1.冬支度

 我輩は熊である。
 名前はドゥカティ。
 日本人の名前じゃないって? 当たり前だ。
 我輩は熊なのだから。
 本州に住むツキノワグマの間では、比較的スタンダードな部類に入る名だ。
 しかし悲しいかな、我輩はもう、この名で呼ばれる事はもう無いのだ。

 その年は、ブナもミズナラも、特別不作だったという訳ではない。
 むしろ前の年が豊作だったがゆえに、春に新生児が大勢生まれ、つまり我々の個体数が少々増えすぎたのだ。
 住処の周辺の林だけでは足りず、遠方まで足を延ばす事を余儀なくされた。
 もうすぐ始まる冬を越すための、食料を確保しなければならなかったのだ。
 河に入って大好物の鮎を獲りたい衝動に駆られたが、鮎は保存が利かないので今日は、冬の間蓄えておけるブナ、コナラ、ミズナラ、ドングリ、クリの実などを探すのだ。
 そもそも我輩の住処自体、ブナ林の中にあるのに、そこにブナの実がほとんど無いってのは、どうよ?
 例年、ブナの次に多いのはミズナラなのだが、今年はミズナラも、実っている樹が見つからない。
 いつしか我輩は、人間どもが行き来する路が見えるところまで、下りてきていた。
 木々の間から下を覗くと、「クルマ」と呼ばれる怪物が、ものすごいスピードで走り抜けていくのが見えた。
 光る目を持つこの怪物は、石のように硬い体を持ち、短い、というより丸い足からは想像もつかないスピードで移動する。
 そしてこいつらは人間どもに飼いならされており、人間を乗せて走ったり、ものを運んだりする。
 我輩はクルマに出くわさないように、人間どもの路に出ることが無いように、留意して山を下りて行った。明け方までには山に戻らなければ、夜が明けて人間どもが活動を始めたら非常に厄介だ。
 しばらく下りていくと、「イエ」が見えてきた。人間どもは自分達の住処をそう呼ぶ。
 その辺の、自然に出来た穴倉にでも住んだ方が楽なのに、やつらは林から切り出した樹や、山から掘り起こした土砂などをわざわざ運び、イエを造る。
 そうした資材を運んだり持ち上げたりするのも、やはりクルマだ。
 やつらは人間どもに、完全に手なづけられているのだ。
 何しろやつらと来たら、人間が乗ってない時は、ぴくりとも動かないというではないか。
 我輩は周囲にクルマの気配がない事を確かめ、路に降り立った。
 そこはちょうど、イエが密集している場所だったが、人間どもの気配はない。奴らは我輩らと逆で、明るい時間帯を中心に活動するのだ。
 人間どもの事だから、おそらくイエの中には食料を蓄えているであろう事は容易に想像できたが、イエの中に入る勇気は我輩にはなかった。
 仲間が何匹も奴らに殺されている。人間は恐ろしい生き物だ。
 イエに足を踏み入れて、生きて帰れるとは思えない。
 我輩の今日の狙いは、路の隅っこに建っている、立方体型の物体だ。
 なぜこれがイエの中ではなく外にあるのか謎であるが、人間どもは、この中にも食料を蓄えているらしい。
 以前に来た時、奴らが食料を取り出すところを陰からこっそり見た事があるのだ。
 我輩は周囲に警戒しつつ、その箱に近づいた。
 クルマの目から放たれるそれほど強い光ではないが、この箱も不思議な光を放っている。
 光を放つ窓の下に、楕円形の突起が並んでいる。この突起を押す事により、下の方から食料が排出される仕組みらしいのだ。
 突起の数は一つ、二つ、三つ、それ以上ある。つまり「たくさん」だ。
 我輩は、たくさんある突起を一つずつ、右から順に押して行った。
 …………。
 食料が排出される気配はない。
 もっと強く押さなければダメなのだろうか。
 バン、バン、バン、バン、バン!
 今度は叩いてみた。
 やはり何も起きない。
「そこ、どいてくれる?」
 不意に背後から人間の声、我輩の背筋に冷たいものが走った。
 恐る恐る振り返ると、人間のメスが二本足で立っていた。
 逃げなければ!
 最初にそう考えた。
 火を噴く杖は持ってないようではあったが、何しろ人間である。何をされるかわからない。
 しかし、あまりにも距離が近い。
 逃げられない!
 そう判断した我輩には、闘う選択肢しか残されてなかった。
 後ろ足で立ち上がった我輩は、人間に向かうと前足の爪を大きく振りかぶった。
 ところがやつは、ムチを隠し持っていたのだ。
 やつのムチに腹を打たれた瞬間、我輩の全身に痺れが走った。
 振り上げた前足を、振り下ろす事が出来ない。
 そればかりか後ろ足も感覚を失い、立っている事すらままならなくなっていた。
 周りの世界が、ぐるん、と一回転したように見えた。

     +++++

 アタシは自販機から取り出した無糖の缶コーヒーをすぐに開け、一口飲んだ。
「フウ・・・・・・。」
 ほっと一息ついたところで、改めて足元に倒れた、それを見下ろす。
 やっぱどー見ても熊、本物の熊だ。
 アタシはコートのポケットに一旦しまった神経ムチを、もう一度取り出した。
「本物のクマも一撃か、パパの発明品も、全部インチキって訳じゃないのね。」
 だけど、これ、どうしよう?
 このままここに放置じゃ、明日の朝は大騒ぎになるかも知れない。何しろ、熊だ。
 アタシはスマホを取り出し、パパにラインした。
『実験動物ほしいって言ってなかった? 三丁目の角の自販機の前で、熊、倒しちゃったんだけど。』

 ほどなく、一台の軽トラにユニックを積んでパパと、助手のリリィさんがやって来た。
「うっひょー!
 でかしたぞレナ、こいつはいい実験動物じゃわい。」
 パパは白衣姿で、ワイヤーロープを手に、嬉々として軽トラから降りて来た。
 パパは表向き、歯医者を開業しているのだが、実は医院の地下室で、なにやら怪しい研究もしていて、黒いスーツにサングラスという、見るからに怪しい男たちが時々出入りしている。
 アタシは歯医者の方だけ、それも気が向いた時にしか手伝ってないので、具体的にどんな研究をしているのか知らないが、時々護身用にと、今回の神経ムチのような発明品をくれるので、きっと何か物騒な研究をしてるに違いない。
「オーライ、オーライ!」
 パパは慣れた手つきで熊の体にワイヤーロープをかけると、軽トラの二台でユニックのレバーを操作するリリィさんに、両手で合図を送った。
 リリィさんは歯医者の仕事と、パパの怪しい研究の両方を手伝っていて、その上、ママが長期出張中でいない我が家の家政婦的な仕事までやってくれている。だからいつも茶色を基調としたメイド服を着ている。パパの怪しい研究を手伝ってる時はもちろん、歯医者を手伝ってくれている時もだ。
 ユニックのフックが降りて来ると、パパはそこにワイヤーの輪っかを引っ掛け、再びリリィさんに合図を送った。
 気絶した熊の巨体は、こうして軽トラの荷台に載せられた。
「レナ、二人乗りなんで座席は無理じゃが、荷台にでも乗って帰るか?」
「熊と一緒に?
 いいよ、近いんだから歩いて帰る。」
「そうか、じゃあ気をつけて帰って来いよ。」
 そう言うとパパは運転席、リリィさんは助手席にとそれぞれ乗り込み、走り去って行った。
 といっても、三軒向こうの角を左に曲がった所が我が家だ。軽トラが我が家へと入って行く所がここからでも見える。
 アタシは飲み終わってすっかり冷たくなったコーヒーの空き缶を、トラッシュペールに向けて放り投げた。
 バコン! という音と共に、空き缶がトラッシュペールの丸い穴に吸い込まれていった。
 ストライク。

秋ノ月げん
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秋ノ月げん

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