一人の王者
「……う?」
侍女のニーナが意識を取り戻したのは、窓から木漏れ日が注ぐ小さな小屋だった。申し訳程度に敷かれた布の上に横たわっていたらしい。ニーナはガンガンとする頭を抑え、ゆっくりと立ち上がった。
「あら、お目覚めですか?」
「!」
ビクッと体を震わせ、ニーナが振り返る。柔らかな笑みを浮かべた黒い髪の女性が居た。丁度外から戻ってきたらしく、その手には籠が抱えられ、籠の中には木の実やキノコ、山菜等と言った物が大量に収められていた。
「え……あ、え?」
「申し訳ありません。そんな粗末な場所で……今紅茶を淹れますのでどうぞテーブルに着いて下さい」
やんわりとした言葉。お湯を沸かし、茶会の準備を始める女性。ニーナは唖然とした様子でそれを見ているだけだった。
「どうされました? 床がお気に入りなんですか?」
「え?」
「どうぞ、お座り下さい」
微笑む女性。ニーナはそんな彼女に見覚えが『無い』様な気がした。誰だろうか。意識を失う前に出会った女性と容姿は似ているがとても同一人物には思えない。
催促されるままにテーブルに着き、ニーナはぼんやりと女性を眺めていた。
どこからどう見ても、あの時見た『魔女』だった。だが、纏っている空気は魔女と言うよりも町娘のそれに近い。
紅茶や茶菓子等がテーブルに並べられ、本格的に茶会の様相を呈してきた。
「砂糖もミルクもあります。レモンの方がよろしいですか?」
「み、ミルクを頂きます……」
「はい、どうぞ」
微笑みながら差し出されたミルクを紅茶に入れ、ニーナは紅茶を一口含んだ。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「……って、紅茶に何か細工とかしてないですよね……?」
「命を奪うつもりなら既に奪っていますよ」
「あ……そ、そうか……」
彼女の言葉に納得したのか頷くニーナ。ニーナはティーカップを掌で包み込み、紅茶の中を覗きこむ。
「あ、そうだ……まだ自己紹介をしていませんでしたね。私の名前は、ヘレナと申します」
「わ、私……は、ニーナ、です」
魔女ヘレナがにこやかにそう告げれば、ニーナも釣られて名前を告げた。
「あ、あの……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい。なんでしょう」
「私を……どうして殺さなかったんですか?」
「必要が無かったからです。それに、元々ルキウス殿下を殺すつもりは毛頭ありませんでした」
「え?」
「私の狙いはあくまで国王陛下のみでした。それでも、目の前に立ちふさがる方々が居りましたので仕方なしに……それに、ルキウス殿下を殺す事等私には出来ません」
微笑むヘレナに、ニーナは呆気に取られていた。あんな圧倒的な力を持った魔女が殺せないとは、どういうことだろうか。
ヘレナはニーナの考えでも読み取ったのかクスリと笑い、唇を開いた。
「ニーナ様」
名を呼ばれ、ニーナがヘレナを見上げた。魔女の瞳は悲しそうに揺らいでいるのを見て、ニーナは言葉を失っていた。
「昔話を、聞いてくれませんか?」
「大昔……この世界は魔法で満ち溢れていました。魔法使い、という魔法を使って様々な事象を起こす者達が職業として成り立っていた時代です。世界は、平和とは程遠く。物凄く大きな戦争が起きていました」
「戦争……ですか?」
ニーナの言葉に、ヘレナは微笑みながら頷いた。テーブルに視線を落とし、ヘレナは昔を懐かしむように唇を震わせている。
「その大きな戦争で……恐らく世界の七割の人間は死に絶えたと聞きます。その戦争は、魔法の研究が引き起こした戦争でした。人を生き返させる事が出来るとしたら、ニーナ様はどうされますか?」
「えっ……そう、ですね。亡くなった父を、生き返してもらうでしょうか」
「そうですね。もう一度会いたい方を蘇らせたい。その思いが、戦争を引き起こした引き金でした」
悲しそうに目を伏せ、ヘレナは続けた。
「人を蘇生させる魔法は、決して戦争を引き起こそうと思って始まったものではありませんでした。寧ろ、世界が良くなるだろうと思って研究は進められていたんです。でも……それは禁忌でしかなかった。どうして禁忌とされたのか。私はあの時初めて思い知りました。私達人間は、人が手を出してはいけない領域に手を伸ばしてしまったのだと」
まるで、その場で居合わせていたかのような口調だった。ニーナはそれが嘘とも思えず、事実なのだろうと理解してしまった。この魔女は、その大きな昔から生きているのだと。
「その時代には、まだ神が存在していました。戦争によって多くの人間が死に絶えました。ですから、神はそれを憂い魔法を封印することに決めたのです。そして、その魔法の封印の依り代として、私が選ばれた。私以外の人間が魔法を使用することを固く禁じ、私は人間であることを禁じられた」
「どうして……貴方が選ばれたのですか?」
「私が……研究の発案者だったからです」
ヘレナは、唖然とするニーナに微笑みかけるだけだ。
「だから、これは私の罪。ヒトが魔法に手を触れる事を私は固く禁じた。それによって人命が失われるのだとしても、それによって更に多く失われる事を考えれば……四の五の言っている余裕はありませんでした」
故に、相手が国王であろうと容赦はしなかった。いや、国王だからこそヘレナはあの暴挙に乗り出したのかもしれない。国王としての影響力の高さを考えて。
「私がヒトだった当時、恋を……していたんです」
「え?」
「当時、私がお仕えしていた国……カストゥール王国の第三王子……アルトリウス殿下という方でした。彼は、剣の腕はそこそこで。騎士として戦場に立つような人でした。戦場で殿下が亡くなったという報告を聞いた時、私は息が止まって死んでしまうかと思いました」
「……それで、人を蘇らせる研究を?」
「ふふ、馬鹿な女でしょう? 彼が居なくなることを……受け入れる事も出来なかった」
自嘲気味に笑うヘレナ。
「私が人を蘇らせる研究をしている理由を神が知った時、神はあろうことか殿下を蘇らせてくださいました」
「えっ?」
「ですが蘇った殿下は……人の姿をしていませんでした」
遠い目をしたヘレナの心境はニーナには窺い知れない。運命を呪っているのだろうか。未だに後悔しているのだろうか。ニーナには問いただすことも出来なかった。
「殿下の姿はウェルシュと言う名の赤い竜でした。神が差し向けた、私を唯一殺せる存在。赤い竜の力によって、私が死に、世界から魔法を失くす。それが神の計画でした。でも赤い竜は私を殺そうとはしなかった。寧ろ王国に散らばる村を襲撃したりし始めたのです。赤い竜は……ウェルシュには、既に理性等無かった」
彼女の瞳から、表情が消えた。
「理性を無くし、国から恐れられたウェルシュは、次第に国から疎まれる存在となった。その時です。私と彼が、ニヴァシュの山にて死闘をする羽目になったのは」
ヘレナの瞳には表情がない。それが、感情を抑えている為だとニーナは気が付いた。
「国からの要請で、私はウェルシュと戦うことになりました。ここで私が死ねば、全ては終わる。でも私が死んだ場合、ウェルシュはどうなるのだろうと思ったら、分からなくなりました。気がつけば私は……ウェルシュを自らの手で殺していたんです。おかしいですよね。蘇ることを望み、蘇らせることを考えて戦争まで起こしたのに。蘇った彼を、私は自分の手で止めを刺したんです。その代わり、私はウェルシュの爪を胸に受けて大きな怪我を負いました。ニヴァシュの山で絶え間なく流れる私の血はいつしか小川から河へと変貌していたのに、私の体は死を知ることはありませんでした。ウェルシュが亡くなったことで、ウェルシュの爪はその力を失い、結果私を殺す事が出来なかったんです。そのまま私が死ぬことが出来ていれば……もっと事態は違っていたでしょう」
固唾を飲んでニーナは次の言葉を待った。
「その時流れた血がニヴァシュの山に染みこみ、恐らく貴方方の持つエーテルが出来上がった。採掘されるようになったのは最近と言って居ましたね。恐らく、結晶化が進んだのでしょう。この100年の歳月によって」
冷えた紅茶を眺めながら、ヘレナはぽつりとそう言った。ニーナは言葉を失い、唇を噛んだ。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょうか?」
「その……大きな戦争なんですが。私の記憶ではそんな大きな戦争があった事を記憶していません。それに……赤い竜だって、」
「消しましたから。人間の記憶から、書物等の記録から、全てを」
「……え?」
「人間が覚えていなくても良いことだと私が判断して消しました。私の魔法の影響を受けない赤い竜の騎士……ルキウス殿下は簡単にその記憶を思い出してしまったようですけれど」
断言するヘレナ。ニーナはまたもや呆気に取られてしまった。ヘレナはまた微笑んでいた。
「愚かでしょう? 私」
「……でも、分からないでも、ないのです」
「………………」
「私だって……ルキウス殿下を失ったら、何をするか……」
呟くほど、小さな声だった。ヘレナは冷えた紅茶を一口含み、また唇を開く。
「ルキウス殿下は……私を唯一殺せる存在なのです」
「えっ?」
「赤い竜が居なくなってしまっては、私を殺せる存在が居なくなってしまう。だから神は、アルトリウス殿下と同じ出自の人間に赤い竜と同じ力を備えさせて生み出した。でも、今の彼では私を殺せない。だから、私は私を殺せるよう彼にあれを渡したんです」
「ま、待って下さい! それじゃ、貴方は……!」
焦るニーナ。そんな彼女にヘレナは、笑いかけるだけだった。
ニーナの中でそれはあり得ないという思いが駆け巡るが、魔女はそれを否定して来ない。寧ろ肯定するように微笑むだけだった。ニーナは脱力したように椅子に深く腰掛ける。
「……どうして、そんな……」
「絵を描きたいんです」
「え?」
「約束したんです。アルトリウス殿下と。絵の描き合いをしようって」
遠い瞳でそう呟いたヘレナに、ニーナは黙り込んだ。
小屋の中に沈黙が舞い降りる。静寂の中、まだ片付けられていなかった絵筆がぽつんと寂しそうに床に転がっていた。
「ルキウス殿下はどうだ?」
「どうもこうもありません。まるで抜け殻です。目の前で父王、兄殿下、アグロヴァル卿を殺され、止めとばかりに心を許していた少女まで連れて行かれてしまいましたから。最初は狂ったように暴れていましたが、今は抜け殻のように動かなくなってしまいました」
「食事等は摂っているのか?」
「食べさせようと試みていますが、魔女が居なくなってからこの二日ほとんど物を口にしていません」
部屋の外で、ルキウスを気遣う会話が聞こえてくる。確かにここの所何も食べていない。だが、体は衰えた様子も無い。ふと、右手が何かを握り締めている事に気が付いた。見てみると、アルが持っていた小さな小袋だった。中には何が入っているのだろう。口を開け、袋を逆さまにして振ってみる。すると、ゴトンという重い音と共に小袋の中から長剣が『落ちてきた』。
「……え?」
燃えるような赤い刀身を持つ長剣だった。柄は黄金である。ルキウスは呆気に取られ、小袋の中を覗きこんでみる。特に対して変わった所は見られない。赤い剣を持ってみれば、初めて持ったというのに何故か既に何十年も手にしていたかのような手に馴染む感覚があった。それと同時に、何故か猛烈に懐かしい気分にもなる。まるで、旧知の仲にでも出会ったかのような。昔の自分を見つけたような。ルキウスは思わず笑ってしまった。そして、同時にその瞳からは涙がこぼれていた。
「あぁ……あぁ魔女殿……貴方は本当に、酷いお方だ。アルの遺品等では無かったということですか。酷いな。本当に酷いな」
床に赤い剣を突き刺し、その剣の前で『騎士』のように片膝を着き頭を垂れる。
「……赤い竜の騎士。そんな使命等私には関係無い」
ルキウスは言葉を吐き捨てる。
「古の使命等関係無い。これで貴方が殺せるのなら……私は復讐の為に剣を取る」
床から剣を抜き放つ。
復讐の為、そして大切なものを取り戻すためにルキウスは剣を携え部屋から出て行った。
ルキウスの出現に官僚達は驚いたような表情であった。そんな彼らを無視し、ルキウスは宣言する。
「戦いの準備をせよ。私の甲冑を持ってきなさい」
「た、戦いの準備ですと……!? 殿下、いったい何を考えて……」
あわてふためく官僚達を前に、ルキウスは確固たる意思を持った声で言うのだった。
「魔女を討つ」
ルキウスは単身で最果ての森へとやって来ていた。森の入り口に立つと、初めて魔女と出会った日を思い出す。それほど昔ではないはずなのに懐かしいとすら感じた。森の入り口付近は荒野と化している。この荒野にて、ルキウスはペレアス卿を亡き者にした。
単身で乗り込むと話した際、官僚達には断固として拒否された。無理もない。あんな化け物相手に次の国王になるべき人物が単身で向かおうと言うのだ。反対されるに決まっている。それでもルキウスは強行した。すべての反対を押しきり、復讐を遂げるためにやって来た。そして奪われたものを取り返すために。愚かだ。ルキウス自身もそれは理解している。自らが恐ろしいほど愚かだと。それでもルキウスは甲冑に身を包み、赤い剣を携えて魔女のもとへやって来た。
ルキウスは森へと一歩進み出た。だが、また足を止めていた。背後に気配があることを察知し体ごと振り向く。
「……ニーナ、」
奪われた少女が立っていた。そして、そのすぐそばに魔女も。
「ご機嫌よう、騎士様」
「る、ルキウス殿下……!」
「ニーナ! 魔女よ、彼女を離せ」
ルキウスが怒気を含んだ声でそう言うと、魔女は少し悲しそうな目をしつつも頷いた。
「そのように怒らずとも、彼女はお返しいたしますわ。用は済みましたので」
「用、だと?」
「殿方にはとても言えることではありませんわ」
ふふふ、と笑う魔女。ルキウスは腹立たしげに赤い剣を抜き放つ。
「どういう意味だ! 何をした!?」
「そのように怒鳴っては、ニーナ様が怯えてしまいますわ」
ぽん、と魔女がニーナの背中を押した。ニーナは躊躇いがちに魔女に振り返った後、ルキウスのもとへと走ってくる。
「殿下!」
「ニーナ!」
ルキウスは駆け寄ってきたニーナを力一杯抱き締めた。ニーナもそれに答えるかのように抱き返す。
「ニーナ……ニーナ、」
「……殿下」
涙を流してニーナの無事を喜ぶルキウス。そんなルキウスを見て、ニーナの目尻にも嬉し涙が浮かんでくる。
「私のような侍女にまで……本当に、殿下はお優しい方です……」
「ニーナは家族同然だ。当然だろう?」
抱き合う二人に、魔女はなにもしてこない。不振に思ったルキウスが魔女を睨み付けた。
「まぁ怖い。微笑ましく見ていただけですのに」
「父を、兄達を、友を殺した存在を、私は到底許すことなどできない! 魔女ヘレナよ! 私は……貴方を討つ!」
剣を掲げ、ルキウスは魔女を睨む。魔女はそんなルキウスを微笑ましく見つめるだけだ。
「復讐に身を投じて戦いに来たのですか?」
「なら、父上や兄さん達……アルを返してくれ! 私は……」
「そう……浅はかで大変愚かな考えですね」
「ッ!」
ルキウスは踏み込んでいた。上段から魔女を斜めに切り裂く。魔女は血を流しながら大きく後退していた。
「仕損じたか」
「良い太刀筋ですね……見えませんでしたよ」
傷を抑え、魔女は地面に踞る。ルキウスが止めを指すためにまた踏み込んだ。
「待ってください、殿下!」
ルキウスと魔女の間に割り込むようにニーナが立ち塞がった。まるでこの前の逆である。ルキウスは驚きつつその剣を下ろした。
「退くんだニーナ……魔女を許すわけにはいかない」
「そうですよ、ニーナ様。私は殺されるために、」
「そんな話ではありません」
悲しそうな目でニーナは二人の言葉を遮った。
「殿下。復讐で剣を取るのはお止めください」
「ニーナまでそんなことを……!」
「復讐は何も生みません。恨んでもいい、憎んでもいいです。でも、復讐を理由に剣を取るのはお止めください!」
泣きながら、ニーナは訴える。ルキウスの胸に顔を埋めながら、ニーナは言葉を吐き出していた。
「復讐は……何も生みません。復讐で人を殺しても、貴方は後で後悔するだけです! そうやって、また一人で何かを背負うのは止めてください!」
「、! ニーナ、」
「貴方は優しい方です。きっとこの方を復讐で殺したら後悔して、泣いてしまう。そんなのは……そんな姿は、見たくないのです」
涙ながらに訴えるニーナに、たじろくルキウス。いつしか、その手から剣がこぼれ落ちていた。
「あ、」
「ひっく……殿下、私は……貴方にお仕えした時からずっと……お慕い申しておりました」
「え?」
ルキウスは何を言われたのか分からず、不思議そうな瞳でニーナを見た。
「そう、その顔です。気が付いていなかったでしょう? そんな、いつものルキウス殿下を私は……ずっとお慕いしていました。貴方に怒りは似合いません。だからどうか……どうか、怒りを沈めて下さい。復讐等で剣を取らないで下さい」
「……ニーナ、!」
唐突に、ルキウスが動いた。ニーナを守るように。ニーナの背後から飛来した何かをとっさに剣を拾い上げ弾き返す。そして、ニーナに指先を向ける魔女へルキウスは走った。
「殿下!」
ニーナの声を無視し、魔女へと肉薄する。魔女はふわりと空中へと浮かび上がるもルキウスは地面を蹴り魔女を追う。魔女へと剣を突き立てるようにルキウスが剣を降ろす。魔女を覆う障壁が突き立てられる剣を遮った。だが、赤い刀身は障壁へぶつかるとガラスを割るように障壁を突き破る。
「っ!」
魔女は危険を察知して風を巻き起こしルキウスの体を吹き飛ばした。吹き飛ばされたルキウスは地面に叩きつけられる直前で体勢を立て直し左手の盾を構える。その瞬間にルキウスを追撃していた魔女の炎弾が盾に直撃して霧散していた。
ニーナはハラハラとした面持ちで二人の戦闘を見つめる事しか出来ない。
「殿下……ヘレナ……さん……」
祈るように胸の前で手を組み、ニーナはその戦いを見守っていた。
繰り返し出される炎弾を避け、盾で受け止めつつルキウスは徐々に魔女との距離を詰めていく。魔女はそんな騎士に向かって油断なく炎弾を放ちつつ心中で苦笑した。
「人身爆破は赤い竜の抗魔力もあると効かないものですね……」
握っては開き、握っては開きを何度も繰り返している左手は虚空を握っているだけだった。あんなにも多くの人間を殺した爆砕の魔法はルキウスに一切効いていない。恐らくルキウスとしては誰かに手を握られている程度の感触しか無いだろう。本当は心臓を掌握し心臓を爆弾として起爆して人体ごと爆砕する魔法なのだがいかんせん魔法に対しての抵抗力が無いモノに対しては絶大な力を発揮するが魔法に対しての抵抗力が高いルキウスにはそもそも効かない。その為直接攻撃に切り替えざるを得ないとして炎弾での攻撃を行なっているのだが、その攻撃ですら易々と攻略してくる辺り、
「流石は赤い竜の騎士、と言ったところですか」
苦笑せざるを得ない。魔女は爆砕を諦めて騎士の足元から竜巻を巻き起こした。
「!?」
「殿下っ!」
上空に巻き上げられるルキウスに短い悲鳴を上げるニーナ。ルキウスはされるがままに巻き上げられるだけだ。鋭い風に切り刻まれるのでは無いだろうかとハラハラしながらニーナが見上げているが、ルキウスの断末魔は聞こえてこない。
「えっ?」
明らかに、魔女が動揺した声を上げた。ニーナはその声に反応して魔女を見る。魔女は驚愕に目を見開き巻き上げられたルキウスを見上げているだけだ。
竜巻は既にルキウスが見えなくなるほど高く巻き上げている。それでも、魔女は騎士を見上げた。信じられないと言った表情で。
「そんな……風を、」
「ヘレナさん……?」
「風を、”蹴る”だなんて……!」
魔女の悲鳴じみた声が上がる。
確かに、この戦は負けるつもりで魔女は挑んだ。でもただで負ける気は無かった。しっかりと戦うことが騎士への礼儀だと彼女は”殿下”から学んでいる。故に手を抜く気も無かった。本格的に殺すつもりで殺意はあったのだ。それでも、それだけは考えていなかった。
飛来するは騎士。いや、飛来ではない。あれは単純な落下だ。視野に入って認識した時には既に遅かった。
上空から落下する騎士は垂直に立てた剣の切っ先を下げ、一直線に魔女目掛けて落ちてくる。
轟音と共に地面に叩きつけられた魔女。彼女の体の中心部には見事に赤い刀身が突き刺さっていた。
「、殿下……?」
少女が声を掛けるも騎士は剣の柄から手を離そうとはしない。剣によって地面に縫い付けられた魔女が血を吐きながら笑った。
「貴方は……本当に……臆病なのです、ね」
「………………私、は」
「私は、貴方の……仇、なのですよ……どうして、」
どうして、と魔女は繰り返していた。少女は騎士の元へと走った。その背中は小刻みに震えている。落下の衝撃は騎士にも大きなダメージを与えていた。証拠に彼の脚甲が砕かれてしまっていたのだ。だが傍に寄る前に少女はその脚を止めていた。
「殿下……」
「どうして……どうして私は、!」
声を荒げる騎士に、魔女は尚も笑っていた。
「臆病……いい、え……こふ、貴方は本当に、お優しい方」
微笑む魔女。頬に触れようとした手が滑り落ち、魔女は事切れた。少女はゆっくりと騎士の元へと歩いて行き騎士の傍に寄り添った。程なくして、魔女の体が砂となり風に舞い散っていった。騎士が持っていた剣もゆっくりと刀身から燃えていき、ゆっくりと灰になっていく。
「私は……私、は」
「殿下」
騎士は少女を無我夢中で掻き抱いた。溢れるものを止めようとするように。少女はそれに応えるだけだ。
「殿下。貴方の作る国はきっとお優しい。とても優しい国になるでしょう。えぇ、きっと」
子供をあやすように背中を撫でる少女。騎士は何かを抑えこむように少女を抱きしめる。母に縋る怯えた少年のようだ。仇敵を倒したというのに騎士の瞳からは何かが溢れていた。
カストゥール王国の各地で、異常なことが起きたという報告が上がっていた。曰く、使用していた『エーテル』が溶け出して赤い液体になった、と。液体と化したそれには既になんの効力も無くなっていたと言う。ある場所では明かりがわりに使用している最中に光が消え、赤い液体が降ってきた。ある場所では調理用の火を着けようとしたところ液体になって使えなくなってしまった。そして、玉座の間の片隅に落ちていたモルド王の王冠はエーテルが溶け出し、まるで王冠が泣いているように見えたと言う。王冠はしばらく使用されていなかった由緒正しき蒼い宝玉が埋め込まれた王冠が使用されることになった。そして戦争の種として存在していたエーテルが失くなった途端、戦争は唐突に終了した。完全に平和になったとは思えないが、少なくとも戦争の無い時代はカストゥール王国に訪れていた。
魔女に関しては恨んでもいる。憎んでもいる。あのとき泣いた理由はいまだに分からない。こうして王位を継いだ今でもルキウスには分からなかった。
「父上、お呼びでしょうか」
趣味の絵画に勤しんでいる最中、呼びつけていた息子が姿を表した。
「おお、来たか」
王は筆を水に浸しながら息子を出迎える。息子は呼びつけられた理由が思い付かないのか、恐々とした様子で王を見ていた。
「記憶を継ぐのが人と言うものだ」
「え?」
「お前も良い年になったからな。昔話をしようと思ったんだ。座りなさい」
でもこれは、彼の復讐だった。
「さて、昔々」
人に、記憶していなくても良い記憶など存在しないことを証明する為に。
「最果ての森の奥には、魔女が住んでいた」