する言葉が見つからなかった。
「とにかく、この人が件の人だから」 
 件の人とはなんぞや。
 戸惑う僕を見かねたように、横山父は、
「祥子、お茶、入れたりや」
 という。
 気まずい空気が残された。



 本日、この場で葬儀が行われている横山慎太郎と僕。
 どのような関係なのかと聞かれれば「かつての同居人」と、それなりに人生経験を積んできて社会的立場を考慮した取り繕った答えは持っている。
 それが正しく関係を表しているかといわれれば違うのだが、僕は誰かにいうことなく墓まで持っていくつもりであった。
 慎太郎とは、大学で知り合って、七年程、一緒に住んでいた。最初のルームシェアではあったけども、それなりにいろいろあって一緒にいるのが当たり前の関係になっていた。
 彼が僕のことをどのように思っていたのか、言葉にすることはあまりなくて、かといって僕も言葉にして求めることもなくて、 毎日、彼が作ったご飯を食べて他愛のない話をして、休日が合えば映画を見に行ったり、テレビで紹介されているお店に食べにいったり。
 友人よりは深い関係ではあったけども、その関係を証明する何かがあったわけではない。
 そんな惰性のような、モラトリアムの延長線のような、あたたかくも生温い関係を終わらせたのは、冷徹なる現実であった。


 僕らが最後に会ったのはいつだったか。あの奥さんがうちに殴り込みに来たのが一年ぐらい前だったはずだ。
何がどうなったのかは知らないが、慎太郎が彼女と結婚することになって、そこから半年ぐらいした秋。

 散々な修羅場だった。
 ちょうど食事をしようと思ってたところにやってきて、ギャンギャンとわめき散らしていった。
 僕の嫌いな女という生き物そのもので、彼の女の趣味に呆れたのもあるけれど、 そのほうが幸せだろうと荷物の一切合切とともに彼を追い出した。

 随分な別れ方をしたものだ。
 もう目立たなくなったけども、左ほほには彼女に付けられた引っかき傷が残っている。
 僕はもっと奥さんを罵ってもよかったのではないだろうか。幸せにできなかったじゃないですか。
 思い出すだけでも心が死んでいく。

――一年も前のことだ。ここでいう話ではないか。


 僕が連れてこられた理由はなんだろうか。
 横山父と思い出話をしたりすればよいのだろうか。
 慎太郎の家族に会うのは今日が初めてで、僕が慎太郎の家のことで知っているのは、滋賀県で米農家をやっていて、父子家庭であること。そんな父親と不仲で、家を出るために東京の大学に進学したことぐらいだ。
 まさか遺言があって遺産相続の話だったりは……ないな。
 そもそも交通事故なわけで、僕は彼のお財布事情を一緒に住んでいたころは把握していたけども、几帳面ではあるけどもお金はどんぶりで、とても貯金があるような生活はしていなかった。
 結婚後の資産であればそれこそ僕に受け取る権利はない。

 簡易冷蔵庫の音だけが響く部屋。居心地悪く身じろぎをする。
 ここにいるのをあの奥さんが見たら、またヒステリックに糾弾を始めるのではないだろうか。
 女性が自分の正当性を声高に叫ぶ声はどうにも苦手だ。
 

 祥子さんが戻ってきたので、出来る限り機嫌を取り繕って笑顔を作る。
「はい、お茶ね。あとえび豆。それ、慎太郎の好物なの」
「ありがとうございます」
「ごめんねー、忙しいんでしょう?」
「僕は内勤なのでぼちぼちですよ」
「え、広報とかそういうお外に出る仕事なのかと思ったわ。いわれるでしょう、イケメンだって」
「そうですかね……」
 手持ち無沙汰で僕は保存容器のまま無造作に出されたえび豆をいただく。そういえば、ここ二日間、何か食べた記憶がない。僕のことだから何かしらは食べているはずだが、記憶がないから場違いなほど空腹感でいっぱいだ。
 
――これはおいしい……
 
 大豆とえびの甘い佃煮と表現すればいいだろうか。甘い味の中で小さなえびの香ばしいさがいい。味を噛み締めるように咀嚼する。
 無言で食べ進めるていると、
「……おにぎりもあるけど……?」
 と、差し出される。
「え、あ、すみません、だいじょう……」
 ぐぅ、と空気を読まない腹の虫。
 これには無言を貫いていた横山父も吹き出した。
「食べて食べて」
 大きめに握られたおにぎりが、ドンドンっと三つも目の前に置かれる。
 そんなに空腹そうに見えているのだろうか。
 とはいえ、そうされてしまっては食べないほうが失礼だろう。
「いただきます」
 ラップをめくって頂点から食べはじめる。
 冷めているが、べちょっとしたイヤなやわらかはなく、それでいて乾いているわけではない。米の弾力もあって、粘り気も十分。これはおいしい米だ。
 米を味わっているうちに一つ食べ終わってしまったのでもう一つ。
 モヤモヤと抱えていた不機嫌が引いていくのがわかる。
 こんな場所で不謹慎ではあるが、僕は久々においしい幸せに包まれた。
 そんな僕をじっと見ていた祥子さんは、
「ほんと、慎太郎のいう通りだね。食いしん坊の残念イケメン」
 という。
 唐突な言葉に、僕は口の中に詰め込んだ塊のままおにぎりを飲み込んだ。
「慎太郎が、何と……?」
「残念イケメン」
「ざん、ねん……?」
「物静かなびっくりするぐらいイケメンで、学内に追っかけもいて、勉強もできて、さくっと内定取ってきて、人生勝ち組みたいなのに、食べ物を前にすると理性が溶ける、残念」
「溶ける」
「メルトダウンっていってたわよ、うちの弟は」
「さすがにそこまではないと思いますけど」
 いただいたおにぎり二つ目を食べている時点で説得力は皆無か。おいしいのだから仕方ない。
「そんなにおいしく食べてくれるなら、握ったかいがあるわ。まだなんかおかずあったかな」
 奥で他の親族の方が食事をしているようで、祥子さんは「もらってくるね」と席を立った。
 また、横山父との気まずい空間に戻る。
 じーっという横山父の視線を感じつつ、白米おにぎりを食べ進める。
「あんた、米は好きかい」
「え、あ、はい」
「その米、おいしいか?」
「はい、とてもおいしくいただいてます」
「お世辞はいらんよ」
「いえ、ほんとにですよ。このお米は横山さんのお米ですか?」
「アイツが食べる最後の飯だから。最後ぐらい好きなものを食べたいだろう」
 ポツリと横山父はいう。
 瞬間、僕は彼の死を自覚したような気がする。
「……そうですね」
 堰を切ったように止めどなく涙があふれてきた。
 随分と前の話だけども、僕が初めて慎太郎からもらったプレゼントは彼の実家の米だった。
 なんとかわい気のないプレゼントだろう。
 「絶対にうまいから!」と自信満々に渡された一升分の米袋。まさにその言葉通りで食べ終わるのは一瞬だった。それ以来慎太郎が出て行くまで、炊飯器は買い換えたけども米を買うことはなかった。
 あぁ、そうか。アイツ、もう食べられないのか。
「久しぶりに横山さんのお米を食べました」
「うまいか」
「はい」
「まだ炊けばあるから、もう一個、食べちゃいな」
「はい、ありがとうございます」
 噛み締めるように食べる。
 食べ物の味は思い出だ。
 あれこれと、アイツと食べたものが思いだされていく。
 そうか、もう、食べられないのか。
 白米おにぎりなのになんだか塩味で、余計に悲しくなる。
「お父さん、イケメンを泣かさないでよ!」
 戻ってきた祥子さんは皿いっぱいに鶏の唐揚げを乗せていて、
「川上くん、唐揚げ好きでしょ?」
 と、ドンっと僕の前に置いた。
「なんで知ってんですか」
 彼女は少し首を傾げて、ニコッと笑う。
「お姉ちゃんは何でもお見通しなのだよ。はい、ティッシュ。それじゃイケメンが台無しだよ!」


 結局僕は、大量の唐揚げを平らげて、奥さんが戻ってくるからとなんの話だったのか聞かないまま、「私、しばらく東京にいるからまた連絡するね」と連れてこられたとき同様に、半ば強引に追い出された。
 電車に乗って一時間かけて都内に戻る。
 帰宅ラッシュとは逆方向の車内は人もまばらで、僕は誰も座っていない七人掛けの真ん中に座る。足もとのヒーターがあたたかくて、気を抜くと眠ってしまいそうだ。
 ぼんやりと対面の窓に映る自分を見る。
 随分とくたびれているものだ。
 家事の一切を慎太郎がやっていたから、掃除洗濯はおろか、自分の食事の世話も不摂生の極みで、表情を取り繕う余裕もなくて、同僚から心配されるほどくたびれ果てていた。

悲しいとか、――悔しいとか、一言では表せない痛みが押し寄せてくる。

――久々に人前で号泣してしまったな。
 
 いかにも葬式帰りという真っ黒なネクタイを緩めてゆっくりと息を吐く。

 これが湖北米との長い付き合いの始まりとはまったく思っていなかった。


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 再び僕が祥子さんと会ったのは、葬儀から一週間後のことだった。
「土曜日、原宿駅に十三時で!」
 という強引なメッセージで祥子さんに原宿駅に呼び出された。
 そしてなぜか人気店の中でも今最も行列が長い店のパンケーキを食べることになった。
「なるほど、女難の相ありありね。立ってるだけでジロジロ見られるってのは、ホントだったわけか」
「女性連れはいい弾除けになるんですね」
「何それ、私が値踏みされてんじゃん」
 祥子さんはムッとした顔で僕を見る。
「呼び出したんだから、それぐらい我慢してください」
「だって原宿来てみたかったんだもの」
口を尖らせてすっかりご機嫌ナナメである。
「はぁ、なだめればいいんですか?」
 めんどくさそうにいうと、
「キミ、結構いい性格してるんだね」
 と、そちらもイラついた様子で返ってくる。
「機嫌で周りを振り回す人が好きじゃないだけです」
「あらそ」
 ただ、お目当ての山盛りクリームが乗ったパンケーキが目の前に置かれるやいなや、祥子さんは「やだ! 超かわいいじゃん!」と喜びの声をあげた。
パンケーキにナイフを入れる。フワフワの上にクリームを乗せて一口。甘さが口いっぱいに広がって、溶けるように消えていく。ハワイアンパンケーキはこの食感が魅力だ。ベリーソースの酸味で甘さを調整しながら食べ進めていく。行列ができるだけのことはある。おいしい。
「川上くん、食べ方キレイだよね」
「……そうですか?」
 かという祥子さんは、 欲張ってクリームを乗せるから大口を開けて食べることになってるし、口の周りにクリームが付いている。おいしいーとか、ふわふわーだとか、出てくるのは語彙力が少ない感嘆詞。気ままに食べる人だ。
「クリーム、付いてますよ」
「え、わぁ、恥ずかしい」
 でもおいしいからしょうがないよねーっと、彼女はパンケーキを吸い込むように食べていく。
 先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。コロコロと変わっていく女心はさっぱりわからない。
 豪快そうに見えるが、彼女も正しく女の子なのだろう。

「好きなものは真っ先に食べる質なの。弟もそうだったでしょう? 小さいころから食べ物のケンカばっかりしてたわー。そのうち、好きなものは好きな量を自分で作るようになって、お互い不可侵になったけど」
 彼女は懐かしそうに目を細める。それから、意を決したように、言葉を選びながら僕を呼び出した理由を話し始めた。
「キミに謝らないといけないことがあるの。キミのことを聞いたのは最近のことなのよ。ちょっと前にね、弟がこっちに帰ってきて。随分真っ青な顔で取り返しのつかないことをしてしまったっていうわけ。だから人でも殺したかと思ったら、自分は手放しちゃいけないものを失ってしまったっていうのよ」
「手放しちゃいけないもの?」
「弟は物にこだわりは強いほうだけど、もしや結婚早々離婚の危機か?って話を聞いたら、違うの。まぁ、離婚の危機っていっちゃ危機なんだけど、手放しちゃったのは、奥さんでも息子ちゃんでもなくて」
 祥子さんはそこで言葉を切ってパンケーキを食べる。
「伴侶だって」
「……伴侶」
「そんときは何をいってんだと思ったよね。ただ、大の男があんまりにも泣くもんだから、これはマジだってなったわけ。それで、問い質したわけよ。ずっと付き合っている人がいて、その人とは結婚できなくてって。まさか男だとは思わなかったけど」
 プスっと苺をフォークで刺して、それをどうするということなく皿に置いた。
「アイツが結婚をしないといけなくなったのも、奥さんがあなたのところに怒鳴り込みにいったのも、元を辿れば私のせいなの。私は私の意見をいったつもりだったけど、結果的にキミを傷つけてしまった。ごめんなさい」
 祥子さんは申し訳な下げに頭を下げる。
 彼女はいう。
 一昨年のことである。横山父が倒れてもう長くないこと。父は長男である慎太郎の子どもを見ることを楽しみにしている。口には出さないけど地元に戻ってくることを待っている。
 そうして連れてきたのがあの奥さんだった。
 そんなことを聞かされてどう答えればいいのかわからない。僕は「はぁ」と気のない相槌を打つ。
「毎年、お米のお礼状とお菓子を弟に渡していたの、キミなんでしょう? 奥さんにそのことをいったのね。今年も楽しみにしてますねって。弟が血相変えて帰ってきたのはそのあとすぐだった気がするわ」
僕の脳裏に嫉妬と侮蔑の形相でうちに乗り込んできたあの日の奥さんが浮かんだ。
「弟はバカだから、女っていう生き物がどれだけ嫉妬深くて、全てを手に入れないと気がすまないのかわからないのよ。奥さんとは契約結婚のはずだった。子どもが大きくなるまでって約束。社会的体面のために結婚したんだ。それなのになんでこんなことになったのかって、当たり前だろ」
 彼女は、初めから、彼のことを手に入れるつもりで、籍さえ入れてしまえばどうにでもなると思っていたのだろう。

――彼の子どもができたの。キレイな顔をしてたって、あなたにはできないじゃない。
 
 そう彼女はいった。その言葉は一言一句思い出せる。
 執念と憎悪、情念ともいうべきか。胎を撫でながら勝ち誇ったあの女の顔を忘れることはないだろう。
 あの時の感情をうまく表現できないが、僕は悔しかった。
 たとえ本心がどうであれ、紙切れ一枚の契約であってもその関係を証明できることに。そして愛情を形にすることができることに。
 そしてそれをまた葬儀という形で目の当たりにする羽目になった。
 僕の中にまたモヤモヤとした怒りがもたげてきて、それでいて楽しげに笑っている女の子たちの甲高い声が耳について、心の奥がざわついていく。
 僕はそのモヤモヤが外に出ないように小さくため息をついた。

「満足したわ。イケメンとパンケーキ食べられたし」
 チラチラと見られ続ける拷問のような時間が終わることに僕は安堵する。
「はぁ、それはよかったです」
 彼女はまだ何か言いたげではあったけども、立ち上がって伝票を取った。
 慌てて彼女の手から伝票を取ろうとすると「コラッ」とデコピンされる。
「!?」
「私が呼び出したのだから、素直に奢られなさい」
 僕が呆然としているとさっさとお会計を済ませて、彼女は店を出ていった。 

 今日、新幹線で帰るというから、山手線に乗って品川駅へと向かう。
「私、あの奥さん、嫌いなのよね」
 彼女は刺々しい口調でいう。
 数時間しか話していないが、彼女はどストレートに感情表現をする人であることはわかった。
「…はぁ、そうなんですか」
「食べるの嫌いそうでしょ。実際、あんまり食べないし。人が作ったもの全部食べろとはいわないけど、せめて敬意は払うべきだと思うの」
「そうですね」
「父が倒れたときに、慎太郎は米をやるかって話になって。そしたら、今は帰れないけどそのうち帰るから辞めないでほしいっていうのよ」
 知ってた? と聞く。僕は首を振る。
「じゃあ、完全にアイツの自分勝手な話なんだ。いずれキミと長浜に帰ってくるつもりだったんだって」
「……そんな話はまったく」
「そうなんじゃないかなーって思ったの。キミの反応を見てて。だから言うか迷ってたんだけど、キミ、最後に慎太郎にあったのはいつぐらい?」
「あなたのせいで奥さんが乗り込んできて以来だから、一年前ぐらいですよ」
「……キミ、ホント、いい性格してるね。じゃあ、その後のことは知らないのね。キミにおいしいご飯を食べさせたいっていうのがアイツのモチベーションだったのよ。だから、キミと別れたあと、随分焦燥しててね。かわいそうなぐらい。ちゃんと食べられてなかったのか体重も減っちゃって……。なのに、あの奥さん、糖尿病予防でダイエットさせているからとかいうのよ。あんなガリガリにになっちゃって、かわいそうで見てられなかったわよ。だから、こんな結末になってしまって、あの奥さん、どんな顔をして出てくるのかって思ったら、ちゃんと奥さんの顔で来てるの。わかる? 私の怒り」
 彼女は怒涛のように喋り続ける。その大半を奥さんへの不満がしめていた。
 僕は、そんな話を聞かされてもと思っていたけども、彼が生きているうちに聞かされていたら何かできただろうか。
 それでも何もできないような気がする。子どものこととか、家族のこととかを持ち出されたとき、結局、僕は彼女から彼を取り戻せるような有効な手段を持っていないのだ。
「これはキミに渡したほうがいいと思って」
 祥子さんは、カバンの中から一冊のノートを取り出した。
 パラパラとめくると、几帳面な慎太郎の手書き文字が並んでいた。
 取れた米の種類、味の特徴、ブレンドの比率、炊き方。
 そして、
「僕の食べた感想」
 炊き込みご飯とか、鯛めしとか。新米が届いたときには白米だけで三杯食べてたとか、あと、唐揚げが好物だとか。
 彼と実質的に恋人という関係になってから別れるまでの五年分。さすがに毎日ではないけども、食べた料理とそれについての感想が日記のように書かれていた。
 魚の骨を取るのがうまいとか、箸の使い方がキレイとか、食べ方を褒めている記述も多い。こんなにも見られていたなんて、思いもしなかった。
 僕は恥ずかしいやら、うれしいやらで、顔が赤くなるのを感じた。
 彼は言葉で愛情を示す人ではなかったが、このノートには彼の愛情が綴られていた。
「なんだ、キミ、やわらかい顔もできるんじゃない。苦手な場所に付き合わせて悪かったわね」
 ドアが開くなり、彼女は電車を降りる。
「キミは愛されていたわ。羨ましいぐらいにね。キミが来てくれればよかったのに」
 優しく微笑む。
 その声は涙でかすれていた。

きゆう
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きゆう

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