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ふと気がつくと、私は故郷の町・レイクに立っていた。一年ぶりに見る友達の顔は、歓喜に満ちていた。感極まって抱きついてくる者もいる。
「おかえり、アクア。無事だったんだね!」
「どう? 旅は楽しかった?」
彼らの勢いに私の方が気圧されて、私は曖昧に言葉を返した。しかし私は、頭の中に渦巻く違和感に悩まされていた。
私はすでに死んでいる――自分でそのことをはっきりと自覚していた。
私の名はアクア。大の旅好きで、よく一人旅に出かけていた。けれど旅の途中で訪れたインヨウの町で、私は小犬を庇って死んだ。いや、正確にはそれはただの小犬ではなく、妖(あやかし)とでも呼べる存在なのだが。害はないのに妖というだけで封印されそうになった小犬がかわいそうで、私は知らぬ間に庇っていた。結果、私は命を落としてしまったけれど、いまわの際になんとか逃げた小犬の姿が見えたから、未練はない。それがたとえ根本的な解決でない、私の自己満足でも良かった。――はずなのに。私は実体を伴って、ここにいる。実はまだこの世に重大な未練があって、それを忘れているのだろうかと疑ってみるが、果たして何のことか分からない。
「アクア、変だよ? さっきからボーッとしちゃってさ」
その声で、私ははっと現実に引き戻された。目の前には、心配そうな友達の顔。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
私は無理にでも笑顔を作ってみせる。それを見て、友達も笑ってくれた。
「アクアじゃねーか! 久しぶりだな!」
「…シェラン」
道の向こう側から親しげに駆け寄ってきたのは、青い髪と青目が特徴的な青年。私の幼なじみ、シェランだ。いつもならただいまと返すのだが、今は言う気にならなかった。「帰ってきた」という実感が、今の私にはなかったから。そんな私の異変に、シェランはやはり気づいた。
「どうした? 長旅で疲れたのか?」
不思議そうに、私の顔を覗き込む。彼は私を気遣かってくれていた。青い瞳が、不安げに揺れている。
「疲れて……そうかも」
私は疲れていて、訳の分からない妄想に取り付かれているのだろうか。それともこれは夢なのだろうか。実際、長旅であった。これがただの悪い夢であってほしいと願いながら、私は彼らと歩いていった。
それから数日。大きな事件もなく、以前のように平穏な日々が続いた。もちろん、私が旅に出ていた1年間で変わったこともあるのだが。とにかく、平和そのものだ。しかしその平穏は、かえって私に焦燥の念を抱かせた。自分は死んだのだ、という意識は私の頭から離れず、むしろ私はここにいてはいけないのだと思うようになった。死者は生きている者と同じように時間を過ごすことはできない。この1年で変化したように、彼らはまたこれからも変わっていくのだろう。けれど私は、どうあがいてもあの日のままなのだ。それが、堪らなく悲しい。
彼らが私に向ける表情は、たとえそれが喜びであったにしても、私に悲しみをもたらした。私はここにいないはずの存在。実体はあるが、ここにいるのはかりそめの私。彼らの感情は虚無へ向かい、そしてそのことに気づいていない。それが私にとって、つらく、悲しいことであった。
ある日、私は思い切って話してみようと考えた。シェランや友達の前で、私は唐突に切り出す。
「あのさ………もしも私が、実はもう死んでいるんだって言ったら、どうする?」
一瞬でその場が凍りついた。誰もが呆然と私を見ている。つらい沈黙が流れる。しかし、それは笑い声に破られた。
「何言ってんだよ、お前は生きているじゃないか。実体のある幽霊なんて聞いたことないぞ?」
そう言いながら、シェランは私の頬をつねった。少し引っ張られた頬に痛みがくる。そう。一番の謎は私が実体を持っていることだ。自分が死んだというのはあらぬ妄想なのだろうか。違うと頭の奥が否定するが、理性がそう疑ってしまう。私はそれ以上何も言えなくなって、苦笑するだけだった。
それから数日後。結局、私は言い出せずにいた。このまま何事もなかったかのように過ごせばいい。そう思えるだけの余裕が、私にはなかった。やはり思考を支配しているのは、自分はここにいてはいけないのだという思い。慣れ親しんだ故郷を離れ、隔絶された世界に行かなくてはならないと。
「すみません、ちょっといいですか?」
考え事をしていたせいか、私は背後から近づいてきた影に気付かなかった。振り向くと、そこには優しげな顔の男性が立っていた。歳は中年くらいで、襟の立ったシャツを着ている。
「あなたが、アクア・セトリックさんですか?」
「そうですが……それが何か?」
男の人はいや、と曖昧にはぐらかした。だが、どことなく落ち着きがない。まるで、目の前で起きていることが受け入れられないでいるようだった。
「おお、失礼。私はインヨウの警察官です」
そう言って、その人は懐から身分証明書を取り出した。そこで私ははっと思い至った。
「もしかして、私の死体がありましたか?」
私の質問に、男性は弾かれたように顔を上げた。唇が震えているが、言葉になっていない。その態度から、私は確信した。彼は、私の身元を確かめに来たのだろう。それも、事故の犠牲者として。なぜなら、インヨウの町は私が死んだ場所だから――
「それじゃああなたは…」
「分かっています。私は自分の運命を受け入れるつもりです」
男性はまだ何か言いたそうだった。彼を見かねて、私は続ける。
「あの、お願いがあります。私の真実(・・)を、彼らに見せてください」
相手は目に見えて狼狽していた。
「しかし、そんなことをすれば…」
「いいんです。残酷でも、私は現実を受け入れてもらいたい。私にとっては、みんなが甘い幻想のとりこになっていることの方がつらいんです」
私の提案が、いかに自己満足であるかなど分かっている。シェランや友人にとってみれば、「私がいる」という事実の方が幸せなのだから。それが例え、虚構であったとしても。それでも私は、男性に必死に訴えかける。とうとう相手が折れた。
「分かりました。どうにか手配してみましょう」
男性は恭しく頭を下げ、私に背を向けて立ち去った。
それから数日後。私はシェランを含めた友達を集めた。家には、警察の人達が持ち込んだ大きな木箱。蓋を開ける前に、私は皆に向き直った。
「見て欲しい物があるの。でも、驚かないで――」
言ってから、私は木箱を――棺桶を開けた。そこには、冷たく動かない私の体。
当然、誰もがその光景に息をのんだ。私自身、その事実を再認識する。時間は経っているはずだが、綺麗に保存されたそれはまるでただ眠っているだけのようにも見えた。だが、彼女が再び目を覚ますことはない。何より私がそのことをよく承知していた。
「嘘だろ? だって、お前はここに……」
狼狽したシェランが振り向く。だが、私を掴むはずだった彼の手は、ただ空を切っただけだった。もう私は、彼の温もりを感じることすら叶わない。
「ごめん、なかなか言い出せなくて。私は、もう死んでいるの」
静寂がその場を支配する。私を見つめる目は、どれも涙が溢れている。信じられない、無言の声がただそう訴えていた。分かっていたはずなのに、彼らの絶望の顔は見るに堪えられないものがある。だがいくら悲しんでも、私には涙を流す体がない。
「でも、最後にまたみんなと会えて、良かったと思ってる。みんな、今までありがとう。友達でいて、とっても嬉しかった。それと――」
さよなら、そうつぶやいた言葉は静かに風に溶けた。私は彼らの腕を、声を、受け止めることはできない。ああ、私は召されるのか。見慣れた家も、彼らの顔も揺らいでいく。いや、揺らいでいるのは私の方だ。私の存在が霧となっているのだ。意識すら徐々に薄らいでいく。だが、もう悔いはない。最後の時を、かりそめでも彼らと過ごすことができたのだから。