「江州の腐り寿司」

琵琶湖で獲れる、「ニゴロ鮒」を塩漬けにし、ご飯でフナを包み、一年程漬け込んだ、醗酵食品で、匂いが強く、恐らくは、100人いや1000人集めて、鮒ずしを出せば、この鮒ずしを知っている人か、それとも、発酵食品に詳しい人以外は、その匂いに、顔をそむけるに違いない。

わたしの小中学の頃まで、我が家でも母が鮒ずしを付けていた。
その頃は、家庭料理で、各家庭で、微妙にその味が違っていた。
お祝事、結婚式などは、式場では無く、家で祝っていた頃、祝いの席の「鉢物」として、何処の家でも出されたものである。

その他にも、琵琶湖の「小鮎」「イサダ(ゴリの仲間)」「小エビ」等も、煮た物が「鉢物」として、振る舞われた。
その他、琵琶湖で獲れる、「鯉」「鮒」を、ぶつ切りにし、煮た物や、「鯉」洗い、「鮒」の「こまぶし」(フナの刺身に、鮒の卵を混ぜた刺身)

琵琶湖の「小鮎」は、体長5~7Cm位の小さなアユで、この大きさで、成魚で有り、腹に卵を持つ、余談では有るが、琵琶湖のアユには、「竜神」の祟りで、大きく成れないと言う、むかし話も有る。

その証拠に、同じ琵琶湖のアユが琵琶湖に注ぐ川を上り、他の川や湖に放流すると、15Cmから20Cmを超える、大きさに成長する。
正に「竜神様」の呪いで有る。(真実は、他の理由がある)
「小鮎」「イサダ」は、甘塩辛く煮る。
小エビは、大豆と一緒に甘塩辛く煮る、「エビ豆」と言う、郷土食と成る。

話が反れてしまったので、「鮒ずし」に戻そう。
匂いが強烈で、これを「江州の腐り寿司」と愛着を込めて、呼ぶ者も有る。
だが、一度口にすると、もう一度食べたく成る、美食家で有名な「北大路魯山人」は、長浜に来ると、この「鮒ずし」を肴に「七本槍」と言う、地酒を飲むのを、楽しみにしていたという事だ。

発酵食品、チーズ等を食べなれている、国の人や発酵食品を好む人に取っては、抵抗の少ない無い食べ物らしい。
福井(若狭国・小浜)から、滋賀県(近江国朽木村)を通り、京都に通ずる。
福井で獲れた、「鯖」を塩に漬けて、京都まで運んだ道を「鯖街道」と呼び、滋賀県の「朽木」に「鯖の熟れずし」が有る、これも醗酵食品で、「鮒ずし」と同じである。
「鯖のへしこ」も有り、(同じく、塩と米糠で漬け込んだ保存食)
あしの速い「鯖」を、長持ちさせる、先人の知恵、思考錯誤の上、辿り着いた、保存方法で有ったに違いない。

わたし自身は、美食家では無い、湖北に生まれた者として、鮒ずしは、大好物で有る。
次兄が漬けた物、友人が趣味で漬けた物を、貰うと、一切れずつ、味を噛みしめながら、頂いている。

子持ちの物は、最上級では有るが、オスの方が、味が良いという人も有り、好みによって、それぞれである。
鮒ずしに着いた、醗酵したご飯の事を「いい=飯」と言い、これを、炊き立てのご飯に乗せて、お湯・お茶を掛ける、(お湯またはお茶は、多めに入れるは厳禁)「飯」が溶けて、ご飯に、染み込む程度でよい。

又、鮒ずしの頭は、炊き立てのご飯の上に乗せて、お湯またはお茶をご飯と鮒ずしの頭が、お湯またはお茶にたっぷり浸かった状態で食べる、これは、最高の食べ方で有る。

この鮒ずしが戦国時代、織田信長と明智光秀の命を奪い、徳川家康・羽柴秀吉の運命を大きく変える、きっかけとなった。

愛知県豊田市に住む知人は、徳川家康の家臣(本人曰く、下級武士)の子孫で、この鮒ずしに興味を持ち、一度食べてみたいという。
初めての人は、口に入れることは勿論、この匂いを嗅いだだけで、顔を背ける様な物と説明をした。
わたしが、鮒ずしの事を余りにも、旨いものと話したために、興味を持ったのかと、後悔したのだが、食べてみたいと、思う理由が他にも有った。

前出の様に、この知人は、徳川家康の家臣(本人曰く下級武士)の子孫で、家康が安土城で信長に接待を受けた、時の出来事を、家康の家臣(本人曰く下級武士)の家に伝わる、話として聞かされていたのだと言う。
だから鮒ずしがどの様な、食べ物か、知りたいと以前から、思っていたらしい。

その話を聞き、わたしが想像し創作してみた。
(史実と違うとお叱りの無きよう、面白話として、読んで欲しい)

安土城は、琵琶湖に面した、「大中湖・西の湖」(現在大中湖は干拓されて、埋め立てられ、農地に成っている、西の湖は現存)に突き出した、小高い山の頂上に建っていた。
戦に備えた、城では無く、信長の天下布武を目の前にした、権威の象徴としての、豪華絢爛、美しい城で有る。

現在、城跡を訪ねてみると、石段を登り始めた、左側に「羽柴 秀吉」の屋敷跡が有る。
専門家によると、この頃の秀吉の、「身分」「禄高」を考えると、この屋敷跡は、広大で有り、
あくまでも「伝 羽柴秀吉 屋敷跡」で有る。
その右側に、「伝 前田 利家」の屋敷跡が有る。

石段の所々に、「石仏」を石段にしてあり、来城者により、お賽銭が置いてある。
石材を集める時、民百姓が、朝夕手を合わせている、野の仏を持ち去り、石段の石に使ったのであろう。
天主跡の一段下には、三重の塔が建っており、お寺を天主から見下ろしていた。
信長はもうこの時、天下を我物と思っていたのだろう。

信長の絶頂期の城であり、「天守閣」では無く「天主閣」と言う。
西洋かぶれの信長の事、もしかすると「モンサンミッシェル」を意識したのかも知れない、(それほど美しい城で有った)。
そして、些細な事から、戦国の流れを変える、出来事が起こる。
信長自身の運命を変える、出来事が。

天正10年5月15日(1582年)僅かの共侍に守れ、この安土城に織田信長と同盟関係に有った、徳川家康が居た。
同盟と言っても、友情で結ばれた訳でも、強い絆で結ばれている訳でも無い、お互い事を構えるには、厄介な相手だからである。

この年の3年前の天正7年9月15日(1579年)家康の長男・松平信康が信長に、有らぬ疑いを掛けられ、切腹した。
理由としては、信康の正室(信長の娘)と姑(築山殿)との中の悪さを、父信長に報告した為、信長の怒りを買い、築山殿と共に、自害したと言う、娘婿でも気に入らなければ、殺してしまう、信長の残忍さ、非道さを表す、出来事で有る。

何度も信長は、家康の暗殺を企てた事も事実で有るなら、家康が何の疑念も持たず、招待を受けたとは、考え難い、少数のお供の武士もきっと、徳川家臣の選りすぐりの強者で、気走りの利く、者達を揃えたに違いない。
信康の切腹の日と同じ、15日の事、不吉な予感を抱いていたかも知れない。
明智光秀を供応役(接待役)とし、大広間に料理が運ばれたが、正面に信長、直ぐ脇に、家康が座り、表面的には、和気藹々の情景に見えた。

控えの間に居た、家康の家臣たちは、目を見開き、身動ぎ一つせず、
大広間の話し声、足音、どんな小さな気配も見逃さぬ緊迫した状態であった。

勿論、信長配下の者達も、控えの間の、家康の家臣達を、注視していたであろう。

家康の家臣の一人が、突然立ち上がり、大広間へと駆け出した。
その侍は、静かに配膳を待つ、信長、家康そして、下座に控えた、明智光秀の後ろから。
「恐れながら・・お願いの儀あり、何卒お許し頂きたく・・・」
家康は我が家臣の事、これを見て、
「無礼で有ろう・・控えよ・・・!!」
信長は、この家康の言葉を遮る様に、家康の前に手を差し出し、
「申してみよ・・・許す・・・」
「はは~ぁ・・・有りがたき、幸せに存じ奉りまする・・・」
「主の膳・・改めさせて頂きたく存じます・・・」
つまり、毒見をさせて欲しい、と言う事で、この宴の主催者、信長と明智光秀を疑う事に成る。
この時、数人の侍と共に来城した、家康に「毒見役」を連れて来たとは、考え難く、家康が頼りにする、重臣には違いないが、この侍が、誰で有ったかは、不明である。

信長の顔色が変わった。
空かさず、家康が、立ち上がり。
「無礼者・・・下がれ・・下がれ・・・」
と大声で、怒鳴りながら、その家臣の、前に平伏し、
「何卒この者の、無礼、拙者に免じて、お許しの程、お願いいたしまする・・・何卒・・何卒・・・ご容赦のほど・・」
「この者は、直ちに、腹を切らせます故、・・何卒・・・ご容赦のほど・」
信長は、温厚な家康のこの様な、大声を上げた事を初めて見た、面食らい、出鼻を挫かれた。

「其方に聞く・・何が不信であるか、申して見よ・・・」
「はは~・・この匂い・・・未に嗅いだ事の無い・・此の匂いで、ござりまする・・・・?」
信長は、「鮒ずし」を盛りつけた、皿を手に取り、家康の前に出た、
「其方が、不審に思うは、これの事か・・・?」
家臣がそれに答えようとすると、家康は。
「黙れ・・黙れ・・無礼者・・」
家臣の発言を止めたが、信長は、以外にも冷静で、
「まあまあ・・家康殿・・」
「許す・・申して見よ・・・」
「はは~・・いかにも・・魚の腐った匂いと存じ上げます。」

三河武士に取って、海の魚が豊富な土地柄、新鮮な海の魚を食べなれている人たちには、川魚(湖の魚)等は、「生臭く」食べられない、人も沢山いる事は、事実である。
まして、初めて見る、匂いの強い発酵食品と成れば、「腐った匂い」と思うのも、無理は無かった。

その時、光秀が、恐れながらと、声を上げかけたが、それを許さず。信長は、持っていた、「鮒ずし」を盛りつけた、皿を光秀に、投げつけ。
「このような腐った物を出しおって・・主に恥をかかせる、この・不忠者が・・・」
有無を言わさず、蹴り飛ばした。

光秀は、無様にも、仰向けに倒れた。
武将として、これ程の屈辱は無い。
「下がれ・・下がれ・・下がって沙汰を待て・・・」
二~三人の信長配下に、両腕を抱えられて、その場を引き下がった。

家康がこの時、家臣の無礼を、詫びたが、信長は、脇差も差さず、この席に進み出た、家康の家臣に対し。
「丸腰でこの場に、進み出たわ、既に命亡き者と覚悟しての、忠臣で有る、」
「家康殿・・この者の責めは、無用じゃ・・・」
と言うと、すべての膳を下げさせ、新しく作らせた、料理を運
ばせた。

その後の宴が、和気藹々と成らなかったのは、言うまでもない。
だが、この出来事が・・いや事件が本当ならば、幾つもの謎がある。

明智光秀とも有ろう者が、なぜ「鮒ずし」を出したのか・・・?
凡人のわたしでさえ、徳川の家臣(下級武士)の子孫の知人が、「鮒
ずし」を食べてみたいと、言った時、初めての人は、なかなか口に
入れる事も、出来ない個性ある食べ物である事を、散々説明をして、
土産として差し上げた物で、簡単にこの味を認めてくれる人は、少
ないのである。
後日電話で、感想を聞いたが、食べたと言う返答は無く、
「結構な物を、頂戴しありがとう、ございました。」
との返事であった、たぶん、ごみ箱行きでは、無かったか。・・?

光秀としたら、信長が、知らない物なら、出さ無いで有ろう。
信長が、嫌いな物なら、尚更、出す事は絶対に無い。
信長が、安土の土地柄、琵琶湖独特の郷土料理を知らない筈は無い。
特にこの頃の信長は、濃い味を好み、塩分過多で、気の短さに磨き
が掛かって居たと、言われている。
「鮒ずし」は、信長の好物だった、可能性がある。
ならば、なぜ光秀を足蹴にし、罵倒したのか。

この時、手にした「鮒ずし」を信長自身、口に入れれば、何の騒動
にも成らなかった筈である。

信長のこの時の謎は、もう一つある。
信長の性格は、残忍で非道・非情と伝えられているが、この時の信
長は光秀を足蹴にした、だけで後に、毛利征伐の羽柴秀吉の援軍を
命じている。
武将としての面目を保った、勿論、秀吉の援助ということが、屈辱
で有ったのかも知れないが、光秀の名誉回復が可能な処置で有る。

もし信長の気性が残忍で、非道で非情ならば、この時、「供応役」を
解き、謹慎させるだけでは、済まされなかったのではないだろうか。
その場で、光秀を切り捨て、返す刀で、家康を切る。
何故そうしなかったのか。

天下を取った時、家康が邪魔な存在に成る事は、目に見えていた筈
で、この戦国時代、残忍で非道で非情な者で無ければ、生き残る事
、天下を取ることなど、出来る筈が無い。
だからこそ、城を落とし、その城主の縁故者は全て殺した、幼子で
有っても、後の災いを恐れてである。

天下を目の前にした、信長に取って、家康は災いの種に成る事は、
十分判っていた筈で、今この時が絶好のチャンスで有る。
家康を亡き者として、その罪を光秀に被せ、その光秀を信長が成敗
をした。
家康の家臣は、主の死に殉死した。
「あっぱれ三河武士、武士道の誉れ。」
信長が称賛したと、国中に伝われば、主を亡くした家康の後継者、
や家臣団が信長に、刃を向ける確率は、少なかったに違いない。

光秀を切り捨てなかった事も、結果論ではあるが、同じく天正10年、安土城での一件の14日後、5月29日、本能寺で命を落とす事とも無かった。

この時も、信長は、謀反の張本人が、明智光秀と聞き、怒りもせず、うろたえもせず、
 「是非に及ばず。」
仕方がないと一言った。
これは、光秀ならば、仕方がないと言ったのだろう。
この事を、予知していたのかも知れない。
別の武将で有れば、「何ゆえの謀反か・・・?」と叫んだに違いない。
この時、信長は、本能寺に身の回りの世話をしに来ていた、数十人の女たちをいち早く、避難させたと言われている。
この事からも、冷静で優しさも、有ったと思われる。

この事にも疑問が残る、信長は非情・非道で残忍な性格では無かったのか。
もしかすると、後世に秀吉辺りから出た、信長が残忍な性格で有ったとする作り話か。
この日、信長の掲げた「天下布武」は、夢と消えた事は、事実であった。

此処にもう一人、運命を変えた武将が居た、家康である。
家康は、光秀謀反の一報を受け、うろたえた、あまりにも、安土城での一件から、間もない事だから、その原因は、家康に有り、光秀主従は、家康を敵と思うに違いない。
のんびり、大阪・堺を物見遊山している場合ではない。

この知らせを聞き、うろたえた秀吉に。
「殿の天下が、目の前に・・・」
と耳打ちした、家臣が居て、秀吉が我に帰り、光秀討つべし、の命を下した。

家康としても、好機と見たに違いは無いが、悲しいかな、数人の共侍では、どうにもならず。
岡崎に逃げ帰る事と成る。
有名な「伊賀越え」である。

この事で、信長、光秀が天下取りの序列から外れた、秀吉が光秀を討ち、天下取りの一番手に躍り出た。

家康は秀吉に比べ、逃げ帰った事で、天下取りの序列から外れた。
その見方は、当たって居ない、確かにそれからの家康の活躍の場は、無かった、しかし、逆に家康の天下は近づいた。

信長の死は、それを近づけた、もし信長が天下を取って居れば、織田家の時代は、続いたであろう。
秀吉をはじめ、柴田勝家、前田利家等が、織田家を支えたに違いない。
信長が死に、光秀が討たれ、「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家も討たれた。
競争相手は、秀吉のみと成った。

その結果、秀吉の天下と成り、秀吉が世継ぎに恵まれず。(天下人に取って、息子一人では、心持たない、秀頼も秀吉の子では無い、と成れば滅亡は目に見えていた。)
秀頼が、秀吉の子で無い事は、99,9%の確率で間違いは無いだろう。
例え、「関ヶ原の合戦」豊臣家家臣の「五奉行筆頭・石田三成」と「五大老筆頭・徳川家康」との、お家動でも、豊臣家大事の石田三成に、対した、家康に「北政所」が味方、する訳がない。
秀頼が誠、秀吉の子で有るならば、「小早川秀秋」と同罪の裏切り者である。
例え、「淀殿」に対する、嫉妬で有っても、一代で共に天下を取った、秀吉の正室の成すべきことではない。
(只今、珍説  天下分け目の関ヶ原を、妄想中)
石田三成と徳川家康の豊臣家のお家騒動(関ヶ原の合戦)に繋がり
大阪の陣で、止めを刺し、豊臣家滅亡に繫がって行く。

「鮒ずし」で殺し合いをするのは、何とも大人気、無い事でその事が直接的な原因では、無かろう。
明智光秀に取っては、謀反と言う、重罪を犯す事に成る。
後世にまで、その汚名は残る。
現在も尚、なぜ明智光秀が信長を討たなければ成らなかったかの、確かな理由は、どの説も、謎が残ると言う。

光秀には、信長を許しがたい大きな理由が有ったに違いない
その謀反の引き金に成ったのが、湖国の名物「鮒ずし」で有ったのかも知れない。

もしかして、そうで有ったとしても、「鮒ずし」には、なんの罪も無い、又、匂いが、味がと嫌われる、筋合いでも無い、「江州の腐り寿司」と呼ばれる、筋合いでも無い。

終わり

元野 敏
この作品の作者

元野 敏

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